一章 殺人鬼と教室
璃々子はふと、目を覚ました。朝だ。
下にして眠っていたからか、翼の付け根が痛い。一カ月前、何故かは知らないが学校の廊下を歩いている時に突然、背中に激痛が走って、制服が破れて、これだ。
すぐさま病院に連れて行かれた。血液検査を何度も受けた。遺伝子に異常がないかどうかも調べた。脳波の測定、眼球、三半規管、内臓など、翼全体まで全てが検査の対象だった。何もおかしい所はなかった。悪性の腫瘍でもなかった。
ただ、背中に増えた重い翼だけが璃々子にのしかかった。
「……行きたくないなあ、学校」
璃々子は都会の高校生だ。二年生になって、元々明るめの飴色だったショートボブの髪をもう少し明るい栗色に、教師にばれない程度に染めてみた。同じクラスの好きな人とちょっと仲良くなってきていた。一学期の中間試験で学年十位以内に入った。
でも、特に何か大きな目標があるわけではなかった。
今日も学校に行ったら、三脚の上にカメラをセットした報道陣が数え切れないほどのマイクを突き出し、璃々子のことを根掘り葉掘り訊くに違いない、彼女はそれが嫌だった。
そして、自分だけにマイクが向けられるわけではなかった。他の生徒も取材の対象で、璃々子がどんな生徒なのか、どんな性格で、何を好み、何を嫌い、何を欲しがって、何を疎ましく思うのか……あることないことを皆、調子に乗って言った。それがテレビの向こうで何度も流れた。色々な番組にも出たけれど、インタビューはどれも心に苦しいものだった。
母はたった一カ月で、今までとは違った視線を娘に向けるようになった。父も同じだった。でも、二人とも、努めて明るく優しく振る舞ってくれた。それだけは痛いほどわかった、だから璃々子は何でも明るく返事をするようにした。
「璃々子、朝よ」
起きているから起こさなくていいのに、璃々子はそう思いながらも、自分の為と特別に仕立てられた制服に手を伸ばす。翼がある背中を露出しても、それはがっちりと璃々子の身体を首元から腕まで見事に覆うように作られている。これは有難かった。それと、下着メーカーのコマーシャルに出演したら、自分の体や特別な制服に合うように作られた下着も沢山貰った。これも一応、嬉しかったことだ。
「おはよう、璃々子。今日はどうするの、飛んで行くの?」
リビングに璃々子が顔を出すと、母が振り返って訊いてきた。
「ううん、今日も歩いていく。電線に絡まりたくないし」
飛ぶ訓練もしなさい、と言ったのは誰だったか。折角あるのだから取り敢えず使いなさい、どうせ目立つのだから目立つことにも慣れておきなさい、と言ったのは、もう出勤して家にはいない父だ。それ以来、璃々子は何とはなしに羽ばたく練習をするようになった。そうは言っても強風が通り抜けるビル街を抜けるのはまだ怖い。この一カ月で電線に絡まったことも一回や二回ではなかった。
璃々子がそう言うと母は少し笑って、焼けたトーストにマーガリンを塗って渡してくれた。
「それもそうね、飛び方はまだ巣立ち前の雛鳥みたいな感じだもんね、璃々子」
少しムッとしたけれど、確かに自分でも巣立ち前の鳥の雛みたいな飛び方だと思えるから仕方ない。時間がない、璃々子は香ばしいトーストを頬張りながら返事した。
「……まあ、そのうちちゃんと飛べるようになると思うし」
「そうね、ただ、歩いて行くのなら面倒臭いのには注意しなさいよ」
「うん」
トーストを急いで腹の中に詰め込み、学校指定の鞄を持って玄関まで行くと、ついてきた母が赤い市松模様の風呂敷に包んだ弁当箱を渡してくれた。
「行ってらっしゃい、頑張ってね」
言われなくても頑張ってるよ、と心の中で思いながら、璃々子はうん、と頷いた。
ひそひそ声に慣れた、と言ったら、それは嘘になる。指をさされることなど恐れないと言えば、それは強がりになる。好奇の視線が痛い。そんな時、璃々子は翼の付け根が疼くように感じるのだ。同時に、腹の中には何かがどろどろと溢れだしてくるかのよう。
落ち着かなかったし、よからぬことを噂されているような気がして嫌だった。だが、彼らに向かって嫌だ、と言った所で、そんなもの、止まるわけがないだろう。
