【短編】『はじめてのゴブリン狩り』

@ono_teruhisa

『はじめてのゴブリン狩り』



 まず、問おう。

 あなたは一体何を求めて本書を開いたのか。『はじめてのゴブリン狩り』なる表題にどんな内容を予想しているのか。

 もしかすると、それは心躍る冒険物語かも知れない。あるいは、 誇り高い武勇伝や捧腹ほうふく絶倒の喜劇、痛快な英雄譚の始まりなどかも知れない。

 しかし、そんな物を期待していたなら諦めて欲しい。

 あらかじめ書いておくが、残念ながら、これは心躍る冒険物語ではないし、誇り高き武勇伝や捧腹絶倒の喜劇でもない。まして痛快な英雄譚などは始まるべくもない。

 これはあくまで凡庸な回想記である。どこにでもいるごく普通の、ただ少し臆病だった青年――つまり若き日の私自身にまつわる体験談。そう、これはただの個人的な、ゴブリン狩りについての思い出話しに過ぎないのだ。

 ゴブリン。あの愚かで醜い、哀しい小鬼について、改めて説明する必要は無いだろう。恐らく、誰もが一度は目にした事があるはずだし、場合によっては、自ら剣を交えた経験さえ持っているかも知れない。そうでなくとも、奴らの登場する物語の一つや二つ聞いた覚えがあるのではないか。

 全く、彼らはごく身近な存在なのだ。と同時に、決して良き隣人でもなかった。何故なら放っておけばまず間違いなく人里を荒らすのだから。家屋や田畑、家畜への悪さはもちろん、ひどい時には女子供にまで危害を加えてしまう。その上、意思の疎通が困難で交渉も出来ない。

 畢竟ひっきょう、我々の前に姿を現したなら、まず駆逐するしかない天敵であった。

 神もまたそれを認める所だ。

 知っての通り、天命を記す『創世記』において殺生せっしょうは強く戒められている。だが、その中にあってさえゴブリンのような存在は例外とされているのだ。曰く、悪魔の使う「悪しき風塵ふうじん」は人を傷付け、たぶらかし、堕落させる。故に「聖者は槍を掲げた」のであり、「人はこれにならい抗わなければならない」と。

 幸いな事に、奴らはさほど手強い敵では無い。容易たやすいとは言わないまでも、平均的な体力を持つ健康な男子であれば、およそ勝てない相手では無いだろう。特段専門的な技能経験を持たずとも、しっかりと準備すれば恐れる必要はない。

 むしろ、これから戦い方を学ぶ初心者にとっては自らの力と勇気を試し、手応えを得るのに格好の獲物とさえ言える。だからこそ、今でも多くの土地で一人前を目指す青年達にゴブリンを退治させる習慣があるのだ。

 私の集落でもまた、ほとんどの若者がゴブリン相手に初めての戦いを経験する。

 それはある伝統の為でもあった。

 通常、近隣に現れた奴らは青年団が討伐隊を組んで退治する。すなわち―――ゴブリン狩り。成人を迎えたばかりの男子は、必ずそこに参加しなければならなかったからだ。

 成人して二年目、私もまたそこで初陣を迎えた。その時、討伐隊が退治したゴブリンは二十数匹。この大きな成果に、参加した新成人達は大いに自信を深めたのだ。

 ―――ただ一人、私だけを除いて。

 繰り返すが、本書は冒険物語でも、武勇伝でも、喜劇でも、英雄譚でもない。

 ごく平凡な若者の回想――いや、失敗談である。

 そんなみっともない恥を、何故敢えて晒すのかと思う方もいるだろう。もちろん私にとっては面白い話ではないし、本来披露したい物でもない。これまで、どんな親しい者にも打ち明けて来なかったほどだ。

 しかし、つぐんだ口の内でそれはいつまでも消えない苦味であり続けた。秘めれば秘めるほど、舌の根に染みるように広がって行った。時は何も癒さず、むしろ次第に味は濃くなり、今や舌先を痺れさせる。ついに耐え難いまでに。

 故に吐き出したくなったのだ。異物を排出し、その正体を明らかにしたくなった。誰かと分かち合えば、きっと苦味も薄まるだろうから。

 とは言え、身近な者に直接語るのは今もはばかられる。未だ恥辱の念は強く、少なからず体裁も気になる。

 結果、回想記の形をとり、後世に残す事にした。

 これを読むのが誰になるかは分からない。あなたが誰かを私は知らない。ひょっとすると、私の子や孫だろうか。それとも全く赤の他人か。

 いずれにしても、読んだ者に私の思いを知っていただけるなら構わない。長年秘め続けた苦い真実を目撃していただけるなら。

 その上で、意が汲み取られ、理解が生まれたなら、我が魂は永遠に救われるだろう。




 

 さて、では何から語るべきか。

 当時、私の置かれていた状況はいささか複雑で説明を難しくする。しかし、その様相が端的に表れていたとするなら、それはあの夜の宴だったに違いない。

 そこでの私は言わば水に浮く油だった。漂い、彷徨さまよって、居場所を見付けられない異物だったのである。

 輝く灯明とうみょう。立ち込める酒の匂い。絡み合い、入り乱れる話し声。笑声、奇声、時折怒声。浮かれた男達。彼らの発する陽気、あるいは熱気。そうした酒席の諸々は一向私の中に入ってこなかった。そこに参加しながら、私はどこか他人ひと事のような気分で、その様子を眺めていた。

 それはもう春の終わり。日が暮れれば微かに靄立もやだち、まだ肌寒い頃。

 人が動き回るには既に闇が深過ぎる。にもかかわらず、山間やまあいにある小さな集落のその一角は常ならぬ賑わいを見せていた。田畑の間を縫って四方から道が集まる天主堂の前。その広場の中央に煌々と篝火が照っている。周囲にはむくつけき男共。総勢で百名足らずか。彼らは三々五々の塊を作り、思い思いに酒を酌み交わす。上機嫌で馳走をつまみ、大なり小なり理性と日常から解放される。

 突然、歌い始める者もいれば、突然、踊り出す者もいた。羽目などはとっくに外れ、妨げる物も無い。自由を極めたその有様は無秩序と言うか、放埓ほうらつ言うか。

(よくこれだけ大騒ぎ出来るよな)

 観察者と化していた私はそんな思いを抱く。ぼんやりと空を見上げれば、ぼんやりと斑に流れる雲間にぼんやりと紡錘形の月が浮かぶ。その位置は随分と高くなった。始まったのが日没間もなくだから、優に一刻いっとき半は過ぎているのか。全く、よく飽きないものだ。

 もっとも、それは他人ひとの事を言えた義理でもない。宴の席の大半、私はこうしていたのだ。篝火を囲む人の輪から少し離れ、闇の淵に触れるか触れないかの広場の隅。道沿いの土手に座り込んで、一人で酒を啜り、盛り上がる男達を傍観する。漫然と、凝然と。よく飽きないものだ、と自嘲してまた盃を傾ける。

 この手酌ももう何度目か。判然としないが、確実に酔いは回ってきたらしい。こうして観客を決め込んでいると、本当に自分が何かを観覧している気分になってくる。そう、例えば―――

(例えば影絵芝居でも観ているような)

 そんな妄想。

 その原因は篝火だ。燃え盛る炎に焙られて男達の姿を陰影に仕立てる。ゆらゆらとうごめき、重なり、戯れ合う影絵達。私の位置から遠巻きに見れば、それはどこか大童おおわらわの滑稽劇に似ていた。舞台のそこかしこで、てんでバラバラに、しかし一つの塊となって、混乱を極める人々。どんな筋書きで、どんな結末を迎えるのだろう。ただ私はその成り行きをじっと見守っている。楽しむ訳でもなく、じっと。

