4.献杯

4-1

 レギュラス・グレイは、騎士であった。

 

 この国を外敵から守る盾にして矛。

 武門の家系として名を馳せたグレイ家の次男として、彼はその生涯を、民を守るための務めに殉じるものと信じ疑わなかった。

 

 彼の天地がひっくり返されたのは、数年前、王宮に政争の嵐の吹き荒れたときであった。

 民を守るための刃で、ただ自分の上司が所属する陣営と敵対しているという理由だけで昨日までの仲間を切り捨てたとき、彼の心に罅が入った。

 その罅を隠し通せるだけの器用さを、そのときの彼は持ち合わせておらず、ただ一言奏上した忠言によって、彼は辺境の地へと左遷されることとなる。


 その地にて一体彼が何を学び、何を得て、何を捨てたのか、知るものはいない。

 確かなのは、彼が再び帝都に帰ってきたとき、彼は既に傭兵団の団長であったことだけ。

 ほどなくして組合組織に組みこまれた彼は、騎士の手の届かぬ場所にて民を守ることに腐心した。


 しかし。

 その頃には、既に嵐の治まった王宮は毒の壺と化していたのだ。

 その中でも最も濃い毒を垂れ流す一人の男は、自らの手駒の一つとして、傭兵組合に目をつけた。


 レギュラスは抗い、戦い、負けた。

 仲間の命をいくつ失ったときだろうか、彼は手の内に残った仲間たちを守るため、自らを組合長の職に就け、その男に恭順する道を選んだ。


 そして、今――。


 どう、と。

 地に倒れ伏した巨体が、びくりびくりと痙攣し、やがて動かなくなった。


 彼は、戦っていたのだ。

 魔導花の魔力がもたらす破壊衝動に脳を焦がされ、それでも、被害を最小限に食い止めるため、僅かに残った理性をかき集めて、その狙いをウシオ様一人に向けた。


 かの男ならば、怪物自分を止めてくれると信じて。


 今宵、彼は勝ったのだろうか。

 それとも、負けたのだろうか。

 ウシオ様が騎士の作法によって彼に相対した時、その白濁した眼から溢れ出した涙の意味を、一体誰が知れるだろう。


 風が一陣。

 怪物の体を撫でて吹き、砂煙を天に舞い上げた。

 さやさやと照る月光の下、半裸の男がゆっくりと立ち上がる。


「ったく、つまんねぇケンカだったぜ」

「お疲れ~」

「おう」

 先ほどの所業などまるでなかったかのように振る舞う二人の少年が、ゴイル侯爵へと目線を向けた。


「ば、ばかな……。エレクト三株……龍種に匹敵する魔力量だぞ。たかだか剣一振りで倒せるはずがない。いつの間に……いや、一体、どれほどの強化魔法バフ・マジックを使ったというのだ――」

「はっはっは。知らねえなら教えてやる。気合と根性だ」

 そして、ぐるりと肩を廻しながら、こちらへ歩みを進めてくる。


「待て。待ちたまえ。その老兵の敵討ちでもするつもりかね? 馬鹿なことはやめたまえ。もっと――」

「はっ。アホなこと言ってんじゃないわよ。昔馴染みの墓参りだかなんだか知んないけど、こっちの忠告無視して一人で出歩いた挙句に敵に取っ捕まったマヌケなオヤジの仇なんか、何で私たちが取んないといけないわけ?」


 クズの少女が、腰の引けた老人を傲岸に見下し、毒を吐く。


「そうだな。捕まったのも操られたのも俺にケンカ吹っ掛けて死んだのも、おやっさんが弱かっただけのこった。覚悟くらい決めてただろ」

「そもそもさぁ、僕、あんまりこの人好きじゃなかったんだよね~。椅子で寝てると風邪引くからちゃんと寝床行けとか、子供が酒ばっかり飲んでんな、とか、口煩くて大変だったんだから」

「そうそう。最初に組合の会計乗っ取ったときもさ。役員の給料ごっそりカットしてやろうと思ったのに、このオッサン端から全然自分の取り分貰ってないんだもん。いてもいなくても変んないわよ」


 誰か、この冒涜的な言葉を吐き続ける三悪党の顔を、見たものがあっただろうか。


「つうわけだ。安心しろよ、侯爵サマ――」


 三人の発する言葉と共に、彼らの纏う空気が粘度を持って歪んでいくかのような幻視を覚える。

 魂が地の底に引きずり込まれるような悪寒。

 よこしまで、禍々しく、それでいて、恐ろしいほどに静謐な――。





「ひ、ひぃ」

 をまともに直視してしまったゴイル侯爵が縮み上がり、こちらへ向かって駆けだした。

 戦の基本は、相手の弱いところから。

 先のミソノ様の言葉通りに、彼女へ向かって醜く節くれだった手が伸ばされる。

 この距離からでは、いかなウシオ様とて助けの手も間に合わない。


 私は。

 半歩分、身を翻し。

 風を含んで広がったスカートの奥から。

 ガーターベルトに括ってあった、暗緑色の鞘に収まった短剣を、鞘ごと引き抜いた。


 めき。


 それを、醜悪な老人の鼻面に叩き込む。

「ぶぎゅ」

 潰れた鼻から血が噴き出し、その皺の寄った双眸に涙が溢れ出る。

 顔を抑えることでがら空きとなった胴に、すかさず鞘の先端を突き込む。

「んんん!!」

 呼吸を封じられたゴイル侯爵は悶絶し、膝をついて蹲った。


 そして。


 私の後ろから歩み寄った黒髪の少女が、その上等な仕立てのスカートから大きく足をからげ、哀れな老人の頭を踏みつけた。


 べしゃり、と、血に濡れた顔面が地面にめり込む。



『あのクソ貴族が泣きわめいて土下座するまで、しくじるなよ』



「……約束は果たしたわよ。クソオヤジ」


 乾いた風に乗り、その呟きが月光の中に溶けていった。

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