廊下は何時も誰かの声で溢れているけれど、璃々子は誰とも喋らない。喋る自分に注目が集まるのも、喋った相手が自分のせいで何かに巻き込まれるのも嫌だからだ。
一カ月で璃々子は驚くほど無口になっていた。二年四組の教室に入っても、誰にも話し掛けない。好きな人は、好奇の視線を投げかけてくるばっかりになってしまったから、もう駄目だと思った。悔しくて悲しかった、諦めた。
でも璃々子にとって、閉じていても大きい翼のせいで場所を取るから、ということで移動した一番後ろの窓側の席は、とても有難かった。自分について何かを言われていても、ウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んでグラウンドを眺めていれば全部排除できる。そこは自分だけの世界だった。
そんな調子だから、クラスメイトとは必要最低限の会話しかしなくなった。新しくできかけていた友達とも交流するのをやめた。別のクラスになった前からの友達の所へ遊びに行くこともしなくなった。
「林ー、林璃々子ー、いるんだな?」
クラスメイトとは違う野太い声に呼ばれてハッと顔を上げると、いつの間にかチャイムが鳴って、何時から入ってきたかわからない担任が出席を取っていた。
「は、はいっ、すいません」
「いるのは分かってるけど、返事しろよ」
「……はい」
……こういうことで無駄に注目を集めるのも嫌だった。唯でさえ目立つ姿なのだからこれ以上目立ちたくなかった。
それに、不穏なニュースも流れてきていた。アメリカで、璃々子と同じように翼を持った人が、マンハッタンか何処かの人々を全て、木に変えてしまったらしい。
その場から生還した人の証言によると、その容疑者はイラク人で、先の戦争を口実にこのようなテロ行為をした、ということだ。あちらの放送を乗っ取り、救われることのない者が神の意志により世界の新たな礎となるように、なんていうことを言っていたらしい。
「――マンハッタンから生還した人って、翼が生えてたらしいよ」
昼休みのチャイムが鳴って暫く、弁当をつつく璃々子の耳にふと、こんな話が飛び込んできた。教室の反対側、向こうの方にいる女子だ。
「ええ、どっから聞いたのそんな話?」
「何か、噂が流れてるの。大学病院あったでしょ? 三週間前ぐらいにあそこに入院してた人が、中庭を挟んだ廊下の病室のドアの向こうに翼が見えて全身包帯だらけだった、なんて言ってたって、隣の区の高校にいる友達から聞いたって人がこの学校にいるんだって」
「何それ、又聞きの又聞きじゃん」
璃々子は、興味がないふりをしてそれを注意深く聴いた。大学病院は璃々子がありとあらゆる検査を受けた所だ。何故、生還した人はマンハッタンから日本に来たのだろう?
「でもさー、何で日本なの? アメリカの病院でもいいじゃん」
「さあ、アメリカにまだ人を木に変えた犯人がいるんじゃないの?」
「危険だからって? その人を追って犯人が日本に来たら、超、迷惑なんですけど」
「うわ、やだ、それ」
天使っぽく見えるけど全然違うよね、物騒だよね、なんて、彼女達は言う。暫くして璃々子はその視線が自分の頬をつつくのを感じたが、無視した。
「ねえ、林さんはこれ、どう思う?」
無視していたら、訊かれた。訊いた女子の周りにいる他のクラスメイトは勇気があるな、よくあんなことを訊くな、という視線を彼女に投げかけている。自分が危険人物であるかのように言われるのは胸糞悪かったけれど、これ以上目立ちたくないので璃々子は首を振った。
「……わかんない」
「わかんないって、その翼、あれと同じようなもんじゃないの?」
璃々子はその言葉にいらっとした。波風を立てないように努力している自分と殺人鬼みたいな人物とを一緒にしないで欲しかった。
「わかんないよ、少なくとも私はあんな無差別に誰かを木に変えたりなんて出来ない」
「出来ない、ねえ」
訊いてきた女子がこっちに近付いてきた。彼女が穿いている赤いチェックのプリーツスカートは短くて、すらっとした綺麗な太股が少し羨ましい。しかし、その態度は真実の報道、という言葉を風除けにしながら人の領域に何も考えず土足で入ってくる報道陣の連中に似ていて、璃々子は思わず身構えた。
何よ、私を殺人鬼にしたいの、なんて言える訳もなく。好奇心と猜疑心の混じった相手の表情は難しい、何を考えているかは謎だった。
