4-2 crush the old think
枝依中央区──小田邸。
両親共に、今日に限ってなかなか出掛けない。昼頃には居なくなると思っていたのに、予想外の展開です。
「これじゃあ、遅れちゃう」
わたし──小田蜜葉は焦っています。お約束のお時間が近いのに、まだ家から出られていないんです。
でも、もうさすがに出向かなくっちゃ。約束しましたから、エニーちゃんと、サムくんと、若菜さんと。
そして、柳田さんと。
よし、と意気込んで、自室の姿見で全身をざっと確認します。部屋に閉じ籠っていたって、どうにかなるわけじゃないですよね。
静かに部屋を出て、静かに階段を降りて。何でもないようにリビングを抜けて、何でもないように玄関で靴を履きます。
今日は黒い膝上丈のフレアスカートなので、厚みのある黒いエナメルパンプスを。あんまりヒールを高くすると、母が「はしたない」と酷い剣幕を向けるので、仕方がないから三センチのもので我慢します。
玄関をそっと開けて、「いってきます」と囁くように、独り言。
「どこへ行くの蜜葉?」
「うっ」
背後からかかった声。母のものです。慌てて振り返って、母と対面します。
バレてしまいました、出掛けようとしていることが。両親が家に居る休日に単独で外出なんて、したことありませんから。
きっとわたし、血の気が退いているんでしょう。わたしの顔色を見て、母はスッと腕組みをしました。嫌な予感……だって、お説教の合図なんです、これ。
「とっ図書館。本屋さんへ、寄ってから、中央図書館で、課題をして、こようかと」
顎を引き、まばたき少なく母へ向かうわたし。でもダメです、母の顔を凝視し続けるのは苦痛以外の何物でもなくて。
つい、母から目を逸らしてしまいます。だって、嘘を吐いているんですから。
「何の課題なの? 何の授業? いつまでに?」
「明日以降、選択の授業で、その、個人発表で……だ、だから一人でやらなくちゃいけなくて」
握った鞄の、合皮の持ち手紐。いつものように左肩に掛けているそれは、今のわたしの唯一の寄りかかり先です。
「それにしては鞄が随分と小さいのね?」
「そっ、れは」
「本当は、どこへ行くつもりなの?」
やっぱり。わたしの嘘は見抜かれてしまっていました。
ゾワワとわたしを駆け抜ける、羞恥と焦燥の苦味に似た鳥肌。寒気がして、呼吸が浅くなっていきます。
「最近お稽古ごとを軒並みサボっているらしいじゃない? ピアノも、書道も、お華も、それぞれ先生方からご連絡が入っているわ」
「そ、れは」
確かにそうです。習い物を休んで、わたしは若菜さんのもとへ向かっていたのですから。
「お稽古ごとを休んでまで、嘘を吐いてまで行かなきゃならない場所へ、今日も出掛けるつもりなの?」
「そ、そうではなくて……」
「きっちり答えなさい蜜葉。ハッキリ弁明が出来ないなら、不純異性交遊まがいのことに手を染めていると思わざるを得ないわ」
「待っ、どうしてそうなるの?!」
顔を上げたら、母の冷淡なまなざしが刺さりました。
嫌だ、この眼。本当に好きじゃない。ずっとずっと、このまなざしが好きじゃない。
「瞬時に、そして明確に言えないのなら、如何わしい事にうつつを抜かしいるのと同義でしょう」
「そんなことしてない。遊び、なんかじゃないっ」
「じゃあコソコソと何処へ何しに行くのよ」
涙の気配を呑み込んで、震える唇を強く噛んで。
「進路相談、に、のっていただいて、るんです」
「進路相談? 一体どなたに?」
母には、絶対に柳田さんの名前は出せません。この人は、邪魔だと感じた人を平気で潰すような、黒い一面を持っているんです。とても厄介なことに、市議会議員という世間的な権力を持っている母なのです。
「舞台、のお仕事を、なさっている方」
「ぶっ、舞台?!」
裏返る母の声。ああ、本当に嫌だ、この声。頭が痛くなる。
「あなたまさか……まさか役者にでもなろうって言うんじゃあないでしょうね?!」
「違うっ、役者さんではなくて……」
「私がどんな思いであなたに投資してきたことか、まだわからない?!」
「だ、だから、わたしは」
「ハァー、本当に考えられない。どこでどう間違ったらそうなるのかしらっ」
