3-5
るるるゎゎぁぁぁあああああんんん。
巨大な。
恐ろしく巨大な拳が、縦横無尽に暴れまわっていた。
その一つで人間一人分はありそうなサイズの握り拳が、床を、壁を、天井を破壊していく。
その体は不自然に隆起した灰色の筋肉に覆われ、赤黒い花を三つ咲かせた頭部は、それでも元の人間の様子をかろうじて残している。
白目を剥き、鼻から口から粘ついた液体を垂れ流す、見るも無残な顔。
それは、傭兵組合の元締め――レギュラス・グレイの顔だった。
「こ、んのクソオヤジ! あっさり操られてんじゃないわよ!」
「ミソノ様、とりあえず逃げませんと!」
「あはは。これじゃお屋敷崩れちゃうねぇ~」
轟音。
怒号。
悲鳴。
遠くから近くから聞こえるそれらの音を振り切って、私たちは中庭へと避難した。
怪物の奇声が響く度、破壊の音がそれに続き、屋敷全体を震わせていく。
私たちと同じように中庭へ逃げ出してきた数名の使用人。その中の、額から血を流す若い男の背に、飛来した瓦礫が激突した。
藍色の夕闇の中に、土煙と血の香が立ち上る。
そして。
るぅぅををぉぉぉぉおおんんんん。
分厚い屋敷の壁を砕いて吹き飛ばされた瓦礫の中に混じって、半裸の大男が転がり出てきた。
「ぐ……ぉぉ」
砂煙を捲いて立ち上がったウシオ様の左の肩に大きな痣。乱れた黒髪からは、血の筋が一つ。
その視線の先には――。
ふしゅ。
ふしゅる。
ふぅぅぅぅぅぅ。
元の身体の三倍ほどに膨れ上がった歪な筋肉の塊。傷一つないその体躯を地響きと共に歩み進める怪物の姿。
「ひ……あ」
怪物の歩みの先には、どうやら足を挫いたらしい使用人の一人が頽れていた。
彼の同僚らしき男が遠方から彼を助けようと駆けだし、それを別の仲間に引き留められているのが見える。
一歩。
二歩。
「た。たす――」
三歩目で、命乞いの言葉ごとその頭部を踏み潰した怪物が、両拳を地に着き、駆け出した。
ぐしゃ。
肉の弾ける音がそれに尾を引く。
その歩数と同じ分だけの陥没を地面に作りながら突撃する怪物は、真っ直ぐにウシオ様へ襲い掛かった。
その巨体からは想像もできないスピードで距離を詰め、豪腕を振り回す。
ずるり、と、流体のような動きでそれを躱したウシオ様が怪物の脇へ身を翻し、拳を放った。
づむ。
その拳が丸々見えなくなるほど深く怪物の脇へ突き込まれ、赤黒い血反吐が撒き散らされる。
すかさず真横に振るわれた巨大な拳を、地に沈み込むような動きで躱す。
瞬間、ウシオ様の両肩から先が消え失せた。
ずぱぁぁん!!