「あのさ、ムカつく奴とか、いないの?」
「……え?」
「そいつなんて消えてしまえばいい、とか思う時、ないの?」
璃々子はまた首を振った。
「もしさ、林さんが、アメリカに来た……何人だっけ、イスラーム? テレビを乗っ取って、人を木に変えるーとか言ってた奴みたいにさ、その力が使えたとしたら……どうする?」
「……わかんないよ」
「……まあ、林さんはあんま皆と喋ってないから、嫌いだとか、そんな奴いないのかもね」
そう言って、彼女は溜め息をついて顔をしかめ、窓の外を見やった。何か不満でもあるのだろうか。
「……嫌いな人、いるの?」
思い切って訊くと、気の強そうな顔が素早く振り返る。彼女は璃々子にしか聞こえない声で、一気に捲し立てた。
「いるよー、気に食わないのとか、ウザいのとか、キモいのとか、マジで調子乗ってるやつとか、いっぱい」
「……喧嘩した?」
「ええーっ、喧嘩なんてめんどいじゃん。それに下手こいたら孤立して一人になって友達いない奴みたいに思われるし……って、林さんはいつも一人だ……よね、ごめん」
璃々子はううん、と首を振った。三度目だ。
「別に、これが一番楽なんだ」
「えー、何で? 寂しくない? 何か嫌じゃない?」
「下手に誰かと喋ったら……何か、唯でさえこれなのに余計に変な噂流されそう……って、ごめん」
「え、何で謝るの」
相手がきょとんとした表情を顔に浮かべる。璃々子はしまった、と思った。
「……あの、今、ちょうど誰かと喋ってる時だったな、って」
「はは、気にしなくていいし」
「……そ、そう」
だってさ、と彼女は続ける。
「あれじゃない? 喧嘩にしろその翼にしろ、目立つとしんどいねって話。ま、あたしは目立つようなこととかしてないけどね、何か、林さん見てたらやっぱ思うんだ、大人しく大人しくしてさ、誰かを特別扱いしないのが、何か、安全なのかな、って。ある意味林さんから学んでるのかもねー」
驚くほど素直な意見になるほど、と思いつつ、それに良い気分を覚えなかった璃々子は思わずこう言ってしまった。
「で、私が目立つから皆は下手に目立たなくてすむもんね? 皆は本当に楽だね、私みたいな話の種があって、さ。誰かにムカついても、私みたいなの見たら、ムカつくとかそんなこと、忘れちゃうだろうしね」
ふいっと向いた窓の外は緑生い茂る夏、七月。
昼下がりの五時間目、教室は居眠りなど出来ないぐらいに暑くて、皆は下敷きなんかで顔や首元をあおぎ、外で体育の授業をしているのは一年生だろうか、高校に慣れてきてふざけ合っているのが見える。
ハードル走は得意じゃなくなったなあ、翼が重いし、などと思いながら璃々子は頬杖をついて、ぼうっと黒板に視線を向けた。数学の定理や方程式を覚えるのは面倒臭いけれど、解けた時が面白い、のは好きだ。
期末試験が近いこともあって、クラスメイトは心なしか皆、焦っているようだった。璃々子も、もっと勉強を頑張らないと、なんて思っていた。飛行練習も合間に挟まないと、折角掴んだコツを忘れてしまう。何処かのテレビ番組のインタビューが週末にあったような気がする。人よりやることが多いのは明らかだった。
でも、やることが多いのは今の璃々子にとってある意味有難かった。クラスメイトに対してきつい嫌味を言ってしまった、という後悔は既に腹のあたりを侵食していて、定期試験の重みと共に自分を押しつぶそうとしている。
思わず溜め息をついた。幸い、教師も誰も気づかなかった。
しかし、罪のない、顔も知らない人に対してあんな仕打ちが出来るのだろうか、と璃々子はふと、思った。マンハッタンの大事件のことだ。あるいは、全く知らない人だから出来る行為なのだろうか。もしも自分があんな力を使えたら、と言うけれど、相手を知っていれば知っているほど、憎いと思っても木に変えてしまうことなんて出来ないのではないか、と考えた。
例えば、家族とか、友達とか、教師とか。
そんなことを思い浮かべている間に、授業終了のチャイムがスピーカーから聞こえ、先生が残念そうな顔をした。方程式の解答を説明している途中だったのだ。
五時間目が終われば、今日は水曜日、それで終わりだった。
