私は退職に未練はない

未琳

ご挨拶

 私は来月末、退職が正式に決まりました。

 入社して約5年、学生時代から甘ったれで根性なしだと自覚していた私ながら、結構頑張り続けたのではないかと思います。

 自分が希望した職種で、給料もまあまあ良い会社です。会社に行くのがしんどいなと思う日がありつつも、やりがいを感じていたのは確かだと胸を張って言えます。


 私が退職を決めたきっかけは、職場の人間関係でした。ひとりの職員との関係に悩み続け、上司に相談しても解決せず、関係は悪化し続けました。

 せめて、業務上の会話だけで済む仲で収まればよかったのですが、それすら成立しない関係にまで陥りました。

 私にとってその職員は常識外の人間でした。子供のような、動物のような、宇宙人のような、理解不能の存在でした。


 その職員は、私より2年後輩でした。しかし年齢は私より一回り年上以上なので、私は敬語で接していました。

 入社当初は誰しも猫を被るものだと思っていましたが、職員は初日から禁煙の職場内で堂々と煙草を吸っていました。電子煙草だから良いと思ってたのでしょうか。それとも「禁煙」のポスターを貼らなかったこちらに落ち度があったのでしょうか。私は非喫煙者なので電子煙草でも充分臭いが分かります。還暦手前で禁煙に成功した父が言っていました。禁煙してから煙草のケムリが臭うようになったと。喫煙者は電子煙草の臭いに鈍いのかもしれません。無知な私は最初、職員が吸っているものがなんなのか、コンセントが焼け焦げたような独特の臭いがなんなのか分かりませんでした。まさか上司が注意して初めてそれが電子煙草で、それが部屋に充満した臭いだとは思いもよりませんでした。

 上司が一度注意したところで、職員が職場内でしばらく喫煙を止めなかったことで、私は私の常識を疑いました。

 上司だけでなく、他人に注意されたら同じ行為を繰り返さないと、大人になれば分かることだろうに、なぜこの職員は一向に理解しないのかと不思議に思いました。


 やがて職員は、会社で挨拶や返事をしなくなりました。「おはようございます」「お疲れさまです」「よろしくお願いします」「ありがとうございます」「はい・いいえ」を、ここ1年その言葉を職員の口から聞いていません。私が確認事項があると訊ねても口を開けません。「はい」だけで済む返事も言いません。私との会話は無駄話だと思っていたのかもしれませんが、私が職員に話しかけるときは全て業務に関わることです。提出してきた書類の記入漏れを埋めてほしい、お客様が来店したので対応をお願いしたい、先日研修に行った時の交通費の金額に相違はないか。お互い無言で簡潔する作業ではないはずです。それでも職員は私を見ずにいつも口を閉ざしていました。シャイな人なのかと思いましたが、職員の雑談は非常に大声でした。特に愚痴や文句は社内全体に聞こえる大声で喋っており、私の悪口も丸聞こえでした。隣室で昼食を取っているときもその声はよく耳に通りました。途中から耳栓をして昼食をとるようにしたので、最近の昼食時間は自分の咀嚼音しか聞いていませんが。

 私はこの職員に対して、休み時間はうるさいけど授業中に当てられると小声でもごもごと喋る女子高生を想起させました。私より年上ですが中身は女子高生なんだ、だから常識力がまだ足りていないのかと思うようになりました。


 そのうち職員は遅刻や欠勤も目立ちました。理由は5匹以上飼っている猫を病院に連れて行くためでした。私はペットを飼った経験がありません。なのでペットを病院に連れて行くことは、子持ちの親が急病の子供を病院に連れて行くようなものだと思っていました。ですが職員が病院に行く理由は定期検診だと、業を煮やしていた頃に猫を飼っている友人に話すと「最近の動物病院は夜8時まで開いているところがあるし、土曜日も開けている病院も珍しくない。定期検診程度なら仕事を遅刻してまで優先することじゃない」と言われてハッとしました。

