2-2 correct some misstates

 二日後、一六時半前──柳田探偵事務所。



 この日の蜜葉との作業を終えた若菜は、事務所のアルミ扉を開けながら「戻りましたぁ」と声かけをした。

「おう、終わったか」

「はい。蜜葉帰っちゃったので、今日の作業はここまでです」

「ん」

 『所』の窓付近の書類棚を漁っていた良二。戻ってきた若菜を一瞥いちべつし、しかしさっさと手元の書類ファイルに視線を戻した。

 その手元が、ガサガサとせわしない。若菜の全面協力のもと、完璧に近しい状態でファイリングされた紙が、乱雑にめくられ続けている。遠巻きに見ていた若菜は、眉を寄せ、後ろ手にアルミ扉を閉めた。

「どうしたんですか、そんな血相変えて」

「張り込み案件入った」

「へぇ、マジに張り込みってやるんですね」

「まーな」

 若菜が探偵事務所に秘書として働き始めてから、良二が張り込みをするのは今回が初めてだった。安易に『あんパンと牛乳』などと想像し、内心でクスクスな若菜。

「二分間そこで待ってろ。三点ばかし話がある」

 『そこ』と指定されたものの、特段どこかを指されたわけでもなく。

 小さなシンクでひとまず手を洗った若菜は、流れるように足元の小さな冷蔵庫から缶コーヒーを一本取り出し、応接ソファの定位置へと腰かけた。缶コーヒーは、センターテーブルへ置いておく。

「よし。よく聞いとけ。まず二点、業務のこと喋る」

 ストップウォッチのように正確に、きちんと二分後に身をひるがえした良二。右腕には三冊の書類ファイル。応接ソファのどこにも座らず、良二は若菜へ向き直った。

「一点目。今日木曜だな」

「はい」

「今日から来週の水曜まで、俺は留守にする」

「まぁ、張り込みですもんね」

「当然そのかん事務所ここにも自宅にも帰ってこねぇ。だから、この先一週間はオマエに留守番しててもらう」

 長い上半身を折り曲げながら、カシュ、と開けられるプルタブ。

「いつもみたいに電話とって、柳田さんに引き継ぐだけですか?」

「いや、張り込みの間に連絡よこされても無理だから、電話は取らなくていい。七回コールすりゃ、勝手にこれに繋がるようになってるしな」

 左手に持った缶コーヒーを右手に持ち直した良二がチラリと見せてきたのは、自らのスマートフォン。右の胸ポケットからわずかに覗く。

「だァらオマエは、いつもどおり裏のアパートの掃除だけはやっとけ。あとの事務仕事はやんなくていい。午後は、その……向こうで作業だけやっとけ」

 言い渋り、顔を背けた後で、ズズ、と右手から吸われる缶コーヒー。

 若菜は、良二の言葉の端々ににじむわずかな違和感に眉を寄せる。違和感を認識しただけで、明確にどこがと挙げられるわけではなかった。

「ん? 私、事務所に来なくていいんですか?」

「あー」

「向こうって、作業部屋のことですよね?」

「あー」

 淡白な返事のせいで、違和感を検証できない若菜。

「来客あっても、無視になっちゃいません?」

「そんでよ、これ貼っときゃいいだろって話よ」

 ツカツカと事務机へ寄り、右手の缶コーヒーと小脇に挟んだ三冊のファイルと入れ替えに、そこにあった一枚のA4紙を拾い上げる良二。同じようにかかとを鳴らし戻ってくると、若菜の眼前へそのA4紙を差し出した。