掃除当番には選ばれていない璃々子は、机の中に入れていた教科書とノートを引っ張り出し、そそくさと帰る支度をした。
誰かと遊びに行こうとする男子、箒を手に取る女子、練習の為に走っていく吹奏楽部の部員、皆が皆の時間と世界を持っていて、同じクラスにいるのに互いに存在を知らなかった、なんてこともあるだろう。
なのに、璃々子は存在感がありすぎた。教室を出る時、廊下を歩く時、常に誰かの視線が纏わりついている。たまに声をかけられるけれど、返事は適当にしかしない。とりわけ今日はさっさと学校から離れてしまいたかった。
上靴でもいいか、璃々子は思った。明日の朝は飛んで、目立たない場所、例えば体育館裏なんかに降りてしまえばいいのだ。教室を出て階段まで行き着くと、下ではなく上へと昇る。あるものは使わないと、と父も言っていた。練習にもなるだろう、と考えた。
「お、天使ちゃんだ。元気?」
どこぞの男子生徒が変なあだ名をつけてへらへらと笑いかけてきたが、璃々子は適当にうん、と相槌を打って後は無視した。私は天使じゃない、マンハッタンの殺人鬼と同じような形なんだと言ってやりたくなったが、しなかった。後が怖かった。
「ちょっと待ってよ、天使ちゃん」
が、相手は追ってきたようだ。璃々子は足を速めたが、素早く階段を駆け上がってきた男子生徒に右腕を掴まれてしまった。
陽に焼けた肌に、人懐こそうな茶色の瞳、きりっとした眉、スポーツ刈りの色の抜けた髪に、だらしないピアス穴。ネクタイの色は璃々子達二年生よりも一つ上の、青。
「……離して下さい」
だが、振り解こうとしても振り解けないのが、男子高校生という皮をかぶった立派な男の腕力というものである。
「まあまあ、そんなにツンツンしなくてもいいじゃん」
「すいません、急いでるんで」
「何処行くのー?」
「……離して下さい、掴まれている以上、何処にも行けませんから」
その男子生徒は少し考えて、言った。
「じゃあ俺もご一緒していい?」
「……ご一緒、出来ないと思いますけど」
何しろ自分は今からこの翼を使って、家に飛んで帰るのだから。自分の意志には反していたけれど、目立つのに慣れておけ、と父は言った。何よりも誰かに捕まるのが嫌だった。
「何、飛ぶの?」
「……貴方に関係ないと思います」
階段を行き交う生徒や教師がじろじろとこちらを観察しているのが、璃々子には感じ取ることが出来た。ここから早く逃げ出してしまいたくて、言った。
「……あの、こんな所で目立つの、物凄く嫌なんで、どうでもいいから離して下さい」
「じゃあ、人気のない所ならオッケー?」
「それも嫌です、そういうこと言って、人の気持ちも考えないような絡み方、する人とは」
ふっと、掴まれていた右腕が楽になった。璃々子は素早くそれを振り切って、屋上に続く階段を駆け上がった。
あの先輩はきっと傷ついた表情をしている、と思えたが、下手に好奇心を持って近寄ってくるのは嫌だった。心が痛かったけれど、当然だとも思えた。
幸いなことに誰も追ってこなかった。
嫌な噂が流れ始めたのはそこからだ。
翌日、体育館裏から校舎に入った璃々子を待っていたのは、無愛想とか、性格がきついとか、人間嫌いとかいう単語ばかりの、ひそひそとした出迎えだった。お前達のその態度が人に“嫌いだ”と思わせる要因の一つなんだよ分からないのか大馬鹿者め調子に乗るな、と噛みついてやりたかったが、言った所で意味がないのはわかっている。諦めていた。
諦めながらもしっかりと授業は受け、真面目にノートを取り、璃々子は期末試験に向けて準備を整えていた。自分がまともに取り組めるのはこれぐらいしかなかった。
そして案の定、昼休みには机の周りをクラスメイトの女子数名が取り囲んだ。
「ね、昨日、美羽に酷いこと言ったんだってね、あんた」
こんなこともあるだろうからと感じて、母に今日は弁当はいらない、と言っておいて正解だった、と璃々子は思った。せっかく作ってくれた食べ物を下らないことで粗末にすることだけは避けたかった。
「本当にさあ、あたし達のこと、楽だと思ってんの? 悩みがあって辛いのってあんただけじゃないと思うんだけど、何? 一人だけ悲劇のヒロインぶってさ」
