2-4

「逃げましょうミソノ様逃げましょう! はやく!!」

「逆よ、おバカ。絶対に動くんじゃないわよ。この至近距離でがっつり目に入れられてんのに、背中なんか見せたら真っ先に襲い掛かられるわ」

「何をそんな冷静に!」


 腕組みをしたままその場を動こうとしない黒髪の少女の肩を揺さぶっていると、私の背中がばしりと叩かれた。

 うぐ。

 い、息が……。


「落ち着けよサっ子。あいつは俺の獲物だ」

「シオ。そのパンプアップした筋肉で人の背中叩くんじゃないわよ。息詰まってるでしょうが」

「はっはっは。広背筋の鍛え方が足りん!」


 ずしり、ずしり、と。全身から蒸気を燻らせ、半裸の大男が歩みを進める。

 身の丈を優に超える怪物に、正面から、向かい合う。


「サク。今からあの馬鹿が飛竜と殴り合う。最初の一発と同時に少しずつ後ろに下がるわよ。目線は絶対逸らさないように」

 小声で囁きかけるその声に、唾液を飲み下して無理やり気道を確保し、こくこくと頷いた。


 飛竜が、その野太い後脚と、そこに生えた巨大な鉤爪で足元を掻いた。

 苛立たし気に尻尾が揺さぶられ、地を叩く。


さあ兄弟ヘイ・ブラザー。第二ラウンドといこうぜ」


 そんな不遜な声の意味を、理解したのか、いないのか。


「ぎゅぃぃああああああ!!!」

 大翼を広げ、咆哮を一つ。


 づん!!


 飛竜が突撃してきた。

 その瞬間、私の眼前にいたはずの大男の姿が煙のように掻き消える。

 舞い上げられた土埃の煙る視界の彼方、一瞬で彼我の距離を詰めたウシオ様の拳が、飛竜の下顎をかちあげた。


「ぎゅぶ」

 獲物をひきつぶす突撃チャージの、文字通り出鼻を挫かれた飛竜の脚がたたらを踏み、揺れる頭に、今度は綺麗な半月を描く足刀が見舞われた。


「今よ」

 再び低く囁かれた声に応じ、そろりそろりと後ろへ下がる。

 冷汗が頬を伝うのを感じた。


 ぎゅいぃぃぁあああ!!

 じぇあああああああ!!


 そう簡単には巻き添えをくらわないだろう位置まで下がった頃には、飛竜と大男は、どちらのものとも判別しかねる咆哮を交わし合い、拳と爪爪牙尾を交えていた。


「あの。ミソノ様。まさか、本当にこのまま彼一人で討伐を……?」

「ふん。本人がやるっつってんだから仕方ないでしょ。ていうか、この状況であいつ以外にまともな戦力ある?」

「む、無理です。街のゴロツキを相手にするのとはわけが違うんですよ?」

「だから、もう理屈わたし問題でばんじゃないんだって。諦めなさい」

「しかし!」


 食い下がる私を、珍しくミソノ様は憐れむような目で見返してきた。

「あのね、サク。あんた何か勘違いしてるでしょ」

「はい?」

「頭脳労働は私。肉体労働はあの馬鹿。対人交渉はレン。確かに私たち、普段から役割分担はしてるわ。けどね、それは私がシオとレンあいつらをコントロール出来てるって意味じゃない」


 ……え?


「ねえ、サク。普段のあいつを見ててさ。私に比べてな人間に見えた? 馬鹿力だけど気は優しくて頼りになって、話の通じる人間に見えた?」

 

 覗き込むような視線に、思わず言葉を失った。

 確かに、彼は無駄な暴力など振るわないし、腕力を嵩に来て高圧的になることもない。それどころか、旅路の途中でも女の身の私に気を遣う様子を見せたし、帝都ではボトル・ベビーたちに最も懐かれていた。


 しかし。

 そんな彼が、何故今回は罠の破壊などという暴挙に及んだ?


「この機会に覚えときなさい。私たち三人の中で一番頭がイカレてるのは、シオあいつよ」





 ずぇぁあああ!!

