2.誘拐と脅迫と投資詐欺と冤罪とその他諸々
2-1
《とある侯爵家当主の憂鬱》
さて、困ったことになった。
私は幾枚かのレポートを手繰りながら、重く深い溜息を吐いていた。
目の前の卓に置かれた鉢植えに咲く、暗紅色の花弁をそろりと撫でる。
艶やかな色と、微かに甘い匂い。
私の長年の研究の集大成。
この花は、薬であり、毒であり、兵器だ。これまでの人間の戦争そのものを根底から覆す可能性を秘めた奇跡の魔導花。
それを莫大な金に換えるための取引を来週に控え、本来ならば当日の準備や最終調整に腐心していなければならない時だというのに。
「申し訳ございません……!」
そう。いつだって、私は誰かに足を引っ張られる定めにあるのだ。
目の前で平身低頭する小太りな男の薄くなった頭を、私はしげしげと見下ろしてそう思った。
無理もない。人より先を歩もうと思えば、その踵に引きずられるものが出てくるのは当然のこと。しかし、まあ、まさか長年の仕事仲間にそれをされるとは思ってもみなかった。
「このような事態になるとは、思ってもみず……」
この男は、奴隷商だ。
もう何年越しの付き合いになるだろうか。時に買い手として、ときに仲介として、時には売り手として、いくつもの商品のやりとりをしてきた。
適度に野心家で、適度に謙虚で、適度に遵法精神を持ち、適度にそれを破る。
私が尊ぶのはそのバランス感覚だ。彼はその点信頼のおける取引相手であった。何も一度くらいの失敗で彼を嫌ったりはしないし、そこまで怯えなくともよかろうものだが……。
「構いませんよ。私とあなたの仲です。この度の出費は、友情料金だとでも思っておきましょう」
「……ひっ。……なにとぞ、なにとぞご容赦を……!」
だから、赦すと言っているだろうに……。
端的に言えば、この男は罠に嵌められたのだ。
私の道に落ちる三粒の小石、最近傭兵組合に出入りしているという子供の一人である黒髪の少女を攫ってくるつもりが、捉えたのはなんと公爵家の一人娘であったという。
一体どのようにして入れ替わったというのか、彼女を奴隷に堕とそうと調教を加える直前でそれに気づき、至急当の公爵家に問い合わせをして見れば、すでに先方は噴火寸前の火山のようであった。
何とか彼の部下に全ての責を押し付けると共に多額の賠償金を支払うことで手打ちにしてもらったものの、彼が今後の仕事の規模を縮小することはやむを得ないだろう。
まあ、彼に公的な捜査の手が伸びることは私としても避けたい。
金で解決することは金を払えばよい。
安い額でなかったのは確かで、失望させられたのもまた確かだが、それだけのことだ。
いや、そうか。それだけではなかった。
先日、私が懇意にしている金融業の男が、多額の不渡りを押し付けられ破綻した。
堅実であることをモットーにしていたはずの彼が何故……と訝しんだものの、どうやら詐欺にあったらしい。
それぞれ歴史深い老舗の商家の人間に別々の新規事業の話を持ち掛けられ、まんまと金を貸したところ両者に倒産されたのだとか。
さらには、私が金を握らせ手駒にしていた騎士団の師団長が、汚職の容疑で投獄され。
また、各種取引場所の斡旋をしていた教会の司祭が背信の疑いをかけられ破門。
私の実験施設の一つにあの目障りな第八師団の連中の手が伸びてしまい、また一つ、研究を凍結せざるを得なくなった。
一つ一つを取り上げれば大した事態ではない。
むしろこの程度のトラブルなど十数年の中で幾度となく経験している。
しかし、こうまで立て続けに私に繋がる男たちが潰されていくとなれば、流石に私の身にも小さからぬダメージが入る。事実、今回の一件で、確実に私の財源は目減りしてしまったし、多くの手駒を失うことになった。
だが、まあ。
それも、それだけといえばそれだけのことだ。
損害の原因はもう分かっている。
それを、取り除こう。
「ふぅ! ふぐ! んぐ。ぐ! ぐ!」
私の眼前で平伏せんばかりに頭を下げる奴隷商の男の横で、鉄製の椅子に縛り付けられ、猿轡を嵌められたた少年がじたばたと身悶えていた。
火にくべられた彼の椅子はじりじりと熱を放っており、肉の焦げる匂いが私の鼻腔を擽っている。涙と鼻水に塗れた彼の顔、そこにかかる栗色の髪を引っ張れば、ずるりと剥がれたそのカツラの中から、この国では珍しい黒い髪が現れた。
「ねえ、クスノキ・レンタロウくん?」
「ふぐぅ。むぐ! うう! う!」
「ああ。ちょっと待ってくださいね。今喋れるようにして差し上げます」
私が手持ちの小刀で、彼の頬肉ごと猿轡を切ってやると、ひと際汚い悲鳴が響き渡った。
それでも彼は、己の命を繋ぎ止めるため、必死に言葉を絞り出した。
「ち。ちが! ちがうんだ! 僕じゃない! 僕は――」
ざく。
「んんんん!!!」
おっと、手が滑った。
ついついとうに聞き飽きた台詞が聞こえそうになったものだから。
全く、命乞いほどバリエーションに乏しいものはない。恋人に愛を囁くように、もっと色とりどりの言葉で飾り付ければよいものを。
それにしても、私が手配した騎士団への密偵に成りすまして逆に私の屋敷に潜り込むとは大したものだ。その技能、もっと別の場所で活かせなかったのか。
しかし、まあ。
この男が私の部屋に忍び込もうとしていたところを召使の一人が偶然見つけていなければ、もっと発覚が遅れていてもおかしくなかった。
本来ならば、果実を絞ってジュースを作るように、彼の身体から情報を絞り出したいところではあるのだが、彼にとっては幸か不幸か、彼らは私を侮りすぎた。
どの道、この男が私が裏側で手を結んでいる男たちの情報を流出させたのは確かだ。そこまでわかっていれば、もう十分。
私は、この秘密の部屋を唯一彩る鉢植えに手を伸ばした。
赤い花。
腐れた血のように暗い赤。
その一株を抜き取り、奴隷商の男の肩を叩く。
男の身体が、がくがくと震え出す。
「旦那様。どうか、どうかお赦しください……。それだけは……」
全く、何をそんなに怯えているのやら。
私はとっくに赦している。
だから、今まで共に仕事をしてくれた感謝の気持ちを込めて――。
「せ、せめて薬を。『クワイエタス』を――」
――天国をくれてやろう。
ぶすり。
男の言葉を待たず、私は脂の浮いた額に花の根を突き刺した。
「かひゅ」
男の喉が奇妙な音を立てて、数秒後。
私がその場を立ち去る足音の中に、衣服の弾ける音。
肉の弾ける音。
骨の弾ける音が、断続して響いた。
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