「後さ、海元先輩が話し掛けてきたのに、適当にあしらったんだってね」
本当に面倒臭い連中だった。美羽というのは昨日の昼休みに話し掛けてきた女子の名前だったみたいだ、取り囲む輪の外で彼女は何処かバツの悪そうな顔をしてうつむいている。階段で追ってきたあの男子生徒は海元とかいう名前だったようだ。
いや、そんなことはどうでもいい、何だってこうもペラペラ喋ったのだろうと璃々子は憤りを覚えた。
「……じゃあ、どう思う?」
気が付いたら口が勝手に動いていた。
「は?」
「何が」
璃々子はぐるりと取り囲む女子を一人ひとり睨み、もうどうにでもなればいい、半ばやけっぱちな気持ちで立ち上がる。椅子が大きな音を立てた。
「もし、こう言われたらどう思う? 何で翼があるんだろうね、マンハッタンの殺人鬼と何か似てるね、殺人鬼には翼が生えてるね、殺人鬼は人間を木に変えちゃうらしいね、一人だけ悲劇のヒロインぶってるね、天使ちゃん、天使ちゃん、目立つとしんどいね」
美羽がぱっと顔を上げた、彼女は真っ赤になっている。璃々子の気迫に押されたのか、二人ほど後ずさりして恐ろしいものを観察しているかのような視線を投げかける。言葉が途切れた時、教室が静寂に飲まれた。
「……その翼、あれと同じようなもんじゃないの、だって。私、誰かを木にしたこと、あった? 昨日のこと抜きで、今まで誰かに対して悪いことした? 誰かに暴力でも振るった? 皆、私の何を知ってるの?」
知らないんでしょ、言う璃々子はもう止まることが出来なかった。止まらなくてもいいとさえ思えた。
「ワイドショーとか見たことある? マンハッタンの事件と、私が一緒に取り扱われてるの。何か関連性はあるのだろうか、だって。部活もやってないし、さっさと帰るから、よく見るの。遺伝子に異常はありませんでした、脳波も正常、血液にも異常なし、悪性腫瘍の可能性もゼロ、本人はいたって健全な生活をしています……健全だって、さ。皆の噂の種になって、影でも表でもコソコソ、コソコソ言われてさ、何処が健全なわけ? 私はね、なりたくてこうなったわけじゃない。わけじゃないし、今までと同じように過ごそうと思って努力してるの。何を分かってるの? よく知りもしないでテレビのインタビューとかに、私のこと、嘘ばっかり喋ってくれた人もいるけど? 悲劇のヒロインぶるなって言うけど、逆にさ、あんた達の何処が悲劇のヒロインなわけ? 私みたいなこと経験したの? 今まで頑張って積み上げてきたものがわけの分からないもののせいで、ガッタガタに崩されたこと、あるの?」
璃々子はそこで息をついて、このまま喋り続けたら流石に何もかも見失うかもしれない、もう一度そこにいる皆を……否、教室全体を見渡した。
「あるの? 訊いてるの、誰か何か返したらどう?」
と、その時だった。
ドン、という音が体中に響き渡り、璃々子は体勢を崩した。立て続けに起こる地響きにクラスメイトも呻き声や叫び声を上げ、机に身体をぶつけ、床に転び、何事かとあたりを見渡す。
「――何?」
「外?」
「何か、あっちから聞こえた!」
誰かがグラウンドの向こうを指差し、皆は一斉にそっちを見た。璃々子もつられてそっちを振りむいた。
その向こうには国会議事堂がある。といっても遠くに見えるそれだが、明らかに様子がおかしい。
「……太い木?」
美羽が呟いた。璃々子にも見えた、どう考えても天井を突き破っているように見える巨木とおぼしきもの、その幹は異様に太く、それはまるで大勢の人を集めて円形に並べたような――
ざわり、教室に恐怖が蠢いた。
その重みに耐えられなかった男子生徒が、叫んだ。
「――あいつだ、マンハッタンのあいつだ、日本にも来たんだ!」
悲鳴で溢れたその場は阿鼻叫喚の巷と化し、璃々子は茫然と立ち尽くした。
クラスメイトは逃げようにも、何処へ逃げていいのかわからない、などと叫ぶ。何処へ行っても同じだ、と誰かが大声を張り上げた。璃々子もその通りだと思った。
電波の向こうにいた殺人鬼は、容易に人を見付けて手を下す。
もしもあの殺人鬼だとしたら、誰が彼を止めるのだろう? そうでなくても、誰が行くのだろう? 奇跡的に生還した人など、噂によれば翼を持っているとのこと、それならば誰がこれをやめさせるのだろう?
