3.彼は敗者だったか
3-1
《とある侯爵家当主の盤面》
それは、手足の細い子供であった。
ほとんど骨と皮だけであった体に、ここ数日で僅かにつけた肉が乗り、それでも吹けば飛ぶような弱々しい姿で革張りの椅子の上に寝転がっている。
膝を抱えて丸くなり、すやすやと平和な寝息を立てるその女児に、私は優しく声をかけた。
「キャシー。もう夕方だよ。さあ、ご飯を食べよう」
その声に、バネを弾いたように小さな体が跳ね上がり、私の足元へと駆けこんできた。
「おはようございます、おじさま!」
丁寧に櫛を入れられた砂色の髪が柔らかく揺れる。
それを慎重に撫でさすると、まるで陽の光でも浴びるように、くしゃりと笑みが広がった。
「いい子だね。キャシー。今日もしっかり働いてくれてありがとう」
「はい! お花のお世話なら任せてください! 私、食べられる雑草のお世話は得意です!」
「ふふふ。頑張りすぎて疲れてしまったのかな」
「ごめんなさい、西日が気持ちよくて、ついうとうとしてしまいました」
「いいんだよ。さあ、まずは汚れを落とそう。ああ、その前に、暖炉に火を入れておいてくれるかな。夜は冷えるからね」
「はい!」
私は手ずから柔らかなタオルを与えると、色とりどりの花が咲くその部屋を出て、廊下の窓から空を覗いた。
今日もいい天気だ。
この調子なら、星の綺麗な夜になるだろう。
背後の扉の奥から、がさごそと身支度を整える声が聞こえる。
いや、まったく。久し振りにいい拾い物をしたものだ。
彼女は、ひと月前までは、この帝都の地の底を這い廻る
そして、私が懇意にしていた国教会の司祭を罠に嵌めて破滅させた下手人の一人でもあった。
その報を聞いた時、私はすぐさま人を遣って、犯人の子供たちを探し出させた。そしてその中の一人に自ら接触し、保護と称して引き取ったのだ。
安全な食事、安心できる寝床、苦痛のない仕事。
彼女たちが喉から手が出るほど欲しているもの、それを私は与えた。
初めは仲間たちを差し置いて自分一人が選ばれたことに戸惑っていたようだったが、助けられるのは一人だけだという話を飲み込んでからは早かった。
ボトル・ベビーたちに何故その名が付けられたかと言えば、成長期を終えるまでに生き残る個体が殆どいないせいでもある。恐らく彼女も、自分と同じ生活をしていた仲間が野垂れ死に、あるいは大した理由もなく悪戯に殺される場面を何度となく見てきたのだろう。
彼女は正しい道を選んだ。
他人を蹴落としてでも、自分一人が生き残る道を、自らの意思で掴み取ったのだ。
『あのね、おじさま。すごく悪いやつがいるの』
彼女が私にもたらしてくれた情報は実に有益であった。
現在傭兵組合に出入している三人の子供たち、その中の一人であるミソノという少女が、ここ一連の事件の首謀者であるのだという。何食わぬ顔で私の屋敷に出入していたレギュラスも含め傭兵たちもそれに加担しており、ボトル・ベビーたちもそれに利用され酷使されているのだとか。
『私たち、悪いことはイヤだって言っても、全然聞いてくれなくて、ほんのちょっとのお小遣いで一日中使い回されて、でも、ご飯が貰えるから、やるしかなくて……』
先日一味の一人であるレンタロウなる変装の達人を捕らえて始末したのだが、彼女の働きによって、どうやら偽物(いや、この場合本物というべきか)を掴まされたらしいことが判った。
確かによくよく調査をしてみれば始末してしまったのは騎士団に私が送り込んだ密偵に違いなく、レンタロウ本人はのうのうと組合に出入している様子である。
お手柄の女児に異国の菓子を褒美としてくれてやると、彼女は感極まった様子で涙目に私を見上げてこう言った。