 全く、何をしているのだ。

 ふと酔いの合間に正気が訪れ、そんな戸惑いを覚えた。騒ぎに交じるでもなく、離れるでもなく、ただぽつねんと呆けている。冷静になればかなり馬鹿馬鹿しい。

 だが、それを口にする訳にはいかない。

 だから、正気を拒んでまた酒に手を伸ばす。いちいち盃に注ぐのが面倒になり、今度は酒筒ささえに直接口を付けた。ちびりちびりとその白く濁った液体を舐めると、蜜芋酒が豊に香る。

 正直、味の良し悪しはよく分からない。まだ酒を飲める年齢を迎えて間もないのだ。成人となる十七を数えたのが昨年。違いが分かるほどには慣れていない。それでも、上物なのだろうとは思った。嫌な雑味やくどくどしさがほとんどなく、のど越しも快い。気付けば、ついつい口に運んでしまう。

 にもかかわらず、どうしてだろう。何かが物足りない。酔っているはずなのに頭の芯の辺りが冷えて、時折そこから正気が戻って来る。それでいながら、この宴の空気はどこか遠く、まるで酔っ払いのように現実感がない。

「はあ。全く、オレは何をしているんだ?」

 ついに言葉は現実となって滑り落ちていた。

 幸か不幸か、それを聞く者は無く、故に答える者も無い。皆、酒に酔うのに忙しく、享楽に耽るに忙しい。その熱を呑まぬ者に構うほど暇ではないのだ。しかし、誰が応えずとも、答えは自らの中から返って来る。

 考えるまでも無い。何をしているか。私達は祝っているのだ。ゴブリン狩りの成功を。そして新成人の門出かどでを。

 あの厄介な小鬼はどこからやって来るのだろう。―――伝説によれば北の果てらしいが―――それを明確に知る者はいない。ただ奴らはいつの間にかそこにいる。どんなに駆逐しても、どこからか現れて巣を作る。

 その気配が里の近くで確認されたのはひと月ほど前。放牧されていた羊が一頭盗み取られ、無残にも食い散らかされて発見されたのだ。それからすぐ、幾つかの畑が荒らされ、そま小屋ごやを壊される被害が出た。更に、また家畜が殺され、目撃も相次いだ。

 村にとって、実に二年ぶりとなるゴブリン害であった。

 村の男達がすぐさま近隣の山野さんやを調べて回ったのは言うまでもない。あいつらは悪さを始めると加減がなく、放っておけば、取り返しのつかない事態を招きかねないからだ。巣穴が見つかったのは里からさほど遠くない山の中だった。奴ら特有の長い横穴が掘られ、どうやら二十数匹が群れを作っているらしい。小鬼どもの巣としては中規模だが、小さな集落にとっては充分な脅威である。

 一刻も早い駆逐が必要。村の総意は一致していた。家長連中と青年団で話し合い、慣例に従って討伐隊が組まれる運びとなった。

 その中心となるのは当然ながら体力のある若者だ。青年団の団長ミクラザネ、副団長カタクチを含め持ち回りの役に当たっていた者が計七名。また、腕に覚えのある志願者が三名。加えて、ゴブリン狩りにおける、あの伝統も忘れてはならない。

 私達のような小さな村には駐屯兵ちゅうとんへいなどおらず、当然ながら傭兵を雇うほどの余力もない。それはつまり、ゴブリン相手に限らず、村は基本的に自らの手で守らなければならない事を意味していた。しかし、いざ戦いになった時に全くの初めてでは心許ない。そこで奴らのような敵が現れた時、成人して間もない男子は必ず実戦を経験するのが倣いとなっていたのだ。

 ここ二年の間に新たに大人の仲間入りをした男子は四名。鍛冶屋のマナクラ。小作のフダイとサン。そして細工師のシンタ―――つまり、私である。

 全十四名の討伐隊。ゴブリンの巣穴に奇襲をかけ、また狭い中で戦うのにも適した手勢だ。

 準備は順調に進み、かくして決行の日がやって来た。朝、天主堂前の広場に集まった討伐隊の面々は、村が備えるなけなしの武具を分け合い、妻子や恋人、親兄弟に送られついにゴブリンの巣穴へと向かったのである。

 見送る人々の目には期待や心配が宿っていた。私はこの時、改めて背負った責任の重さを意識した。そして、これが命を懸けた戦いであるとも。

 たかが小鬼相手に何を大袈裟な、と思った方もいるかも知れない。しかし、そう侮るなかれ。例え、ゴブリン相手でも油断は命取りとなる。これが戦いである以上、どんな惨事だって起こり得るのだ。実際、何年かに一度、不幸な犠牲者が出る。決して、その重みを忘れるべきではなかった。

 正午過ぎ。そんな緊張感と共に討伐隊は決戦の時を迎えた。態勢を整え、二人一組になって巣に乗り込んで行く。穴倉ではあるがいぶり出しの類は使わない。視界が悪くなると我々のようなにわか戦士では同士打ちの危険性があるからだ。

 経験豊富な数人の隊員が入り口にいた三匹の見張り役をあっという間に倒す。それから一組ずつ中へと入って行く。乗り込んだ穴は意外に広く、大人が二人並んで立てるほどだ。薄っすらだが明るくもある。俗に小鬼の苔とも呼ばれるヒカリゴケの一種がそこらに生えているせいだった。夜目の利くゴブリンはこれである程度視界が取れるらしい。しかし、それでも人間にはまだ暗い。我々は提灯ちょうちんの明かりを頼りに奥へと向かった。

 先頭の隊員が中にいたゴブリンと鉢合わせたのはまだ幾らも進まない内だ。慌てた様子の相手と切り結ぶ。初撃で倒せなかったのか、二度、三度と剣戟の音が鳴り響いた。始まった、と思ったのも束の間、私の周りにいた者達も一気呵成いっきかせいに突撃する。相手が混乱している内に少しでも優位を築く作戦である。刃のかち合う音と血の臭いで、私の頭も突沸する。初めての戦いの興奮に心臓が跳ねた。乗り遅れまいと必死で仲間に続く。

 ……そこからの記憶は断片的だ。とにかく無我夢中で、冷静さを保っておく余裕などなかった。ただ成すがまま、援護してくれるベテランの指示に従っていたに過ぎない。

 そんな私自身はともかく、主力となった男達はさすがである。怯む素振りもなく勇敢に戦い、互いに補い合いながら着実に敵の数を減らして行く。最終的には新米達にしっかり実戦の手ほどきまでしてくれた。

 およそ一刻の後、小鬼共の巣穴は完全に沈黙した。討ち果したその数は二十六頭。中には一回り大きな指導者格の鬼もいたが、腕に覚えのある猛者が一騎打ちでほふったらしい。一方で、こちらには、死者はおろか目立った怪我人さえ出なかった。まず完璧と言っていい勝利。

 討伐隊がその成果に歓喜したのは言うまでもない。男達は拳を打ち付け合って互いを称え、肩を組んで雄叫びを上げた。そうして、早々に倒したゴブリンの死体を処理すると、夕刻には凱歌と共に意気揚々と集落へ帰還したのである。

 村もまた、沸き立った。命を懸けた勇者達の凱旋を誰もが祝福し、喜んでいた。多くの住人が天主堂前の広場に詰めかけ、最大の敬意と称賛を持って出迎えた。

 そこから日が暮れて間もなく始まったのが、労をねぎらい、功を称える酒宴だ。

 村長や長老衆、各戸の家長らも集まり、青年団の団員達と共に討伐の成功を賑々にぎにぎしく祝う。男達の熱量は相当のものだった。乾杯の号令の下、次々と盃が乾される。酒樽はすぐに空になり、また新しいものが用意される。飛ばし気味の勢いのまま、宴は瞬く間に最高潮を迎えた。