反射的に、璃々子は窓をめいっぱい開け放っていた。
どうしてかは分からないが、あの場所に行かなければならない、漠然とそう思った。断続的な地響きの中、ここにいる皆を助けるというよりもそれは、何故このようなことをするのか、その想いで頭がいっぱいだった。
「――林さん!」
窓枠に足を掛けた瞬間、誰かが璃々子を呼んだ。思わず振り返ると、皆が自分を注視している。
「……行ってくる、別に、仲間に挨拶しに行くわけじゃないよ、皆を助ける為でもないし、だけど、何でこんなことをするのか、訊きに行くだけ……殺人鬼と私とが同じかどうかは、私が決める」
璃々子はそう言い残し、窓枠を蹴って、未熟な翼で積乱雲溢れる夏の空へと舞い上がった。
アレサンドロは病室で感じていた。
アメリカに留まっていると再びザイトゥーンの攻撃を受けるかもしれないと判断されたこのイタリア人は、長期治療の為に日本の首都にある大学病院を訪れていた。何しろ摩天楼の天辺に匹敵する高さから落とされたのだ、身体は殆ど砕けていたらしいが、他の州から増援に駆け付けた救助隊員によると、彼の体を数え切れないほどの新芽が覆い尽くし、肉体を再構築していたらしいのだ。
それからここに運ばれ、意識を取り戻したのは三週間前である。
腕のいい医師によると人間としては異常なほどの驚異的な回復力を見せたらしく、己の体はすっかり元気だ。投薬もされていないらしい。今は観察の為、大学側の研究の為、入院を続けているにすぎない。
だが、地響きが聞こえた。またザイトゥーンかもしれない。
或いは、また別の誰かがやっているのかもしれない。
アレサンドロは、地響きによって医師が駆けつけてくる前に窓を開け放ち、患者服のまま日本の首都の空を全速力で飛んでいた。
前方に見えるのは国会議事堂だ。周囲の町には被害はないようだが、国会議事堂の天井は砕け散り、天まで届けと言わんばかりに伸びた巨木がそれこそ摩天楼の如くそびえ、自衛隊と警官をてこずらせている、犯人が分からないのだろう。
今自分がそこに行けば間違いなく犯人扱いされるだろうが、あそこに翼を持つ者がいるのは間違いない。
と、アレサンドロの視界の片隅に、おぼつかない飛び方をする大きな鳥のようなものがちらりと映った。思わず空中で制止して振り返ると、少女が一人、必死の形相で純白の翼を羽ばたかせている――
「そこの貴女!」
考える間もなく、アレサンドロは呼び掛けていた。少女が弾かれたように彼の方を向いて、囁いた。
「……誰?」
そこで二人ともが同時に眉をひそめた。どうして――
「――どうして、イタリア語を話せるのです?」
「貴方こそ、日本語――」
暫し、見つめ合う。そして、双方同時に再び国会議事堂の方を見やった。時間は数分しか経っていなかった、議員達を巨木に変えてしまった誰かがまだ、そこにいるかもしれない。
もう一度、二人は視線を合わせた。
「――それは後回し、急ぎましょう」
アレサンドロの言葉に少女もわかった、と頷いた。
「名前は?」
「璃々子です」
「……私はアレサンドロ」
「……噂で聞いたんだけど、マンハッタンからやってきてこの近くの大学病院にいたのは、貴方なのですか?」
「――もう漏れていたのですか」
「まずかったんですか?」
璃々子の速度に合わせて飛んでいた。アレサンドロは暫し黙って、ええ、と頷いた。
「ザイトゥーンに目を付けられましたからね、私は」
「……ザイトゥーンって、マンハッタンの殺人鬼の?」
「――彼は日本ではそんな風に呼ばれているのですか」
「テレビで散々、殺人鬼と私との関連性がどうのとか、言ってましたから」
璃々子の言葉にアレサンドロは押し黙った。
国会議事堂周辺は混乱を極めていた。通る車が玉突き事故を起こしており、そのうち数台が炎上、二台からは太い幹が空に向かって高く伸びている。やられたのだ。
「――何てことだ」
呟いたアレサンドロの左、傍らで璃々子も茫然とそれを見つめた。自衛隊と警官が騒ぎを鎮静化させようとしており、テレビ局のヘリが何台も周囲を旋回している。自分達の存在もカメラの中に収められているかもしれない、と彼女は気付き、隣の人の名を呼んだ。
「アレサンドロさん!」
「どうしたのです?」