  る垨留守にしてます。

  おいそぎの方はこちらまで電話下さい。



「ん、んん?」

 横書きの、良二の手書き文字。簡素な言葉にもかかわらず、漢字の間違いと読みにくさに、若菜は口角がぐんにゃり。

 末尾にはスマートフォンの番号があるものの、『1』か『7』かが不明瞭な文字に加え、『0』なんだか『6』なんだかも定かではない箇所まである。

「あのー、柳田さん」

「んだよ」

「これを貼る……んですか?」

 まさかね、を滲ませるも、少しもみ取れやしない良二。

「なんだっつんだよ」

 いつもの調子で返される返答。

 若菜は、そういう良二の『残念さ』が垣間見える度に、彼の人間味を秘かにたのしんでいるわけだが、今回もまたそれにあてはまる。

「い、いえ。貼っておきます。私が、直々に。秘書ですのでね。うん」

 瞼を伏せ、そっと折り畳むA4紙。あとで自らが書き直して貼っておこう、と腹の底で決意する。

「んで、二点目がこれな」

 胸元をまさぐって出てきた茶封筒。輪ゴムで束ねられたそれは、束になっていても厚みがほぼない。

「七日分の、オマエの食費だ」

「食費」

 言いなぞると、茶封筒束が静かに向けられた。反射的にしっかり受け取る若菜。しげしげと眺めれば、ご丁寧なことに、日にちと曜日が茶封筒の中央に記載されてある。

「それ、一個一個が書いてある日に使う分だかんな。それ以外の日に開けたら、即解雇処分にする」

「か、解雇ォ?!」

「あー。カネ遣いも次のレベルっつーこった。俺の目が無くても、そんくらいの覚悟もて。わーったか」

 細い視線が若菜に刺さる。「ふぇーい」とぬるい返事で返すと、短く小さな溜め息が良二から漏れた。

「で。これが三点目」

 再びツカツカとかかとを鳴らし、良二は事務机を回り込んだ。軋む事務椅子には触れないまま、さっき置いた三冊のファイルのうち、一冊の裏表紙を若菜へ見えるようにして立てる。まるでフリップ芸のような格好に、若菜はキョトンと目を点にした。

「これオマエにやる。さっさと持ってけ」

「うへへーっ、ありがとうございますっ」

 若菜は、誤字あり貼り紙と食費封筒束をセンターテーブルへ避難させてから、うきうきと立ち上がった。例によって、『あげるやる』と言われて体が勝手に吸い寄せられてしまう条件反射。

「べぇっ、別にっ、深い意味はねぇんだかんな」

 ぎゅんと眉が寄り、耳が赤く染まった良二。裏表紙を向けられていたファイルが、まるで舞台の緞帳どんちょうのようにスッと中空へ持ち上げられる。

「あえっ」

 ファイルの向こうに突然現れたのは、何かが入ったビニル袋。下階のコンビニロゴが印字されてあることから、そこで購入してきたものだということは明白だ。高さはあまりないものの、厚みも幅もあるそれは、上から覗いて初めて正体が明らかになる。

「か、カツ丼……?」

 コンビニで売られていたであろうこれには、ご丁寧に割り箸まで付けられてあった。

 ソロリソロリと見上げる若菜。

「なぜこれを、私に?」

 ぐりんと『柳』の窓を向く良二。

「だっ、だァらっ、その、あれだ。たまたまほら、俺が食おうと思って買ったんだが、その、張り込みがだな」

 声を半分裏返し、弁明を始める良二。三冊のファイルを再び右脇に抱え、耳を染めている。

「張り込みの間に食べればいいじゃないですか」

「あっ、温めなきゃなんねっだろ」

「張り込み先で温められないんですか?」

「チンタラやってらんねーだろーよ」

「ふーん? そういや、柳田さんもカツ丼好きなんですね?」

「俺はっ、……いや、別に」

「私と一緒ですね。私、丼ものスゲー好きなんですよ」

「知ってる」

「あれ? 前も言いましたっけ」

「言っ──いや、だっ、だァらそれは」

「それは?」

「おぁ、ほんとは、その、オマエに買ったモン、だから、っつーか」

 極小ボリュームの、辿々しいその一言。

 こぼれそうなほど、目を真ん丸に見開いた若菜は、その場に立ち呆ける。

「こあ、細けぇことはいんだよっ! おら、さっさとここ閉めンぞっ。わわわ渡したモン全部持て忘れやがったらアパート追い出す」

「えっ、ええっ?! おお、横暴ですっ」

「ルセー、早くしろっ」


 爆速で打ち鳴る、それぞれの心臓。


 一分の間に必要なものを抱え、戸締まりや元栓確認まで終えて、二人は事務所のアルミ扉を閉めた。

「明日までに、ここに貼り紙貼っとけよ」

「ほぇ、へーい」

 良二が鍵をかける。二度ガチガチと扉を引き、施錠確認が済んだ後で向き合う。

「じゃ、行ってくる……」

「は、はい。お気を付けて」

「…………」

「あの」

「え」

「あり、がとございます。夕飯」

「あー」

「かっ、帰ってきたら、わ、私も、なんかその」

カネ遣いちゃんと出来りゃな」

「でっ、そのくらい出来ますぅー」

「へっ。どーだか」

 満足そうに、くるりと背を向けた良二。上階の自宅へとかかとをカシュカシュ擦って向かう。

「…………」

 ぽつり、一人残った若菜。

「違和感わかった」

 右肘に下げたカツ丼のビニル袋をそっと見やる。

「これはヤバい」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る