 それから一刻半余り。今に至って席は多少の落ち着きを取り戻して来た。とは言え、未だにこの有様である。まだまだ終幕の時は遠い。

 今回の酒宴における主役は、当然、討伐隊の面々だった。青年団団長であり、隊長の重責を見事に果たしたミクラザネを始め、隊員達は方々から声がかかり、酒を注がれる。勝利を称えられ、その武勇を披露するよう求められる。

 その中でもこの討伐で初陣を飾った新成人は特別だ。誰彼になく呼ばれては、まあ呑め、ほら呑めと次々に勧められる。まさに盃を乾す暇さえ無い。それはつまり、この若者達がこの場に相応しく成長した証でもあった。ゴブリン狩りを経て、大人として盃を受けるに足る一人前と認められたのだ。男子にとってかけがえのない誉れである。

 もちろん、私もまた討伐隊の一員としてここに居る。狩りの成功を称えられ、加えて、新成人なのだから、大人の仲間入りを祝福されるために。

 何をしているのかと問うなら、答えはまさにそれだろう。

 言わばこの舞台における主役―――は過分にしても、少なくとも主演を担う立場。座の中心にいて、率先して場を盛り上げなければならない。

 所が、実際の私はどうだ。こうして人の輪から外れ、会場の隅で呆けている。舞台の上はおろか、観客の体である。

 それがあるべき態度でないのは分かっていた。多くの年長者、更には長老達がわざわざ出向いて祝ってくれているのだ。最も目下にあたる者がそれを無下にするなど、あまりに礼を失している。本来なら青年団の先輩辺りに注意されてもおかしくない。

 それでも許されていると言う事は―――

(憐れまれている……)

 そう意識した瞬間、頭の奥が沸騰していた。

 あの穴倉の中での出来事が蘇る。目の前にしたゴブリン。怯えた表情。千載一遇の好機。私は頭上に剣を掲げた。そして、奴に向かって振り下ろし―――かけた所で心を強引に押し返す。

 記憶はぶつりと切れて、現実が戻る。

 頬が熱かった。腹の底には手触りの悪い、むかむかとした塊が残る。悪酔いだ。悪酔いしかけている。

 私は息を吐き出して、また酒筒を呷った。

 意識を、努めて酒盛りに戻す。

 いつの間にか宴は新たな局面を迎えていた。呑み比べが始まったのだ。どうやら新成人のマナクラが、青年団でも指折りの酒豪に勝負を挑んだらしい。座の中央に進み出た両雄が交互に酒杯を空けて見せている。一杯を呑み乾すごとに周囲からは野次と歓声が上がり、勝負は更に熱を帯びて行く。

 自信家のマナクラ。同輩の中では一番大柄で腕っ節も強く、子供の頃から喧嘩で負けを知らない男。そのせいか勝負事はいつでも自分の物だと思っていた。きっと、この呑み比べでも、先輩相手とは言え譲るつもりはないのだろう。

 そんな態度を生意気だと快く思わない年長者もいる。だが、どちらかと言えば物怖じしない性格を面白がられていた。こうした場でも遠慮を見せず、けれど周りから受け入れられているのは、実にあいつらしい。それは一種の天性だ。私には真似できないし、する必要もないのだが、時折、何故だか無性に羨ましくなる。

 二人がまた次の酒杯をあおった。ひと際大きな喝采が起きる。

 いや増す喧騒の中で、その気配に気付いたのは単なる偶然か。それとも、やはり彼らの狂乱に関心を持てずにいたからか。

 いずれにせよ、私にはそれが彼女だとすぐに分かった。

「こんな所で何してんの」

 尖った声。視線を向ける。予想通りの少女がそこにいた。

 まとめた長い髪を隠す頭巾。飾り気の無い服と簡素な前掛け。一見、どこにでもいる慎ましい普通の娘。だが、頭巾の下に覗いた眉と、黒目がちな瞳がその勝気を隠しようもなく主張している。

 大工ミワタキの娘、ヒナだ。私の横に腕組みをして立つ。口をへの字に曲げ、まるで高みから見下ろすように。

「あっち、行かないの? 呑み比べしてるわよ」

「……別に。オレはここが良いんだ」

「ふーん。あっそ」

「何だよ。何か言いたいのかよ」

「べっつにぃ。あんたが良いなら良いんじゃない?」

 ヒナは肩を竦めて視線を逸らした。あからさまに含みのある態度。私は少々苛立たしくなって舌打ちをする。

「それより、お前何しに来たんだよ。こんな所にいると、また親父さんにどやされるぞ」

「大丈夫。あそこで潰れてるもの」

 示したのは天主堂の玄関口だった。そこには茣蓙ござが敷かれ、何人かの男が転がっている。酒量を超えた数名が介抱されているのだ。ヒナの父親も各戸主の一人として参加していたが、酒の強い方ではない。どうやら既に茣蓙の上の人となったらしい。

 だとしてもこんな所に顔を出すなど、全くよくよく気の強い娘である。

 昔ながらの考えをするなら、女性は酒を呑まない物だ。酒を呑めば酔う。酔えば乱れる。女が乱れるのははしたない、と言う論法である。だから一般的に女性は酒席に馴染まないし、特に未婚の男女が同席するなどはもってのほかとされていた。年若い者達の間ではそんなかびの生えた風潮をいとう者も多い。とは言え、一昔前の世代を中心に、まだまだ古い考えの者も多い。まして、こうした長老達も集まる場では尚更だろう。

 ヒナの父であるミワタキはそれこそ古風で真面目な男である。伝統やしきたりに厳しく、きっとこんな所を見られたらタダでは済まない。

 と言っても、潰れてしまってはそれまでか。幸い、天主堂の方から怒り狂って飛び出してくる様子はないし、少し安心する。

 玄関口の辺りには茣蓙上の男達以外に、少し離れて女衆が輪になって話をしていた。もちろん、彼女達は宴の参加者ではない。酒や肴の用意をしてくれていたのだ。給仕をし、酒も切らさないように立ち働き、酔いつぶれた者の世話もする。それが宴における婦人方の役割だった。

 元々ヒナもまたそのためにこの場にいたのだ。先ほどから給仕をして回っている姿は何度か見かけていた。

 今は一段落がついて休憩でもしているのだろうか。

「仕事はどうした、仕事は」

「終わったに決まってんでしょ。出せる物は全部出しました。後は片付けだけ。あんた達がさっさと止めない限りどうにもなんない。全く、いつまで続けるんだか」

「んな事、知るかよ。けど、これぐらい良いだろ。今日は……特別なんだ」

「……」

 少々投げやりに答えた私に、ヒナは不機嫌に肩をすくめる。怒ったように、馬鹿にしたように、呆れたように。

「あ~あ、ほんと、女って損。どうせなら、私も狩りに付いて行けばよかった」

 ヒナも私に並んで刺々しく腰を下ろす。しかし、その言い方が少なからずかんに障って、私は黙殺して酒を呷った。

 全く、ヒナは分かっていない。この宴は、そんなに単純なものではない。そして、狩りを、そんなに甘く見るべきでもない。

 そもそも、男達が何故、今これほどに盛り上がるのか。それは討伐隊が命を賭けて戦ったからだ。もしかすると死ぬかも知れない、大怪我を負うかも知れない、そんな危機感を心の片隅に抱いて一日を過ごした者がいるからだ。