「早く犯人を見つけないと、このままだと私達がこれをやった犯人だと思われるかも――」
「――ああ」
だが、アレサンドロは動かない。璃々子が思わず患者服の裾を掴もうとした時、彼は、とある一点を指差した。
「その必要はないですよ、璃々子」
そこに、純白の翼を広げる影が、ひとつ。
「……男じゃないです、アレサンドロさん」
「――私が見たのは短い黒髪に髭を生やした男でした」
「あれ、女の人――違う、女の子です、黒い髪を二つにくくってる」
その影は、何かを投げるような仕草をした。途端、アスファルトが崩れ落ちる轟音と共に天へ向かって太い幹が伸びた。あっという間のことだった。
璃々子は叫んだ。
「――駄目、やめさせなきゃ! アレサンドロさん!」
「――ええ!」
アレサンドロが右に、璃々子は左に飛んだ。勢いよく上がる炎の気流に煽られて体勢を崩しかけたが、司祭はそれをかわし、一気に目標へ向かって距離を詰めた。
どうしてこのようなことをするのか、心が人を傷つけることを欲しているのか、ならば、あのようなことをして恍惚の表情を見せる少女を救わねばならない――
そう、救わねばならないと強く思った瞬間、無数の蔓が己の身から放たれるのをアレサンドロは見る、そして、声をかける間もなく、それが黒髪の少女の体に巻き付いた。
炎に煽られ何とか体勢を整えた璃々子は、突然その少女の体に蔓が巻きつき、悲鳴を上げたのを茫然と見た。
翼に絡むそれは容赦なく動きを止め、急速に少女は落下していく。
違う、そうじゃない、璃々子は思った。
自分がしたいのは相手を“落とす”ことじゃない。
傷付けることなんかじゃない。
「違う、駄目ええええっ!」
璃々子は我を忘れ、落下していく少女に向かって飛び込んだ。アレサンドロが叫ぶのが聞こえた、自衛官や警官の声も聞こえた、全て無視した――
――その華奢な肩をがっちりと掴まえ、くくった髪が頬に触れ、透き通るような声が誰、と呟いた瞬間に、璃々子は自分の翼がぼきりと音を立てて折れるのを聞き、次いで、全身で衝撃を受けたのを感じた。
無数の新芽が身体を撫でている。
微風に揺らぐそれは優しく柔らかく、己を包み癒す。
そう、やはり自分は地球から生まれた大地の子なのだ、と璃々子は無意識のうちに感じた。翠の慈愛に満ちた愛撫は、ちっぽけなことで幾度となく傷ついた己の心にふわり、触れて、穏やかな気持ちにさせた。
遥か太古、私の祖先は木々の中とは言わずとも、翠と共に生きてきたのだ。漠然と、ただそう感じた。だから、こんなにも穏やかで優しい気持ちになれるのだ。
哀しみは何処かに消えた。翠に生きるよろこびで、肉体は満たされた――
「……璃々子、気がつきましたか?」
ずっと顔を覗き込んでいたのだろうか、璃々子は気がつくと、深い森の色によく似たアレサンドロの、心配そうな光を湛えた美しい青緑の目に視線を奪われた。
「……アレサンドロさん――おはようございます?」
「――ああ、よかった!」
神よ感謝します、と口走るアレサンドロは身をかがめ、勢いよく璃々子の両頬に口付けた。挨拶程度とはいえ、美男子から贈られた突然のキスにびっくりして璃々子は心臓が止まりそうになったが、そんなことに気付かない司祭は、身体を起こすと彼女の右手を握ってとうとうと語り始める。
「璃々子は、マンハッタンでの私と同じ“植物状態”になっていたみたいですけれど、やっぱりちゃんと回復しましたね、どうやら私の見込み違いではなかったみたいです――」
「あ、あの」
と、アレサンドロは何か恐ろしいことを思い出したかのような顔つきになって、喋ろうとした璃々子の顔が赤くなっていることなどおかまいなしに話を続けた。
「まずは、璃々子、申し訳ありません、元はと言えば私のせいで貴女を傷つけてしまった」
「……ううん、私も、考えなしに突っ込んだような気がするので……」
璃々子はそう言った。本心だった。
アレサンドロはホッとした表情を見せ、優雅に微笑んだ。それは大聖堂によくある彫刻の天使を思わせる。
「……そうですか、有難うございます。そうだ、璃々子に話したいことが沢山あるのですよ」