 ぎゅるゎぁあ!!


 巨木で横殴りにするかのように、飛竜の尾が振り回される。

 男がそれを地に伏せて避けたと思いきや、すぐさま跳ね起きて脇腹に拳を突き刺す。

 その衝撃を逃がすように飛竜は後ろに飛び下がり、空中で羽ばたきを一つ。巻き起こる暴風に耐えて男の身動きが鈍った所に、尾の叩きつけ。

 それを躱しながら、残像を引くほどの速度で後ろに回り込み、宙に浮く飛竜の膝関節へ飛び蹴り。

 噛みつき。

 昇打。

 鉤爪。

 廻し蹴り。


 朝靄を晴らしゆく東からの光が、その激闘を眩く照らしだす。


 竜退治ドラゴン・スレイと聞いて、何を思い浮かべるだろう。

 輝く鎧に身を包んだ騎士が聖剣を携え、魔術師や重戦士などの仲間と共に巨大な竜を撃ち滅ぼす英雄譚。

 あるいは、千の兵を率いる将軍が知略を用いて悪竜を退ける叙事詩だろうか。

 古来より、竜種との闘いは多くの人々によって武勇の勲章の如くに語り継がれ、私とて咄嗟に二、三は思い当たるほど、数々の物語が存在している。

 

 しかし、一体誰が、こんな闘いを見たことがあるだろう。


 ぎゅ、ぎゅぅ。

 うぉらあ!!!!

 ぎぃゃゃあああ。

 ぜぇあああああ!!!


 身に纏うはボロ布一つ。

 握り締めるは拳一つ。

 武器もなく、魔術もなく、罠もなく、策もなく。

 正面から飛竜と殴り合う男の姿など。


 いつの間にか、私たちの周りには一度逃げたはずの村人たちが集まっていた。

 いつまでも鳴り止まない咆哮の応酬を不審に思った人たちが恐る恐る様子を伺いに来たのを始め、次々とそれに続いた人たちが、固唾を呑んでその闘いを見守っていた。


 その、荒々しく、野蛮で、血腥く、それでいて、何者にも犯しがたい神聖な戦いを。


 ごふっ!

 どこか内臓を傷めでもしたのか、飛竜が喀血した。

 しかしその時には、ウシオ様も既に全身の擦過傷によって血塗れになっていた。

 互いの赤黒い血潮に体を濡らしながら、飛竜が深く体を沈め、飛び上がった。

 それまでの横薙ぎの尾撃ではない。

 宙で縦に回転した体に一拍遅れ、大地を抉りながら振るわれた尾が、正面からウシオ様を襲う。

 辛うじて横に転がって避けたところへ、真上から鉤爪の振り下ろし。

 それを、渦潮のように回転する両腕の動きで捌ききり、致命傷を避ける。

 その代償に切り裂かれた腕から新たな鮮血が吹き出すのを気にもせず、ウシオ様は引っ込められた鉤爪を掴み取り、飛び上がった。


 腕の力だけで宙に舞う飛竜の体に攀じ登り、背面へ。

 狙いは飛竜の飛竜たる所以ゆえん――翼だ。

 その根元を両腕で抱え込み、体を投げ出した。


 ごりゅ。


 聞くに堪えない嫌な音と共に、関節を捻じ曲げられた飛竜の絶叫が天を震わす。


あばよ兄弟ブラボー・ブラ。楽しかったぜ!!」


 もはやその巨体を支えることも叶わず地へ落ちた飛竜の体、その爛々と黄色い眼を燃やす頭部を。


「どぅぉらぁああ!!!」


 直上から、両足が踏み潰した。


 延髄を砕かれた飛竜の体が、二、三度痙攣し、ついに動かなくなった。


 その傍らに立ち上がる、血塗れの男。

 右腕が掲げられ、天に突き出される。

 それを祝福するように朝陽が斜めに差し込み。


『うおおおおおおお!!!!!』


 歓声が、爆発した。


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