 限りなく極まった緊張。それを解き放たなければならない。一度、ある種の非日常に突き抜けなければ、そうしなければ、日常に戻り切れない。

 だからこそ、村を上げてこれだけの酒と馳走を揃えている。決して裕福ではない集落だ。こうした準備をするのも容易ではない。それでも惜しまないのは、命を懸けた者達に報いるためと言えた。

 そして、男達は誰も同じだ。当番が回ってくれば、明日は我が身。他人事ではない。その思いが、余計に酒宴を昂ぶらせる。

 戦いを知らないヒナは、あまりに軽く考えている。

 ただ、それもまた無理からぬ事か。何せ、私だって、実際にゴブリン狩りに参加するまでは分からなかった。どんなに年長者達からその経験談を聞いても、ピンとこなかった。狩りをして初めて、命を賭ける意味を実感―――

 実感? 本当に? 本当にそうだろうか。本当に実感したなら、どうしてこれほど後ろめたい。気後れする。こんな宴の隅に逃げているのはそのせいではないか。そう、あの時、私は本物の実感を拾い損ねた。それに安堵してしまった。だから、こうして―――

「ねえ、シンタ」

「あん?」

「おかえり」

 唐突なその言葉に私は狼狽えた。

 ちらとヒナを横目で見たが、俯き加減の表情は頭巾に隠れてよく分からない。だが、その肩が僅かに震えている気がした。

 ヒナとは古い付き合いだ。と言うより、生まれてこの方の、いわゆる幼馴染である。彼女の言動は嫌と言うほど知っている。だが、こんな姿は記憶に無かった。

 中央で篝火が大きく爆ぜた。火の粉が立ち上がり、螺旋を描きながら雲の中へと吸い込まれて行く。それと同時に、大きな快哉が起きた。どうやら呑み比べの決着がついたらしい。勝ったのは青年団の酒豪だ。マナクラは善戦したが、さすがに限界が来ていた。大きな体をふらつかせ、よたよたと倒れ込んでいる。周りの大人達は笑いながら、それを助ける。

 これで終わり、と思いきやまた別の者が呑み比べを始めてしまった。再びの大歓声。まだまだ先は長いのか。本当に、よく飽きないものだ。

 私はヒナと二人、言葉も無くその様子を見守っていた。

 彼女にどう応じるべきなのか。普段とは違う態度に私は答えを見付けられない。困惑と、尻の辺りのむずかゆさ。収まりの悪さ。そうなると今の頼りは酒だけだ。私は酒筒を持ち上げる。しかし、そこで急に横合いから手が伸びて来た。

「あっ」

 制止する間もなく、ヒナは奪い取ったそれを一気に呷る。喉を鳴らし、豪快に一口。こんな事、それこそミワタキが知ったら大目玉だ。私は慌ててそれを奪い返す。

「馬鹿、何やってんだよ」

「いいじゃない。ちょっとぐらい」

「お前なあ・・・。前もそれで親父さんに叱られたんだろうが」

「そうだっけ? そんなの覚えてない」

「覚えてない訳ないだろ! ああ、もういい加減にして、あっちに戻れよ」

 腹立ちまぎれに追い払う仕種をすると、ヒナはあからさまにふてた。膝を抱え込み、その上に膨らませた頬を載せてこちらを睨む。

「シンタは優しいよね」

「はあ? 何だよ急に。何が言いたいんだよ」

「ううん。シンタはさ、私の事、心配してくれてるんでしょ。父さんに怒られるから」

「そんなんじゃねえって。ただ、見付かったら、俺まで一緒に怒られるからだ」

 それは嘘ではない。大体、何度ヒナのお転婆のせいで連帯責任を取らされた事か。子供の頃から随分割を食わされているのだ。私だって、好んで巻き込まれたくはない。

 ただ、まあ、そこに多少の照れ隠しが無かったと言えば、それはまあ嘘になるが。

「ふふ。ほんと優しい。優しくて、真面目」

「うるせえなぁ」

「馬鹿真面目」

「うるせえって。ほっとけ」

「馬鹿真面目過ぎ」

「………」

「だからって、そんなに気にしなくたっていいじゃん」

 言われて、ハッとする。

 改めてヒナの表情を探ったが、抱えた膝の上に伏せてしまっていた。全くうかがい知れない。一転してじっと押し黙っている。

 だが、長い付き合いだ。私には幾らか察する物があった。

「……狩りの結果、聞いたのか」

 ヒナは答えない。ただ、膝の上でわずかに首肯したように見えた。

 私は短く溜息を吐いた。きっと、教えたのはオンジだろう。

 オンジはヒナの三つ年上の兄である。今はミワタキの元で大工の修業をしているが、鉄火な者の多い職業柄に似合わず、気の優しい穏やかな男だった。私とは昔から馬が合い、何かと頼りにしている兄貴分でもある。

 当然、オンジもまた青年団員だ。だから、討伐の詳細はすぐに知れたに違いない。そこで私の惨状を知ったのだろう。それで心配してヒナを寄越した。

 オンジらしい気遣い。もしくはお節介。随分と心配されてしまっている。それは有難いような、面倒なような。

 私は落ち着きを装い、努めて軽い口調で言った。

「お前が思うほど、気にしてなんてねえよ」

「ウソ」

「ウソじゃない。今回は―――まあ、運が悪かったんだ。たまにはそう言う事もあるだろ。オレはオレなりに納得してる」

「ウソだよ」

「はぁ。何でそう否定するんだよ。そりゃあ、オレだって男だ。悔しいのは悔しいさ。でも、ちゃんと初陣は果たしたし、最低限の経験は積んだ。だからそんな―――」

 言いかけた私を、顔を少しだけもたげたヒナが横目で遮る。

「じゃあ、どうしてこんな所にいるの?」

 痛い所を突かれた。思わず、言葉に詰まってしまう。その指摘はあながち的外れではないから。

「どうせ、独りで勝手に悩んでたんでしょ。一匹も獲れなかったから、申し訳ないとか」

「………」

 一匹も―――一匹も―――一匹も……。

 確かに、私は一匹も狩れなかった。討伐隊で唯一、ゴブリンを仕留める事無く帰って来た。

 それはこの狩りに挑む新人にとって、滅多に起きない不名誉だった。

 元来、狩りは戦い慣れの意味合いも強くある。殊に初陣を迎える者には自信を付けさせなくてはならず、その為、特別な配慮があった。例えば、必ずベテランが補佐として付けられる。その上で、直接獲物を倒せるよう仕向けるのだ。ベテランが相手を弱らせ、そこを新米が仕留める、と言った具合に。つまり、ほとんど据え膳のような物で、初陣では首級の一つぐらいは上げて当たり前。

 実際、今回の初心者組も四体のゴブリンを屠った。即ち、フダイとサンが一匹ずつ。マナクラが二匹である。

 もちろん、私にもその機会が無かった訳では無い。

 狩りも終盤に差し掛かったあの穴倉の奥、私は一体のゴブリンと対峙していた。人間の子供ほどの体格。不釣り合いに大きい爛々らんらんとした目。しゃがれた奇声を発する醜い亜人。我々の襲撃に驚き、逃げ出したソイツを、分岐した巣穴の一室まで追い詰めたのだ。私と組んでいたベテランは、これまで何度もゴブリン狩りに参加し、戦果を挙げている経験豊富な人物だった。その援護を受け、徐々に優勢を築く。しばらくすると、小鬼は武器を取り落とし、尻もちをついていた。「シンタ、やれ!」ベテランの叫び。私は数歩進みでて、剣を大上段に構え―――