身体は起こせますか、と司祭が問うので左手を動かせば、柔らかい布の感触がする。首を動かすと、司祭の顔の向こうに白い天井が見えた。何処かに寝かされているようだ、それにしては、ベッドのような柔らかさを感じない。パイプも見えない。点滴を打たれているわけでもない。
「……ここは、病院?」
「いいえ、違うわ」
問うた璃々子の耳に、聞いたことのあるようなないような、凛と透き通った声が、答えをくれた。誰だろうと思って声の聞こえた方を振り向くと、そこには黒髪を二つに分けて耳の下でくくった少女が地べたに座っていて――
「アジト、って言った方がカッコいいかしら。お早う……そこのイタリア人から貴女の名前をきいたの、璃々子。私の名前は王草莓、十八歳、上海から来たの……ツァオメイって呼んで欲しい」
璃々子は肘をついてゆっくり起き上がり、広さがあることを確認してから翼を広げて座る。布団の上だった。そして、王草莓――ツァオメイと名乗った少女を見つめる。
「……あの、ツァオメイ? 私、あの時、どうなったの?」
ツァオメイは何かに臆するかのように、暫し黙ってから、再び口を開いた。
「……私がもう駄目だって思った時、璃々子が突っ込んできたの、私の肩を引っ掴んで、私を上にして、璃々子は私の下敷きになったの、翼が折れて、何か所も骨を折って――どうして、って思ったわ」
ツァオメイの鳶色の目が涙で揺れているのに璃々子は気付いた。
「……どうしてあんなことをしたの、って、思ってるでしょうね、璃々子。事実から言うわ、国会議事堂にいた日本の国会議員は皆、私が大きな木に変えたの。何でこんなことをしたかっていうのは……言えない。ただ、私は、私のせいで……苦しい生活をしてる母さんと妹を助けたいだけ」
璃々子は何も返せなかった。家族が大切なのは、鬱陶しい時もあるけれどいつも自分を気遣い、愛してくれるからで、痛いほど分かる。きっと、ツァオメイの後ろには何か重いものがあるのだろう……日本の国会議員を全て、物言わぬ生命に変えてしまう必要性のある、何かが。
見知らぬものの命と大切な人の命を天秤に掛けることなどけしからぬ、という輩もいるだろう。けれど、璃々子はそうは思わなかった。自分に置き換えてみれば容易に理解出来る。そしてそこに、電波の向こうでしか見たことのないザイトゥーンという男の存在を重ねた。
「……だから、訊かないで欲しい、とても罪なことをしているのは分かってる、分かってるのよ、だけど、一度やると止まらなくなるの、母さんと妹のこともあるし――」
「ツァオメイ」
璃々子はそこで、涙を流さない気丈なツァオメイに向かって口を開いた。
「上海に帰った方がいいんじゃない?」
「――どうして?」
「……お母さんと、妹が待ってると思うけど?」
ツァオメイは沈黙した。アレサンドロの視線がこちらに向いているのが分かる、けれど璃々子はもう一度言う。
「元気な顔を見せてあげるの」
再び沈黙が訪れた。
誰かの話し声が何処か離れた場所から聞こえてくる。落ち着いた女性の声と、ゆっくりとした低い男性の声。まだ幼い少女の声。その中で、ツァオメイがまた、小さく呟いた。
「……私は、日本をかつてないほどの混乱に陥れたわ」
璃々子は、少し考えてから、うん、と頷いた。
「でも、私はツァオメイのやったこと、裁けないよ……だって、お母さんでしょ、妹でしょ? 誰かも分かんないような人と、家族と、どっちが大切かって言われたら……私だって、何をするか分かんない。私は日本人だけど――」
「もう一つあるの、璃々子」
ツァオメイの瞳に残酷で自虐的な光が宿り、口元が僅かに歪む。璃々子は思わず身を引いた。
「……止まらなくなるの、自分はこんな力を手に入れたんだ、って思うと、他の人より何倍も優れてる、皆取るに足らないんだ、これなら勝てなかったものにも勝てる、そんな気持ちになるの、だから止まらなくなるの」
何も返せなかった。中国人の少女の目から、ついに涙が零れ落ちた。
※この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。
二十代の供養塔 久遠マリ @barkies
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