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
それこそ、怪物によって両腕を引きちぎられたのかと錯覚したが、罅割れた地面の中心に立つウシオ様の五体は健在である。
代わりに、その巨体の前面、それも正中線を綺麗に五つ陥没させた怪物がのけ反り、虚空へ向けて喀血した。
私の耳には雷の魔術が炸裂したかのような音が一つ弾けたようにしか聞こえなかったが、どうやらあの一瞬で五発の拳を叩きこんでいたらしい。
改めてその異常な格闘術に私が戦慄したのも束の間、のけ反った巨体が再びその拳を握り締め、振り下ろした。
ウシオ様が後ろに飛び下がった一瞬後、その地面が爆発した。
耳を聾するような爆音と共に大量の土砂が弾け飛び、ウシオ様の身体が宙に浮く。
それを、怪物の拳が横殴りにした。
ごしゃ、と怖気を振るわせる音が響き、半裸の身体が地面をバウンドしながら転がっていく。
それを呆然と見やる私の目には、さらに歩みを進める怪物の身体につけられた五つの傷が、灰色の煙を上げながら治癒していくさまが映っている。
その歩みの先で大の字に寝転んだウシオ様に、起き上がる気配はない。
……歯が立たない。
あの、飛竜をも倒した男が。
「は。はは。ははははは」
その時、乾いた笑いが私たちの背後から発された。
振り返れば、顔と衣服を埃塗れにしたゴイル侯爵が、醜悪な笑みを浮かべて自らの屋敷で起こった惨劇を眺めていた。
「やはり三つ咲かせると違いますなぁ」
「あんたね。お薬は用法用量を守って正しく服用しなさいって、習わなかったの?」
「ははは。苦情はあの強情な組合長に言っておやりなさい。一つ二つのエレクトでは彼の理性を融かすことが出来なかったのですよ。その代わり……御覧なさい。人の身に余る魔力を流し込まれたせいで膨れ上がった筋肉の山。それでいて歴戦の傭兵の本能に刻み込まれた戦闘術。傷ついた体を瞬時に修復する治癒力。これこそまさに究極の兵器……」
「ふん。くっだらないわねぇ」
「この期に及んで虚勢を張れるとは、いやはや、やはり大した小娘だ」
「ばーか。ただの客観的な観測よ」
「……は?」
両腕を組み、不機嫌そうな表情で地獄と化した中庭を眺める黒髪の少女を、この時初めて、ゴイル侯爵は不気味そうに見つめた。
「あのクソ頑固オヤジの理性を融かしたって?」
ふしゅる、ふしゅると、吐息で唾液を泡立たせながら歩みを進める怪物。
「なら、なんであいつは私を狙わないの?」
「な、なんだと……?」
「どっからどう見たってこの場で一番弱いのは私よ。戦は相手の弱いところから叩く。歴戦の傭兵とやらがそんな程度のことも分からないって?」
「それは……」
「あのクソオヤジが今戦ってるのはシオじゃない。……あんたよ」
その時。
宵闇に立ち込める砂煙の中に、一筋の光明が瞬いた。
月明かりを跳ね返すは、一振りの剣。
それを握る、執事服の青年の姿。
あれは、レンタロウ様?
一体、いつの間に……。
いや、それより、何をするつもりだ?
まさか、彼が戦う気か?
ざしゅ。
そんな私の戸惑いを晴らすように、大の字に倒れ込むウシオ様の体の横に、その剣が突き立てられた。
そして。
「も~。なにしてるのさ、シオ君」
その腹を、蹴った。
「「!?」」
遠目にそれを見ていた私とゴイル侯爵が息を呑む。
身じろぎもせずにそれを受け止めたウシオ様へ、レンタロウ様は腰を屈めて言葉を紡いだ。
「あのさぁ、シオ君。そりゃ
「……」
ゆっくりと、ウシオ様が身を起こした。
「……ああ。そりゃまずいなぁ」
「これ、多分レギュラスさんの剣」
「おう。騙されてやるぜ、レン太」
その、どこにでもありそうな剣の柄を握り締め、ウシオ様が立ち上がる。
そうこうしているうちにあと数歩のところまで迫っていた怪物へ、正対した。
「得物使うのは趣味じゃねえんだが、まあ、
そう言って、左半身を引いて右手に剣を構え、真っ直ぐに相手へと向けた。
それは、この国の騎士が用いる、正式な決闘の構え。
見事に洗練されたその構えを見て、怪物の動きが止まった。
その、白目を剥いた瞳から、涙の筋が流れる。
る。
るる。
るぅぅををぉぉぉぁぁああああ!!!!
特大の咆哮を一つ。
巨岩の如き拳が振り上げられたのも束の間、神速の閃きが奔る。
その肘の裏側を切りつけられた腕が力を失くす。
すかさず繰り出された前蹴りが、煙が絡みつくような動きで躱されたと思いきや、脛の裏側に閃いた刃が筋を断ち切る。
頽れた巨体を守るように残った片腕が掲げられ、隙の空いた脇腹が深々と切り裂かれる。
恐らく肺腑を切られたのだろう。泡立つような血飛沫がウシオ様の裸体を濡らす。
それが、軽やかに宙へ舞い。
「あばよ、おやっさん」
怪物の頭蓋に、深々と剣が刺さった。
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