 そこまでは全くもって順調だった。

 しかし、最後の最後で失態を犯す。あろうことか、振り下ろしかけた剣がすっぽ抜けてしまうと言う大失態を。明後日の方向に飛んで行った剣が甲高く乾いた音を立てる。私は動揺し、呆然と立ち尽くした。瞬間、ゴブリンが浮かべた狂喜の面相は一生忘れないだろう。得物を拾い直した小鬼の致命的な逆襲。

 絶体絶命の状況に際して、私が無傷で帰還できたのはひとえに優秀な補佐役のおかげに他ならない。先輩戦士は私を押しのけ、相手の攻撃を防いでくれた。同時に、一刀の下に切り伏せて。

 事切れたゴブリン。腰砕けになる私。手が震え、力が入らない。心身共に、もはや剣を握る余裕は残っていなかった。

 結局、そこから動けないまま狩りは終わってしまう。だから、私は新成人で唯一、一匹のゴブリンも狩っていない。

 全てお膳立てしてもらいながら、この始末。その情けなさは例えようも無い。過去を振り返っても、こうした失敗は少なく、ごく稀に魯鈍ろどんな新人が晒す間抜けな醜態である。十年に一度の珍事なのだ。

 それに対し、討伐隊の反応は様々だった。同情してくれた者、励ましてくれた者もいれば、明らかに馬鹿にした風な者もいた。それは村に帰ってからも同じで、宴席で家長連中などから説教されたり、慰めの言葉を頂いたりした。

 いずれにしても私がいたたまれなかったのは確かだ。ゴブリン狩りでの重要な目的を、自分だけ果たせなかったのだから。つまり、多くの人の努力を無にしたのだから。まして、宴は労いの為に開かれている。ならば、ただの足手まといだった私にその価値があるだろうか。これだけの馳走を供され、酒を振る舞われる資格があるだろうか。ゴブリンを倒していない私は、ここに居る他の者と同じ一人前の男と言えるのか。

 ヒナの言う通り、私はずっとくよくよと考えていた。そうしたあれやこれやを。

 それでも、討伐隊の―――主賓しゅひんの一人として宴を放棄する訳にもいかない。その葛藤もまた私を追い詰めた。こんな隅の暗みに至るまでに。

「ああ、そうだよ…。そうだよ! ずっと、頭ん中はそれだ。でも、仕方ないだろ。実際、オレは何も出来なかった。役目をちゃんと……果たせなかった」

「そんなの、どうだって良いじゃん」

「良くねえ」

「シンタはちゃんと討伐隊に参加した。役目は、それで充分でしょ」

「違う、それは違うんだよ」

「何? ゴブリン倒せなかったのが恥ずかしいから。悔しいから? バカみたい」

「そうじゃない!」

 何故か妙にけんか腰になるヒナに私もつい苛立ってしまう。それをぶつけるように睨むと、相手も負けじと顎を逸らして睨み返してくる。

 どうして、どうして分かってくれないのか。無茶と承知で、ついそんな不満を抱く。

 そうじゃない。違うのだ。私が煩悶する理由はゴブリンを倒せなかったからではない。

 もちろん、結果に恥ずかしさが無かったとは言わない。また、叱責や嘲弄には傷付きもしたし、激励や憐憫も、それはそれで情けなくなった。皆と同じ高揚を得られず、疎外感を覚えたのも事実だ。期待に応えられなかった申し訳なさもある。

 しかし、それらはある意味で余禄である。

 本質は命なのだ。

 他の討伐隊は命を賭けていた。あるいは村の命を背負っていた。

 なのに、私だけその命の重さを理解していなかった。私だけ、命を賭けていなかった。

 そう、あの瞬間、私はそれを悟ったのだ。剣を振りかざし、ゴブリンと対峙したあの瞬間。

 それに気付いた時、私は戸惑った。そして、未だその戸惑いを呑みこめずにいる。それこそが私の屈託の正体。

 ただ参加しただけでは駄目なのだ。

 私はヒナにそれを伝えたかった。そして、受け止めて欲しかった。だが、今に至るまで未分化のその感情が上手く言葉にならない。説明できない。

 いや、そもそもこの感覚は誰かに理解できるのだろうか。他者と共有できるのだろうか。また煩悶。

 お互い口をきけないまま睨み合いだけが続く。酔っているせいか、感情の高ぶりからか、気持ちを切り替える糸口が見つからない。

 いつまでも続くかに思われたその衝突は、しかし、意外な形で終わりを迎える。

 涙である。すっと一筋の滴が、ヒナの紅潮した頬を流れた。

 それこそ私は戸惑う。本当に、今日のヒナはおかしい。一体どうしたと―――

「いいじゃん。そんなの。無事に帰ってきたんだから」

 何度目だろう。私は目の前にいる少女の、絞り出すような震え声に、また心の間隙を突かれる。

 後に思い返してもこの時ほど、自分が馬鹿だと思った事は無い。分かっていなかったのは私だ。彼女は理解していた。ゴブリン狩りが命を賭けた戦いなのだと。どんな可能性でもあるのだと。私こそ、彼女がどんな気持ちでいたのかを考えた事があっただろうか。

「…………すまん」

 やっと振り絞って出たのはそれだけだ。どうしてか他の言葉が見付からない。思いの丈を表すだけの事が、どうしてこれほど難しいのか。

 それでも、ヒナには伝わったらしく、涙をぬぐいながらコクコクと頷いた。

 二人の間に沈黙が落ちる。先ほどまでの刺々しいそれではない。表現する術を知らず、それ故に狼狽えるばかりの、若く柔らかい沈黙。だが―――

「おい、シンタ」

 すぐさまそれを破る野太い声。

 驚いて目を向けると、未だ続く騒ぎを背に近付いて来る者があった。中肉中背の細面。良く日焼けした浅黒い肌。青年団でも中核的な団員の男だ。

「な、何ですか」

 不意の闖入者ちんにゅうしゃに私は少なからず慌てた。まずい。反射的に、ヒナを背に隠すように座り直す。まさか、女がこの場にいるのを見咎められたのか。もしそうなら、ただのお小言では済まないかも知れない。

 ヒナもまた怯えていた。私の後ろで身を硬くし、縮こまる。

「おう、探したぞ」

「すみません」

「ん。あー、―――」

 目の前まで来た男が腕組みをして、ちらと私の隣に目を向けた。それで、何か言葉を探しているらしい。

 服の裾が引かれた。背中に微かな震えを感じる。ピタリと身を寄せたヒナは、裁きを待つ者のように俯いていた。

 だが、案に相違して男は何も咎めはしなかった。

「―――お前、今、取り込み中か?」

「いえ、別にそう言う訳では」

「ああ、そうか。じゃあ……、まだ宴の途中で悪いんだがな。ちょっと一緒に来てくれねえか?」

「え、そりゃあ、構わないですけど…」

「おう。悪いな」

「あの、何なんです?」

「うん? うーん」

 私の問いに、男は歯切れ悪く考え込んだ。中空に目を泳がせて頭を掻く。

「まあ、詳しい話はミクラザネに聞いてもらった方が早いんだよなあ」

「ミクラザネさんに?」

「ああ。要するにアイツが呼んでんだ。あっちで待ってるからよ」

 指し示されたのは広場の騒ぎとは違う方向。垂れこめる闇の中にこんもりと影が浮かぶ、東の森だった。





 一体、自分はどこに向かっているのか。暗い山道を下りながら私は戸惑っていた。

 まだ微かに天主堂からの喧騒が聞こえる。だが、徐々に虫や獣の声、葉の掠れと小川の調べに取って代わり、山林の気配が濃くなる。頭上を覆う枝葉に、漂う靄。夜闇はいよいよ深い。