『おじさま。私、この御恩は忘れません! 大人になったら、「お風呂屋さん」で働いてお金は返しますから!』
子供に何を教えた、ミソノ嬢……。
そんなことはしなくてもいいんだよ、と私は努めて優しい笑顔を作り(どの道大人になるまでには何かしらの実験の被験を務めてもらうのだ)、彼女に屋敷の清掃と花の世話の仕事を与えた。
暗く、紅く、禍々しく、美しい花。
ゴイル家の植物学と私の研究の集大成。
『
流し込まれたものはその肉体・精神を侵食され、人の限界を超えた筋力と餓えた獣のごとき凶暴性、世に流通するどんな麻薬よりも強烈な多幸感を得る代わりに、人としての自我を失う。
それだけではただただ人間を魔獣に変じるだけの凶薬だが、私の調合した薬(『
さあ、いかがでしょう。
この美しい暗紅色の花弁。
観賞用として自室に活けておいて、いざというときの守りに使うもよし。
敵陣に潜り込ませたスパイに持たせ、誰か適当な敵方に使って相手を内側から崩壊させるもよし。
もちろん少々値は張りますが、『クワイエタス』を兵士全員に服用させて、無敵の軍勢を作り出すもよし。
使い方はあなた次第。
そんな文句を謳って、今、私の手勢の貴族家――レストレンジ侯爵の屋敷を使って競売が行われている。
このひと月ほどの間、第八師団の連中が躍起になって取引場所と参加者の動向を探っていたようだが、全く無駄な努力と言わざるを得ない。
何せ、その家は他ならぬ第八師団の師団長の家なのだから。
この日のために彼の家の治める猫の額ほどの領地周りを経済的に締め上げ、我がゴイル家の庇護なくしては立ち行かなくしておいたのだ。
ミソノ嬢とその仲間たちがいくら私の手駒をもいでいこうと、全ては無駄なこと。
多少知恵が回った所で所詮は子供。浅はかなことだ。最終的に今夜の競売を止められないのならば意味はなく、そうはならないように持ちうる限りの手を尽くして偽装を凝らしてきた。
彼らに掴める程度の情報では私が結ぶ手の数の半数も把握できまい。
そして逆に、今の私には彼らの手の内の全てが掌中にあるも同じなのだ。
ミソノ嬢に不満を溜めるボトル・ベビー。それと、もう一人。
長い廊下の端、丁寧に磨かれた黒樫の扉に目を遣ると、どうにも堪えきれなかった笑みが口から零れた。
『おじさま。この扉の先はお掃除しなくていいんですか?』
『ああ、そうだね、キャシー。私の屋敷は広いから、向こう側は別のものが掃除をするんだ。だから、君はあちらへ行ってはいけないよ。他人の仕事を奪うのは良くないことだ』
『分かりました!』
そう。
あの扉の先には、死にかけの年老いた傭兵がいるだけだからね。
迂闊にも一人出歩いていたところをあっけなく捕らえられ、頭の中をかき回され、必要な情報を搾り取られた哀れな老兵。
子供が見るには少々酷だ。
本当に、哀れなことだ。
喉元過ぎればなんとやら。
かつて親友を喪った痛みを、どうやら乗り越えてくれたらしいことは重畳だが、同じ痛みを今の仲間たちに味わわせてどうするというのか。
私があれやこれやと思索にふけっていると、遠く山の端に溶けていた夕陽が、完全に没した。
おお。そろそろ終わる頃かな?
いかんな、どうもそわそわする。
さあて。
誰がいくらの値段で買ってくれるだろうか。
まあ、この国の人間ならば誰でもいい。どの道数か月後には……。
私が気もそぞろにキャシーの身支度を待っていると、廊下の端から、どたばたと忙しく走る足音が聞こえてきた。
おやおや。
全く、品性に欠ける。一体どんな教育を受けて来たのか――。
「大変です、ご当主! 競売に出ていた被験者が全員、暴走しました!」
………おやおや?
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