 私はよく虫歯になるので歯科の通院が珍しくないのですが、毎回休みの日に診察へ行っています。歯科の通院のために会社を遅刻・欠勤を繰り返す人なんているのでしょうか。もしそんな人がいたら、会社ではどんな評判なのか知りたいです。


 職員は自分の仕事が分かってくる頃には、できる限りの仕事を私に押しつけるようになりました。地味な作業ばかりでしたが、私がそれを受け持ってしまうと元来の私の仕事は手に付かなくなるものばかりでした。さすがに私は即拒否しましたが「暇な時でいいから」が職員の言い分でした。そのたびに上司が私に仕事を押しつけないようにと注意が入りましたが、注意された側が嬉しくないのは分かります。私に押しつけた仕事が跳ね返ってきたのですから。

 あれは腹いせだったのでしょうか。宅配の荷物が届いたので私が出入り口に行くと職員がそこから入ってきて、出会い頭にぶつかったときに舌打ちしてきたのは。私はすぐ謝罪したので、私の不注意で職員にぶつかってしまったのかもしれませんが、故意ではございません。ご理解してほしいです。


 ですが、私を下僕のように扱うのは勘弁してほしかったです。

 私が職員に報告・連絡・相談ができなくなったのはそのにじみ出る憎たらしい態度からでした。

 報告をしたら「あっそ」

 連絡をしたら「だから何?」

 相談をしたら「なんでもっと早く言わないの?」

 毎回こんな返事を聞かされて、業務上の会話が成立すると思っているのでしょうか。日頃の積み重ねによって、私は職員との会話がほぼ不可能だと判断したため上司を通して業務連絡をしておりましたが、職員は上司の話も聞かない人だったことにようやく気付けました。どおりでお互いの仕事が捗らないはずです。

 仕事が捗らないのも私のせいだと怒鳴りつけて、さらに私に仕事を押しつけてきた頃には限界を迎えました。上司に相談しても一切職員に注意が入らず、上手くスルーできない私が注意される状況が納得いかなくなりました。

 それならばと人事部に連絡をし、これまで受けた言動を思い出せる限り報告をしました。私自身やりすぎかとも一瞬考えましたが、職員がまたまた私に仕事を押しつけたことで同情の余地は米粒ほどもなくなりました。

 人事部から折り返しの連絡を受けた時、早くしょっぴかれてしまえ、と心の中で叫びました。



 人事部の介入以降、職員はすっかり大人しくなりました。雑談も以前より小声になり、仕事でも受け答えできるようになりました。私を顎でこき使うこともなくなりました。仕事中の耳栓も不要になりました。

 ですが私は、この会社を退職します。

 人間関係のストレスで限界を迎えた私は、適応障害と自律神経失調症を精神科で診断されています。精神安定剤を飲むようになってもうじき2年になります。発症してから動悸と全身の倦怠感は治まりませんし、聴覚過敏と難聴の両方にも苦しみました。

 まだ転職は考えておりません。退職後は今の症状が治まるまで自宅で療養していようと思います。

 適応障害と自律神経失調症と診断された時は仕事を辞めるか悩みましたが、仕事そのものは好きでしたので半ば執念で続けていました。時折、退職が頭をよぎってもこの仕事が好きだった私は諦め切れませんでした。

 しかし今は、もう未練はありません。

 人事部から制裁が下ったことで、ようやく職員から反省の色が見えたとき、私はようやく仕事を続けてきて報われたと思えたからです。おかげで職員の顔がグチャグチャになるまで殴りたい衝動がスッと消えました。私はいつ傷害事件を起こすか、自分の精神状態が怖くなる日もありましたが、そんな感情は全部消え去りました。

 全身の気だるさ等、精神的な症状はまだ続いてますが、退職日まではなんとか踏ん張れると思います。

 会社にはご迷惑をかけますが、退職日まで頑張っていきますのでよろしくお願いいたします。


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