 少し前を案内役が提灯を手に淡々と進んで行く。私も同様に提灯を持って付き従う。ゆらゆらと揺れる灯りに照らされた爪先が、つゆを帯びた下草でほんのりと湿る。

 もちろん、よく知った土地だ。この道の先に杣場そまばがあるのは分かり切っていた。だが、こんな折、そんな所で、青年団団長が私に何の用だと言うのか。

 すぐに思い浮かんだのは、やはり今日の大失敗だ。あれは青年団にとっても不本意な結果だった。ならば叱責を受けてもおかしくない。ただ、これに関しては討伐の終わりと同時に直接報告してある。その時、ミクラザネは「残念だったな」と答えたのみだった。それを、敢えて今、蒸し返す物だろうか。だとすれば、他に何が―――

 答えが思い浮かばないまま、それでも私は男に付いて行く外なかった。

 暫く細い道を歩くと開けた場所に出た。半町はんちょうほどのその空間は平らに均され、草も丁寧に刈られている。一角には杣小屋が立っており、近くに切り出されて皮をむかれた木が数本、積み上げられていた。そこに提灯を置いて二人の男が座っている。

 片方は件のミクラザネだ。もう一人も古株の青年団員のようである。彼らは木に腰かけ、談笑しながら酒を酌み交わしていた。

 私達が姿を見せると、当然すぐ気が付いた。

「シンタ。よく来た」

 気楽な調子で片手を上げる。髭の濃い丸顔に柔和な笑み。ミクラザネは気さくで親しみやすい人物だ。三十路の杣人で、シンタのような下っ端にも偉ぶらずに接してくれる。同年代からも尊敬され、老若男女を問わず慕われる男だった。

 当然、宴でも最前にいるべき存在。そんな人が、何故こんな所にいるのだろう。何故、私を呼び出したのだろう。

「まあここに座れ」

 近づくと、ミクラザネと一緒にいた男が場所を譲ってくれた。誘われるまま、そこに腰かける。

「まだ席の途中だったのに悪いな」

「いえ、別に」

「どうだ、少しやるか」

 そう言ってミクラザネは盃を寄越してくれる。差し向けられた酒筒を断るのも失礼かと思い、私はひと口受けた。

「今日はずいぶん呑まされただろう」

「はあ。色んな人が勧めてくれたんで」

「じゃあ、もう欲しくないか?」

「いや、まだいけます」

「ほう、頼もしいもんだ。ウチは酒好きが多いから、これからも度々呑まされる機会があるだろう。覚悟しておけ。ほら」

 そう言って勧められたもう一献いっこんも有難くいただく。次いで返杯。今日一日、何度も盃は受けたが、こうして差し向かいで酒杯を交わすのは初めてだ。それが新鮮で、何故か心地良い。

「美味いな…。こうやって、他人に注いでもらう酒が俺は好きなんだ。差しつ差されつ酌み交わす。それが何だか楽しくってな」

「ええ。一人で飲むより、ちょっと美味い気がします」

「お、言うようになったな。お前も、もうすっかり大人か。ガキの時分は悪さばかりして叱られてたが、良い面構えになった」

「あはは」

 悪さをしていたのは主にヒナだ。私はそれに巻き込まれていただけなのだが、まあ傍から見ればそんな物か。苦笑して誤魔化す。

「嬉しいもんだな。小さかった子供が大人になる。そして、こうやって一緒に酒が呑めるんだ」

「はい。ありがとうございます」

「………」

 ミクラザネは機嫌よく笑って頷き、盃を一気に飲み干した。そこにまた私が酒を足す。なみなみと注がれたその盃の表面を、丸顔の男はしばらく眺めていた。

「なあ、シンタ。宴会はどうだった?」

「え?」

「今日みたいなのは初めてだろう。どうだ、少しは楽しめたか?」

「ええ、それはまあ」

「本当か? お前、ちょっと遠慮してたんじゃないか」

「いや……その」

「うん?」

「まあ普通に…」

「ふふ、嘘の付けないヤツだな」

 はっきりと肯定も否定も出来ない私から、答えは読み取れたらしい。ミクラザネは軽く肩を竦めて苦笑する。

「気になってたんだ。宴会の間中、お前の顔が暗かったから」

「すみません。オレ、そんなつもりじゃなかったんですけど」

「いや、それは良い。まあ、よくある事さ。だが、どうだ? やっぱり、狩りの事が引っ掛かっていたんだろ」

「それは、まあ」

「うん。そりゃあ、そうだ。お前だって、手柄の一つは欲しかったろう。初陣だもんなあ」

「すみません。ご迷惑をおかけしました」

「おいおい、そんな事謝るなよ。一番悔しいのはお前だろう」

「でも……あんなに、準備してもらって………」

「万全を尽くしても、上手くいかない時はあるさ。それはいつだって天主様のおぼし召しなんだから仕方ねえ」

「だけど! オレは―――」

「オレは?」

 言いかけて、私ははたと止まる。そのまま次を継げず、喘ぐように口がパクパクと開閉した。しかし、出ない。今ここで、オレは―――そこに何を続けるのか。

 それでも申し訳ない。

 それでも悔しい。

 それでもやり遂げたかった。

 いずれを選んだとしても空虚な気がした。言葉だけが上滑りし、実を伴わない気がした。

 何故だろう。どれも本心には違いないのに、先ほどから謝罪や反省を繰り返せば繰り返すほど、むしろ後ろめたい。

 きっと、それは足りない物があるからだ。確かに本心に違いなくとも、全てを表しているとは限らない。例えば、今口にするとしたら―――

 それでも安堵している。

 それこそ、言って良いはずがない。そんな、多くの人の努力や助力、期待を無為にするような想いなど。だが、その欺瞞こそ後ろめたさの根源でもあった。

 あるべき言葉と、あってはならない言葉がぶつかり合い、どちらも形にならずに消えて行く。

 ミクラザネがじっと待っているのが分かった。きっと、何であれ、私の吐露する何かを。心の内にある物を。だが、それでもついにそれは出て来ない。

 暫くして、ようやくミクラザネが口を開いた。口元に掲げた盃を静かに覗きこみながら。提灯の赤い炎が、ミクラザネの横顔の陰影を浮き上がらせていた。

「お前を補佐した奴からも詳しく聞いたよ。ゴブリンの前で、剣を取り落としたって」

「…………はい」

「勘違いするな。俺は別にそれを責めてるんじゃないぞ。だが、どうしてだかは気になる」

「どうして?」

「うむ。シンタ、お前どうして剣を取り取り落とした?」

 何を聞いているんだろう、と思った。そんな事、他に答えようがない。

「それは……オレがへぼだから」

「そうか? 俺にはな、そうは思えない」

「え?」

「訓練は、ずっと見て来た。それこそ子供の頃からな。誰が、どの程度の力量を持っているかは、大体わかるさ」

 ミクラザネの思わぬ意見に私は束の間、呆ける。そして、丸顔の男に目を向ける。その姿は微動だにせず、盃の中を眺めている。

「お前は、慎重には違いないが、その分、一つ一つの動作は確かだ。あの穴の中でも、焦らずじっくりと敵を追い詰めた。普段のお前なら、充分に最後までやれただろう」

「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、買被りです。あの時は、緊張してたし」

「うん、それはそうかも知れん。だが、オレが思うに―――なあ、シンタ。お前、ビビったんじゃないか?」

「は?」

「お前があそこまで行って剣を取り落としたのはビビったからなんじゃないのか?」

「ち、違います! ビビったとか、さすがにそれは……」

「シンタ」

 あらぬ疑いに狼狽する私を低い声が遮った。ミクラザネの顔が上がり、こちらに目を向ける。赤く反射する静かな眼光。睨んでいる訳ではない。それでも私は竦んでしまう。

「お前は優しい奴だ」

 呟かれたその評は先ほども別の口から聞いた。だが、そこに含まれる意味は何かが違う。

「他人を気遣い、気持ちを推し量れる。争いを厭うて、無駄ないさかいを避ける。個人的には、お前のそう言う所は好きだぜ。穏やかに、寛容に生きるのは美徳だ。だがな、戦いの場では、その優しさが命取りにもなる」

