2-3
茜に染まりつつある東雲が、朝靄を低く垂れ流していた。
罠作りに使われた金物と人間たちの匂いをごまかすために撒かれた羊の乳が、緩く流れる風に乗って微かに生臭い匂いをそこに混ぜ合わせている。
「一体、なんでこんな……」
呆然とする村人が、もはや無意味なオブジェと化した巨大な罠の跡を囲んでいた。
釣り餌として用意してあった羊は丁寧に脇へ避けさせられ、我関せずと呑気な顔で草を食んでいる。
明らかに人為的な作為がそこにあった。
「やってくれたわね……」
私のすぐ横で、寝起きでぼさぼさになった髪を気にもせずにそれを見やるミソノ様が、低く呻くように言った。
私は周囲の目を憚りつつ、彼女の耳元に顔を寄せた。
「ミソノ様。まさか、村人の中に……」
「はあ? んなわけないでしょ。誰が
「なら――」
その時。
「おい! あれ、あの影!」
村人の一人が、曙光の差す山際の空を指さし、震える声で叫んだ。
全員が弾かれたようにそちらを仰ぎ見れば、紫と橙のコントラストの中に、黒々とした影が飛び上がったのが確かに見えた。
初めは小さく。
けれど、宙を大きく旋回しながら徐々に、徐々に、その影が大きくなっていく。
泡立つように沸々と、村人たちに恐怖が蔓延していく。
さ、最悪だ。
なぜこのタイミングで。
蜥蜴の頭、蝙蝠の翼、猛禽の脚、毒蛇の尾。
しかしてその体躯は、巨象の如き――。
「
ついに呼ばわれたその名に、一気にパニックが起こった。
「ひ、ひぃぃ!」
我先に家屋の中に避難しようと駆けだす村人たちに続こうと、私も踵を返した。
しかし、私の横に立ち尽くす少女が微動だにしない。
「ミソノ様! こうなってはもう為す術などありません。早く逃げませんと!」
「なに言ってんの。あいつの腹掻っ捌くために来たんでしょ? 確かにクソアホ大馬鹿野郎のせいで手間は増えたけど、なんで逃げなきゃなんないのよ」
「いや、……え? 罠も使わずにどうやってあれを倒すと!?」
「ふん。よく見なさい」
あくまでも不遜な態度を崩さないその少女の、それでも不機嫌さを隠しきれていない声に促され、改めて空を飛ぶ飛竜の姿を注視してみれば、その姿には奇妙な違和感があった。
飛び方がぎこちないのだ。
はためかせる翼は動きが不揃いで、その体が忙しなく上下に揺れている。
進路は間違いなくこちらへ向かっているのだが、時折左右へ体を振るい、まるで、何か身に纏わりつくものを落とそうとしているような……。
「……………………まさか」
ぉぉぉぉぉぉぉぉ。
小さく、小さく、それでも確かに、上空から叫び声が聞こえる。
明らかに飛竜のものではないそれは、無駄によく響くバス・ボイス。
「うおおおおおおお!!!」
飛竜の首元に縋り付き、共に大空を飛び回っている、あの男は――。
「ウシオ様!?!?」
間違いない。
理由はさっぱり分からないし何故そんなことが可能なのか皆目見当もつかないが、あの脳筋男は夜陰に乗じて村を抜け出し、わざわざ山に籠っている飛竜に喧嘩を吹っ掛けに行ったのだ。
行きの馬車の中であれだけ不満たらたらであったにも拘わらず、村に着いてからはやけに大人しく作業に従事していると思ったら……。
徐々に明るさを増していく空の中で舞い踊る大きな影。
それが、大小二つに分離した。
ウシオ様が、ついに振り落とされたのだ。
「ぉぉぉぉおおおおおお!!!!」
まずい。落ちる!
そんなことを思った束の間、何をする余裕も時間もなく、私とミソノ様の眼前に、半裸の男が落下してきた。
咄嗟に惨劇を覚悟した私の耳に、意外なほど小さな衝撃音が聞こえ、両手を頭の後ろに組んだまま奇妙な半円を描いて転がったウシオ様が、何事もなかったように立ち上がった。
「よう。サっ子にソノ子。いい朝だな!!」
無駄にいい声で、無駄に爽やかに笑うその顔に、一切の邪気はなかった。
「あんた、五点接地なんかどこで習ったのよ」
「さあ? 覚えてねえけど、五歳かそこらの時には出来たぞ。俺も死にたくなかったからな」
「クソみたいなガキね」
「な……あ……」
一体どこから何に言及すればいいものやら、恥ずかしながらその場で立ち尽くしてしまった私をよそに、ぱたぱたと草と土埃を払う大男にミソノ様が歩み寄っていった。
「て・い・う・か! あんたがあのクソトカゲに喧嘩売るのは勝手だけどね、何を人が作ったトラップぶっ壊してんのよ!? これやる意味ある!?」
「はっはっは。おいおいソノ子。俺がやったって証拠でもあるの――」
「あんた以外の誰が飛竜の重量想定して作った罠空回りさせられるってのよ!」
「おいレン太、どうなってんだ。一瞬でバレたぞ」
「
悪びれる様子も見せずに己の犯行を自白した脳筋男に、クズの少女はげしげしと蹴りを加える。それを微動だにせずに受け止める筋肉の鎧が、心なしか、平時よりも膨らんでいるように見えた。朝靄の纏わりつく払暁の薄闇の中で、彼の全身が微かに蒸気を上げているのが分かった。
そして、我々の頭上を過ぎる、巨大な影。
ばさり、ばさりと、吹き荒ぶ嵐のような暴風を呼ぶ羽音。
づん!!
地を揺さぶる衝撃と共に、暗緑色の鱗も禍々しく、翼持つ竜が舞い降りた。
実のところ私は、帝都から外に出た経験というものが乏しい。
物心ついた時にはボトル・ベビーの一人として暗闇を這いずり回って生きていたし、手足の伸び切る前には気まぐれに目をつけられた貴族の手で王宮へと召し抱えらえた。
なので、いわゆる
しかし。
それでも、なんとなく察しがついてしまった。
「ぐる。ぎゅぎゅ。ぐるるるる」
熱気を感じるほどの吐息を燻ぶらせる大顎。
時折地へ叩きつけられる長大な尾。
爛々と輝く黄色い瞳。
あの。
ひょっとして、怒ってらっしゃいます?
「ぎゅぃぃぃぃぃぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!!」
ですよねえ!
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