3-3 call my name

 昼過ぎなのに薄暗い事務所は、良二によって開けられた『務』の窓から、初冬の冷めた空気を吸い込んだ。それにつられるように、良二の身体もようやく若菜を向く。

「て、め……何言ってんだよ」

 真っ直ぐに良二を見つめ続ける若菜は、静かに涙を流していて。

 その涙に動揺しないわけのない良二。態度には出すまいと、不機嫌を全面に押し出し、タバコをふかすことでしまい込む。

「じゃ何のために、ここでマジックやり続けてんだよ。俺に教わるとかなんとかっつってよ」

「最初は……そりゃ最初は、マジック教わって、YOSSYさんの弟子にしてもらいたくて、必死でしたよっ。でもこの前っ、柳田さんが話してくれた昔のこと、聞いてから、私、なんか違うなって」

 ゆらゆら揺れている、若菜の声。

「私、柳田さんの役に立ちたい……立ち続けたい! 秘書であること抜きに、いや、もちろん秘書であることも、私の自慢で、自信ですけど。それよりもっとシンプルに、一番に柳田さんのことを、いつも大事にしたいんですっ」

 鼻の頭が熱くなっていく若菜。鼻呼吸をすると、ズズッと啜ってしまった。

「柳田さんが、最近楽しいって言ってくれたの、私、すんごく嬉しくて。私が柳田さんに、『楽しい』って、ずっとずっと言わせたいって、思ったんです! 毎日毎日、柳田さんには、楽しいって思ってもらいたい。私だって、柳田さんと一緒に居ると、楽しいから、だから」

 不格好に涙を拭う若菜。

「私、柳田さんからマジック教えてもらうのが好きです。なかなか理解しない私にも、根気よく教えてくれるから。そんで、私が出来たとき、柳田さんちょっとだけ笑ってくれるから」

 ドキリとする良二。咥えていたタバコを外す。

「たくさん出来るようになって、柳田さんに楽しいって思ってもらえて、で、ちょっとずつ笑ってもらえると、私も楽しいし、幸せでね」

「…………」

「そんな風に、柳田さんの楽しいを作ることが、私がここに居る理由に変わったんです。YOSSYさんに言われて来たことがきっかけだったけど、でももう今は、そうじゃない。私は、私の意思で、ここに居続けてるんです」

 左の中指と人指し指がわずかに熱い。知らぬ間に、タバコの火が近付いていた。慌てて携帯灰皿に落とし、蓋をする。

「でも、タイミングが重なるみたいに、私がやりたいことがわかるとね、今までに無いくらい、いろんな人から頼られたんです」

 初回のベビードレスに始まり、幼い双子への衣装作成や、YOSSY the CLOWNからの勧誘。そして、今回の件。

「困ってるわけじゃないし、めちゃめちゃ嬉しいです。こんな経験したことない。いつも私、邪魔にされてたし。だから全部、引き受けたんです。私にしかやれないことなんじゃないかなって、思ったから」

 そういうことか、と胸に抱く良二。詰まった眉間が更に深まる。

「でも、でもそれだと、一番大事にしたい柳田さんのことが、大事に出来てないってことなんですよね? 現にこんな感じで、柳田さんに、嫌な想いさせたし。なんかもうどうしたらいいか、わかんなくて」

 きゅん、と目を瞑る若菜。右手が自らのひたいを抱える。

「大事なものに、順番があるなんて知らなかった」

「え」

「私、一番以外は諦めないといけないのかな。でも、私はたくさん大事にしたくて、でもそれじゃ欲張りで、結局『一番』が疎かになって」

「…………」

「柳田さん。私のわがままで、傷付けちゃって、ごめんなさい」

 ふらふら、と前へしおれる若菜の躯体。再び乱雑に涙を拭い、顔を俯けて良二へ直る。

「離れてなるものかって、思ってたんですけど……柳田さんの邪魔になるのは、一番嫌なんで、明日、出……」

 続きを言おうとするだけで、若菜の目の前がぐらぐらと揺れる。

「出て、行きますから」

 ボタボタ、重みのある涙が事務所のつるりとした灰色のタイル床を濡らす。

「ここにある私物、明日には、なんとかしますね」

 涙と共に、力なく無理矢理笑む若菜が、さすがに良二にさえも痛々しく映る。

「違う、待て」

 独り言に似た良二の言葉。わずかに若菜には届かなかったらしい。くるりとゆっくり、ベージュ色スーツの背が良二へ向いた。

「今日もう、ゆっくり寝てくださいね。徹夜で、お疲れなんですから」

 事務所のアルミ扉のノブに、手がかかる。そこへパタパタと涙が落ちる。

 同時に、良二は寄りかかっていた窓辺から背を離し、大股でズンズンと若菜へ寄った。


 違う、言いたかったことはこんなんじゃない。

 それよりもっと先があるんだ──。


「若菜っ」



        ♧



「どこ行くんだよ」

 玄関先で、ダセェ新しい靴を履くアイツへ、そんな風に声をかけたあの日。

「外国だよ」

「が、ガイコク?」

 くるりと振り返り見上げた俺へ、いつもの仮面笑顔でアイツは答えた。なんでもないように──まるで、近所へ暇を潰しに行くみたいに。

「何の、ために」

「修行しに行くんだ。俺の芸で、一人でも多くを笑わせるために」

「なん、なんでそんなこと、テメー『も』やるんだよ」

 俺だって、やろうと思ってたのに。

 腹括ったばっかだったのに。

「決めたんだ。俺が父さんと母さんの『続き』をやるって」

「父さんの代わりは俺がやる! マジックは俺のモンだろ、決めただろ!」

「大丈夫。もちろんマジックは良二のだ。だから俺はマジック以外で、父さんと母さんの続きをするんだよ」

「どーやって」

「それを見つけるために、世界を行くんだ」

 長い沈黙。続く睨み合い。

祖父じいちゃん放ってくのか」

祖父じいちゃんの傍には、良二が居るだろ」

「俺だけじゃないだろ、孫は」

「そのままそっくり返すよ、良二」

 コイツに、俺が口喧嘩で勝てるわけがねぇ。俺は国語が苦手なんだ。

 でも。

 言っときたいことは、あるから。

「残ってるもの中途半端にして、新しいとこ行っちまって、それでテメーはいいのかよ!」

「残って続けてても進展がないのは、自分の力量のせいだから。だから修行しに行くだけだって」

 察し悪いな、『俺の』兄貴のくせに。


 違うんだよ、そういうことじゃないんだ。

 俺が本当に言いたいことは、回りくどくしか言えねぇけど、本当は──。


「随分勝手だな、打たれ弱いし」

「頑固な泣き虫に言われたくないよ」


 手が、すり抜けていく気がする。

 本心を言えないがために。

 掴まえておきたいものが、ボロボロと。


 ボロボロ、と。



        ♧


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