「……」

「お前、ゴブリンに慈悲をかけたろ」

「!」

「土壇場でゴブリンを殺すのが怖くなった。ビビっちまったんだ」

 淡々とした口調。そこには怒りも責めもない。それでも突き付けられた事実の切っ先は鋭い。何も反論できない。

 私はまた、あのゴブリンとの対峙を思い出す。

 目が見えたのだ。相手を追い詰め、剣を振り下ろそうとした瞬間、見開かれた大きな目が見えた。そこに映っていたのは恐怖だった。死を前にして、ただただ恐れ、怯えた目。

 それに気付いた時、私は確かに恐ろしくなった。

 本当に殺して良いのか?

 奴は生きている。生きたいはずだ。

 本当に殺して良いのか?

 私には覚悟が無かった。命を賭ける覚悟が。戦場に於けるそれはつまり、片面に自らの命を置き、対面に相手の命を置くと言う事である。勝った方がそれを奪い、負けた方が失う。至極単純な取り引き。私は勝負に勝ったが、そこに賭けられた命を奪う覚悟が無かった。とどのつまり、命を賭ける意味を解していなかった。

 芽生えた迷い。迷いは私の満身から力を奪う。筋肉が緩み、手から剣がすっぽ抜けていた。

「分かるぜ。俺達はガキの頃から天主様の教えを受けている。慈悲深くあれ。命ある者を大切に、ってな。生きとし生ける者を愛するのは神の御心に違いない」

 だから、私はあの時安堵した。結果的にとは言え、自ら手を下さずに済んだのだから。直接命を奪わなかったのだから。失敗した悔しさも本物ではあったが、その裏面にある安らぎもまた本物であった。

 悄然としていた私の肩にミクラザネの手がそっと置かれる。その大きく武骨な掌には熱がある。重みがある。

「だが、ゴブリンは別だ。奴らは天の創造物じゃねえ。悪魔の手先だ。創世記にもそう書いてある」

 即ち、「世にたがう者、北の地の果てに」である。そこに棲む悪魔たちはあらゆる手を尽くして我々を魔道に誘うと言う。邪なる風塵を用いて人を貶め、誑かし、堕落させる。故に我らは槍を持ち、立ち上がって戦わなければならない、と創世記は教える。実の所、ゴブリン達の名がそこに明示されている訳ではない。それでも、あの小鬼もまた「風塵」の類なのだと、僧侶たちは説く。

「奴らとは言葉が通じねえ。考えも読めねえ。かと言って、放っておけば俺達がやられる。戦うしかねえんだ」

「……」

 幾ら狩りを回避しても、それは他の男達に責任を丸投げしただけに過ぎない。自明の摂理を私もまた理解していた。だからこその後ろめたさ。

 私の心は幾つもの異なる方向に引き裂かれる。その煩悶こそ、狩りの成功を祝う宴にいた私の正体だった。

「怖いか? 命を奪うのが」

 私は縮こまり、うち震えながら黙って頷いた。恐ろしかった。あの一瞬の瞳に宿った恐怖。また狂喜。それが脳裏に焼け付いて消えない。むき出しになった真実の「生」に、私の心はたじろいていた。

 奴は、私自身だったのだ。あの時、武器を取り落とし、よろめいて怯えていたのは私自身なのだ。相手の隙に歓喜し、殺意を昂ぶらせたのは私自身なのだ。そして、一刀の下に切り伏せられたのも。

 立場は容易に入れ替わる。

 私には覚悟が持てなかった。

「ああ、お前は本当に優しい奴だ。あの醜い悪鬼にさえ慈悲を抱ける。命におそれを抱ける。ああ――神よ、この若者に愛を!―― だが、慣れなきゃならん。俺達には守るものがあるんだ。慣れてもらわなきゃならん」

 それはそうだろう。小さな村だ。真にいくさにでもなれば、一人でも多くの力が必要になる。動ける者なら誰であれ、遊ばせておく余裕などない。

 ミクラザネはおもむろに立ち上がると軽く右手を上げた。それが合図だったらしい。今まで遠巻きに様子をうかがっていた案内役達と三人、目顔で頷きあう。

 意を酌んだ案内役達は樵小屋に入って行った。するとそこで何か争うような気配がする。ガタガタと物がぶつかる音。鈍く打ち付ける音。キイキイと甲高く、不快な喚き声。

 まさか―――

 狼狽える私をよそに、小屋はすぐに静かになり、男達が出てきた。最初に現れた古株の男が荒縄で何かを引きずっている。

 当然、私にも既に想像は付いていた。

 間違いない。提灯の光の届く所で露わになったそれは、確かに一匹のゴブリンであった。ただ、かなり衰弱している。体中は痣だらけで、顔などは酷く腫れ上がっている。もしかすると骨も折れているのかも知れない。もはや抗う気力もないのか、両手を雁字搦がんじがらめで縛った縄で引っ張られてもほとんど動きもしない。

「これも狩りの倣いでな。失敗した者がいたら、もう一度機会を与えるんだ。ゴブリンを仕留める感触を覚えせるために。それで何日か前に生け捕りにしておいた」

 男は淡々とそう説明した。それから提灯を掲げながら、広場の隅にある一本松まで向かい、その枝に荒縄を引っかけてゴブリンを吊し上げる。小鬼は僅かに身体をよじって逃げる意志を見せたが、男が一度蹴りつけると短い悲鳴と共にまた沈黙してしまった。縛られた両手から下へとだらりと垂れる。

「シンタ。こっちへ来てくれ」

 ミクラザネに促されるまま、私は一本松の元まで近づいた。

 目の前にぶら下がる奇妙な果実。これは既に息をしていないのではないか、とさえ思える。だが、胸の辺りがわずかに上下して、ひゅうひゅうと掠れた吐息が微かに漏れていた。形の変わった醜い顔は血と、涙と、鼻水と、唾液にまみれ、腫れた目蓋が細く開いて、弱々しく提灯の輝きを反射する澱んだ瞳に目脂が浮かぶ。

「想像してみろ。いずれ、お前も所帯を持つだろう。一家の長になるだろう。その時、妻や子を守るのは誰だ? 危害を加える者が現れた時、どうやって守る?」

 胃の底の血が数瞬、冷たくなる。そうだ、守らなくてはならない。私は思い出していた。不安気に引かれた服の裾を。私の陰に隠れ、身を硬くして縮こまっていた少女の顔を。

 私にも守るべきものがある。

「必要なのは覚悟だ。俺達の前で、覚悟を示してもらわなきゃならねえ。分かるな?」

 私の肩に優しく手をかけたミクラザネが、目の前のゴブリンを指し示す。その意味する所はただ一つだ。私はこくりと成す術もなく顎を引く。否定などできようはずもない。

「得物は、好きな方を選べ」

 案内役の男が私の隣まで来ていた。その差し出された左手には槍が、右手には剣が握りしめられている。

 束の間、私は迷って槍を取った。理由は単純だ。既に一度失敗している剣を忌避したに過ぎない。

 ミクラザネがポンと私の背中を叩いて頷いた。彼ら三人は位置を変えると、少し距離を置いて見守る。八歩半ほどの間合いで私はゴブリンと一対一サシで向き合った。

 もう後戻りはできない。逃げ場もない。やるしかなかった。

 掠れた呼吸が杣場のしじまに波紋を描く。それは果たしてゴブリンの物か、私の物か。

 槍を脇に引き上げ、右腕を巻き付けるように構える。左手で穂先を小鬼に向けて固定する。短く、浅くなった呼気を断ち切り、大きく吐き出す。

「―――ふぅっ」

 数歩の距離を一気に縮め、槍をゴブリンの左胸に突きたてた。手と脇に返って来る鈍い感触。硬い物に当たりながら肉に食い込む質感。


 いぎゃああああああああああああああ!