わざとらしく溜め息をついて、首を振る母。わたしの声なんて、聴こえていないんでしょう。
「昔から言っていることですけどね、人の役割には分相応というものがあるの。いろいろやらせてるものの、あなたは抜きん出て何も無かったじゃない。だからせめて勉強だけでもと思ったお母さんたちの気持ち、いい加減にわかってもらえないかしら」
あぁ、また始まった。押さえつけだ。
今更こんな人に、わたしはわたしの何を理解してもらおうとしてるんだろう。
何を共感してもらえると、期待しているのだろう。
小さい頃から、わたしの意思の優先順位はこの家の最下層。そんな、血の繋がった一人娘を人間とも扱わないこの人に、わたしの今の状況の何を理解できるだろう。
そう思ったら、心の外側の薄い部分に、パキッと細く亀裂が入ったような痛みをおぼえました。暖簾に腕押すような虚しさに、反論の気持ちが、ぷちぷちと途切れていきます。
「まさかこんっなくだらない事に時間を割いていただなんて、思いもしなかったわ」
「……は?」
その一言に、カチンときてしまったわたし。ゆっくりと、視線を母へ上向ける。
「くだらない、ってなに?」
「大体あなたね──」
母は小言をやいやいと言い続けていますが、もはや耳にも入ってこない。落胆の目の前がぐらぐらと歪んで、低い声が勝手に言葉になって、わたしからするりと出てしまう。
「お母さんだって、何もわかってないよ」
「はん?」
ようやくわたしに耳を傾ける母。
「わたしが小さい頃からなりたいものがあることも、やってみたいことがある気持ちも、全部全部踏みつけて、聞かないで、知ろうとしてこなかった」
奥歯をギリリと噛み締めて、唖然とする母へ吐き出していくわたし。
「わたし、舞台衣装のデザイナーになりたいの。小さい頃からずっと、なりたいと思ってたの」
「でで、デザイナーですって?!」
赤紫のアイシャドウが見えなくなるまで、目を見開く母。
「な、なにバカなこと言ってるの!」
「わたしは至極真剣ですっ」
ぐらぐら煮えたような胸の内から、勝手に言葉がついて出る。理性を無視したわたしの本音。
いい機会かもしれない。この人からも、わたしは逃げ続けるのを止めないといけないから、出し切って、問題提示しておいて、後から話し合うなりなんなりした方がきっといい。
「わたしの描いたものを、『これが良い』って、その方は仰ってくださったの。だから……だからわたしは、その方のためにデザインを練って、それで世間に挑戦するって、決めたんです」
「ふざけるんじゃあないわよ! あな、あなたの、デザインですって? デザインの事を何も勉強していないあなたにどんな物が創造できると言うの!」
「わからない。でも、わからないから挑戦するの!」
ここで母には言い負けられない。諦められない。初めてわたしを肯定してくれた、柳田さんのためのデザイナーになると決めたのだから。
わたしには、肯定してくれた人達がいる。肯定してもらえた、温かい記憶がある。
柳田さんのキラキラとした微笑みを思い出せば、今のわたしはどんなネガティブの前にも、ポジティブになれる。
わたしの道は、わたしが決める。
「昔からわたしのやりたいこと、なんでも奪って、わたしのためとか、建前並べて。でも本当は世間体のために、家柄も地位も結婚も大事にしてるって、わたし、ずっと気付いてた」
ワナワナと震える下唇を一噛み。
「こんなのわたし、どうだっていい。ウンザリしてるの。これだけは、邪魔しないで。お母さんの常識に、これ以上押し込めないでっ。わたしだって、もうとっくに一人で思案して、歩み進める脚があるんだからっ」
カツカツ、と二歩
「デザイナーには、絶対になる。万が一ダメになっても、お母さんたちにだけは、すがったりしないから」
「蜜葉っ、戻りなさいっ」
玄関ドアを、後ろ手に開けるわたし。
「これはわたしの人生っ、わたしが決めるの! 取捨選択の権利は、わたしにあるから!」
まるで叫ぶように、言葉を吐き出したわたしは、玄関ドアから乱暴に飛び出しました。
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