3-2

《とある騎士隊長の敗北》



 赤々と、火が燃えていた。


 レストレンジ侯爵家の屋敷は既に半分ほどが炎と煙に包み込まれ、帝都の夜闇に祝祭のような明かりを浮かび上がらせている。

 草木が焼け、硝子は溶け、鉄は燻され、肉は焦がされ、鼻の麻痺しそうな臭気が敷地中に充満している。

 

 倒壊する壁。

 逃げ惑う人々の悲鳴。

 男たちの怒号。


 そして。


 るをぉぉぉぉぉぉん。


 額に暗紅色の花を咲かせた、化け物どもの奇声。


「怯むな! 一匹たりとも逃すことは許さん!」


 僕の発破が仲間たちに聞こえているかどうか、確かめる術もない。

 眼前に振り下ろされた巨岩のような拳を避けるだけで、こちらも手一杯だ。

 元が人間だったことなど、その変化へんげの様をこの目で見ていなければ到底信じられなかっただろう。

 アンバランスな筋肉のせいで直立することも出来ず、狒々バブーンの如くに両拳を地につけてなお、私の目線よりも高い位置に頭がある。

 白目を剥き、耳元まで裂けた口から粘ついた涎を撒き散らし、咆哮を放つ悍ましい怪物。


 その重心が左に傾いたのを見た時、ほとんど反射で僕の身体が盾を構えた。

 己の命を懸ける、その覚悟を決める時間は一秒未満。

 左足を軸にし、振り下ろされた拳を盾の湾曲で受け流すパリング

 そのまま円の動きで怪物の右脇へ体を滑らせ、すれ違いざまに胴を薙ぐ。

 確かな手応えの数瞬後、地を砕く轟音。

 さきほどまで僕のいた地面が深く陥没している。


 薄氷の上を踏み渡るような攻防を、もう何度繰り返したか分からない。

 こちらの剣は間違いなく化け物の身体に痛痒ダメージを与えているはずだが、それがどれだけ体力ヒットポイントを減らしているのだか、相手の様子からは伺い知れない。

 剣の柄を握り直した掌に汗が滲む。


「ぐおおお!!」「今だ!」「固まれえええ!!」「回り込め!」「交代! 交代!!」「今行く!!」「がああ!!」「持ちこたえろ!」「大丈夫だ!」「このバケモノがあ!!」「根性見せろてめえら!」「おおおお!!!」


 四方八方から、部下の騎士たちと、傭兵の男たちの奮戦する声が聞こえてくる。

 

 一匹の化け物につき、常に四人以上で相対すること。

 騎士道精神をこの夜だけは忘れること。

 絶対に死なないこと。


 今のところ、命令違反者はいないようだ。


 いやはや、あの荒くれたちが大人しく僕の指揮下に加わってくれるとは。ミソノ君、今回は一体どんな謀略を用いたのだろう。

 だが、今は頼りになる仲間が増えたことに感謝こそすれ、その手管を追求する余裕などあるはずもない。


 敵方の隙を突いて戦況を見渡し、その優勢を見て安堵する気持ちを僅かに抱いてしまった僕の手足に、鉛のような疲労感が押し寄せる。

 まったく、格好つけて『僕は一人で十分だ』などと言うんじゃあなかった。

 だが、先日のウシオ君との決闘では随分と格好悪いところを見られてしまったからね。

 ここで一つ、名誉挽回といこうじゃないか。


『待ってくれ、ミソノ君。僕たちの師団長が、なんだって?』


 そうだ。

 僕はもう、騎士としてありうべからざる大敗を喫している。


『はあ? 二度も言わせんじゃないわよ。あんたんとこのレストレンジとかいう団長がゴラス家と密通してるっつってんの』

『しかし……』

『あのねぇ。なんのためにあんたに第二師団潰させたと思ってんの? その後の反応でどいつが黒か試験するためでしょ? 真っ黒よ。真っ黒。あんたんとこの師団長』

『そんな、馬鹿な……。師団長は、僕がゴイル侯爵の悪事を追求することを咎めはしなかった。口にも繁く、あの悪党を野放しには出来ない、と』

『野放しには出来ないと、その先は? どうせ確かな証拠がなければなんとかかんとか言って、具体的には何もしなかったんじゃないの? 口で言うだけなら誰だって何とだって言えるわよ。あんたね、いい加減自分が何と戦ってるか自覚したら? 悪党相手に何のモラルを期待してるわけ?』


 ミソノ君の言葉に、僕は何を言い返すこともできなかった。

 強盗。恐喝。暗殺。人攫い。

 僕が隊長に赴任してよりこのかた、この都で行われた悪行の数々。

 そして、その何倍もの被害を受けている国土の民たち。

 彼が生産し流出させた麻薬によって、いくつかの都市は深刻な薬物汚染に見舞われている。姦吏による法外な重税で苦しめられる地方の領民の人心は荒廃し、都に納められる税収も減少の一途を辿っているという。


 ならばこれは、僕の罪だ。


 しかし、侯爵家でありながら莫大な利権を握る彼の懐に手を伸ばすのは至難だった。

 幾度となく伸ばした捜査の手は時に巧妙に、時に強引に振り払われ、その度に僕は己の無力に打ちひしがれてきた。


 だが。


『くっっっだらない』


 その一言で全てを嘲笑った少女の手で、今、確かにゴイル家の喉元には刃が突き付けられている。

 あの黒髪の少女は、かの大商会の名を騙った詐欺によって得た金貨袋で、レストレンジ師団長の頬を張ったのだ。

 つまり、自領の民を守るために買収されていた彼を、汚濁に塗れた金で

 それは確かに、僕だけでは到底のこと、用意不可能な刃であった。


 そうだ、僕は負けた。

 この都に来て半年足らずの少年少女に。


 だから、これ以上は――。


 るぅぅををぉぉぉぉおおおおお。


 低く棚引く怪声。

 巌のような体躯。


 対するは、この身一つと、剣一振り。


 さあ、思い出せ。

 信頼できる仲間たち。

 守るべき市井の民。

 僕に力を与えてくれるものたちの姿を。


 五体は精到。

 意気は軒昂。

 心意は不屈。


 なればこそ、我は不敗なり。



「HAHAHA! 心を亡くした哀れな戦士よ! せめてこの誉ある一剣の錆としてくれよう! さあ、どこからでもかかってくるがいい!!」



 いつも通りに、僕は精一杯の虚勢を絞り出し、叫んだ。




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