 途端、耳をつんざくような絶叫が木霊した。苦痛と本能が咽喉を嗄らしてもまだ足りぬほどの声量を絞り出させる。夜の森の騒めきさえも塗り込め、雲間に現れた月へと向かって拡散する。

 腫れたゴブリンの目蓋が限界まで見開かれる。ぎょろりとした目は充血し、引き絞られたまなこに月光を映す。

 槍を抱える腕が左右に揺さぶられた。ゴブリンが必死に身を捻っているのだ。もちろん、手を縛られて吊るされ、足は宙に浮き、逃げようもない。それでも構わず何とか槍から解放されようと激しく動く。私は目をつぶり、歯を食いしばった。振り切られて槍を手放さないよう、一心不乱に力を籠める。槍よ深く突き立てと力を籠める。だが、何故か前に進まない。小鬼の断末摩は断続的に響き、終わる気配がない。何故だ―――何故だ。兎に角、決着を付けたい一心で足を踏ん張り、槍に体重を乗せる。一段、絶叫が高まるが、それでも終わらない。何故だ!

「シンタ、骨にかかってる。急所からも逸れているぞ。もう一度、突け。よく狙いを定めて突き直すんだ!」

 背後からミクラザネが怒鳴った。

 馬鹿な。まただ。また失敗なのか。くそっ、くそっ、くそっ。どうしてこんな所に骨がある。どうしてこんなに骨が固い。どうして槍を上手く刺せない。

 私は槍を抜こうとした。だが、筋肉に絡まっているのか上手く抜けない。柄を引けば引くほど、ゴブリンの身体がそのままこちらに向かって来る。縛られた手だけ残し、ぶらりと身体が流れて来る。その度、キイキイとかんに障る悲鳴が上がる。

 ああ、どうして剣を選ばなかったのか。きっと、剣なら一刀だった。少々ズレたとしても、一回切れば終わっていたはずだ。どうして剣を選ばなかった。

 ゴブリンの腹を踏み、松の幹に押し付けてどうにか穂先を外す。私は肩で息をしていた。心身はすり減り、疲労が体に重くのしかかる。

 ゴブリンもまた息が荒い。やっと槍傷の苦痛が紛れたのか、悲鳴は消えた。あるいはもうその余力すら無いのかも知れない。澱んだ目にもはや生気は霞み、口から垂れる涎には血が混じる。ヒョウヒョウと漏れる呼気に、時折、詰まった咳が絡む。きっとこいつはもう死ぬ。放っておいても死ぬはずだ。

「止めを刺しちまえ。もう一息じゃないか」

「シンタ、がんばれ。あと少しだぞ」

「お前ならできる。さあ、男を見せろよ」

 私はまた歯を食いしばった。目を見開き、眉を吊り上げ、数歩下がる。

「ああああああああああああああっ!」

 勢いを付けて突進。一瞬で距離が縮まり、再び穂先がゴブリンの胸を捉える。鈍い反動に腕だけが止まり、つんのめる。


 んぎゃあああああああああああああああ!

 

 またも絶叫。それでも私は踏ん張って槍を抱きかかえ、前に体重をかけた。ゴブリンの胸に刺さった穂先がグイグイと押し込まれる。その度、叫びが上がる。

 だが、それは長くは続かなかった。

 次第に悲鳴は掠れ、小さくなる。声が出なくなれば、荒々しい呼気だけが残る。その息を吐いて吸う間隔はどんどんと長くなり、長くなり、長くなり、やがて、消えた。

 私は歯を食いしばり、それでも槍を押し込んだ。

 目が見えた。腫れた目蓋の下に半ば隠れた眼球。磨かれた石ころのようなその瞳がきらきらと無機質に輝く。そこには、絶望も、恐怖も、憤激も、悲哀も、何ら表れない。ただ、目があり私の姿を映している。

「シンタ、よく頑張った」

 軽く後頭部に手が据えられて、私は振り返った。ミクラザネが優しい顔で頷いていた。

 しばし呆ける。彼が何を言っているのかよく分からなかったのだ。しかし、その意味を解した瞬間、私の身体からは力が抜けていた。足腰が砕け、へたりと座り込む。

 ゴブリンに刺さったままの槍の柄が、からりと音を立てて地面を叩いた。

 った。殺った。ついにオレは殺ったのだ。

「これで、もうお前は大丈夫だ」

「は、はい」

「次は上手くやれるだろうよ」

「………はい。はいっ」

 鼻の奥がツンと痺れる。「あれ?」っと思った時には頬を温かな感触が伝っていた。涙だ。私は泣いていた。訳も分からず、泣いていた。止めようにも、止まらない、涙。

「馬鹿野郎。泣く奴があるか」

「はっはっは、よくやった。よくやった。シンタ、よくやったな」

「はい。すみません。すみません」

 案内役と古株が笑顔で私を取り囲む。私はただただ頭を下げていた。何が済まないのかはよく分からない。

 涙が溢れる理由もよく分からない。期待された通りの結果を得たはずだ。どこに悲しみがあるだろう。あるいは嬉し涙、それも少し違う気がする。もしかすると、感情が複雑に絡まり合い、その複雑さ故に私は泣いていたのかも知れない。

 ただ、一つ言えた事もある。私は間違いなく安堵していた。あの時とは違う安堵。ミクラザネ達に祝福され、称えられながら、確かに彼らの仲間になれた実感があったから。

 きっと、これで彼らと同じ心情で酒が飲めるようになるはずだ。私はもう、宴席で居場所に迷いはしないだろうと確信していた。





 以上が、私の経験したはじめてのゴブリン狩りの顛末である。

 冒頭に宣言しておいた通り、決して華やかな武勇伝などでは無かったと、お分かりいただけただろう。そう、これは残念ながら情けの無い失敗談だ。この時の事を思い出せば、今でも私は苦い気持ちになる。

 それでも、これが貴重な体験であったのは確かだ。あのゴブリン狩りがあったからこそ、今の私がある。

 私はあれから何度かゴブリン狩りに出向いたが、二度と同じ間違いを犯しはしなかった。多くの小鬼達を躊躇なく屠り、まさに命を賭けて戦った。家族のために、村のために、最善を尽くせたのだ。

 それもこれも、あの時の覚悟があればこそだろう。あのゴブリン狩りは、私にとって、間違いなく転機であったのだ。

 全くもって美しくもなければ、愉快でもない記憶ではあるが、決して忘れようとは思わない。あの時知った命の重みを、忘れはしないのだ。

 ただそれを誰かに知って欲しくて、私はこの物語を書き残す。





                                  了

                           令和二年二月二日


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【短編】『はじめてのゴブリン狩り』 @ono_teruhisa

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