5-3 crying dreaming

 フランス──某所、アパルトマン。二三時二〇分。



 モソモソと、隣の部屋から音がする。これは布団が身体から剥がれた音。俺──柳田善一よしかずは、リビングで読んでいた雑誌から目を上げた。

 かけているサングラスは、当然『OliccoDEoliccO®️』のもの。下方の黒から灰色へ抜けるグラデーションレンズが、俺の白銀の瞳を丁度良くカムフラージュする。ただしこれは、自宅専用にしている一品。まぁ早い話がプライベート用というか、そんなようなもの。

「…………」

 耳を澄ます。なんだか、啜り泣く声がするような気が。

 立ち上がり、なるべく音が鳴らないように雑誌をセンターテーブルへ放る。隣の部屋へ近付いて、扉のノブに手を掛ける直前で、小さな会話が耳に入った。

「ダイジョブだよ、ほら」

「っく、っく。ふえぇ」

「ね? もう泣かないで、エノーラ」

 どうやら、エニーが泣いているようだ。悪い夢でも視たのだろうか。


 エニーが泣いている理由。それを俺は簡単にわかってしまう。

 今までに『大人からされてきたこと』を否応なしに夢として思い出してしまっては、その度に涙にして、体外へと排出しているんだろう。そうでもしないと、エニーの受けた心の傷跡も恐怖も、なかなか癒えないんだ。 


 かけているサングラスの位置をカチャリと直す。

「ダイジョブ。ここはフランスだよ」

「ふえぇん……」

「ね、エノーラ、泣かないで」

 声を殺して泣いて、声を殺して慰めて。

 サムとエニーは、ずっとこうして幾夜も過ごしてきたんだろうか。

 俺は、扉のノブへ寄せた右手をスッと下ろし、グッ握った。


 こういうとき、子どもの多くは親を呼んで、その体温にくるまるんじゃあないだろうか。

 その安心感を得て、笑顔のままに眠りにつくんじゃあないだろうか。

 でも、俺はまだ二人には呼ばれない。

 更にはこうして声を殺して、俺に気を使っている。

 養子にしたばかりとはいえ、サムとエニー、そして俺の間には、やはり簡単に埋まらない距離がある。それが明確化したような気がして、胸の奥にズンと恐怖が迫った。


 そもそも。


 『子育て』なんて、わかるもんか。俺だって二五才の青二才、ましてや独身男だ。

 彼女どころか、結婚なんてのも当分必要ないと思っている。『レーヴ・サーカス』団員のイタリア人の彼女とは三か月前にあっさり別れたし、未練も何もない。

「…………」

 ていうか、なに考えてる、俺。今の『問題』は、そんなところじゃない。こんな考えゴミ箱の底にでも捨てとけ。


 握った右拳を緩くほどき、ひとつ深呼吸。ほどいた指先で優しくトトンと扉を叩く。

「ヨッシーだよ。入ってもいい?」

 ヒュン、と息を呑む『気配』。わずかに瞼を伏せて待つ。

 五秒の後に、キイ、と扉が引き開けられた。

 開けたのは、サム。深い灰緑の瞳を不安気にゆらめかせて、まるで立ち塞がるように入り口に立っている。その背後にはエニー。ベッドの隅の方に俯いて座り、柔らかな小さな手の甲を顔へ押し当てて覆っている。

「ご、ごめんなさい。うるさかった?」

「え? いや、そうじゃなくてね」

 笑顔がぎこちなくなりそうだったけれど、俺は何てことなく首を横に振る。サムがいぶかしげに眉を寄せる。

「ちょっと、俺も傍に居てもいい?」

 サムは、寄せた眉をそっと緩めて目を見張った。その背後で啜り泣いていたエニーも、目元を拭って顔を上げる。

「え?」

「ちょっと甘えたくなっちゃって、キミたちに」

 返す言葉に困っているんだろう。わずかな間を空けてから、笑顔ではないくしゃりとした表情で俺を見上げてくるサム。

「変なの。大人なのに」

「フフ、大人はね、太陽が沈むと欲望を剥き出す子どもになるんだよ。ただ、それが無自覚だから、子どもたちよりも俄然たちが悪い」

「じゃあ、ヨッシーも子どもだったんだね」

「俺は自覚してるから大人だよ」

「あは、矛盾してるよ」

 サムが弱く笑った。よし、ちょっと安心。

「ヨッシぃー……」

 サムの背後のエニーが、細くゆらゆらと俺を呼んだ。サムが道を開けてくれる。

「エニー。怖い夢、視たんだね?」

「う、うん……びっくりして、いつも、起きちゃう、の」

 なるほど、やっぱりか。俺は笑顔をそのままに、サムの肩を抱いて、エニーへ一歩一歩と近付いていく。

「あのね、ヨッシー。エニーは、同じ怖い夢を頻繁に視ちゃってるんだ」

「そっか、それはやっぱりツラいな」

 静かに教えてくれたサム。そっとエニーの隣へ座らせ、俺は二人の目の前にしゃがみこむ。

 薄明かりの、この寝室。俺の居たリビングの灯りが、二人の幼いまなざしを照らす。

「あのね。俺がキミたちに甘えたくなったのもホントなんだけど、それより、俺はキミたちに甘えてもらえたらいいなって、思ってさ」

 今のはさすがに照れくさかったな。はにかんだ後に、照れを覆わんと言葉を続ける。

「俺にできることは、キミたちへ何でもやってあげたいと思ってる。だけど、俺も『お父さん』歴が浅すぎるから、何をしてあげたらいいのかわかんないんだ」

 柔らかく、暖かな二人の幼い手を取る。

「エニーにもサムにも、怖い夢で泣かなくても済むような眠りをあげたいんだけど……俺、何をしたらいいかな、と思ってて。それが思い付かなくて、そしたら二人に甘えたくなったんだ」

 鼻をすんと啜る、エニー。ふわふわと、ブロンドの美しい髪が肩からほろりと垂れ下がる。

「ありがと、ヨッシー。嬉しい」

 柔い頬をぽにんと持ち上げて、エニーがほんのり微笑む。

「頼り方、とか、アタシたち、も、わかんなくてね。甘えるって、やったことなくて。その」

「うん」

「ヨ、ヨッシーが、その、ダイジョブだったら……あのね、ちょっとでいい、の。ちょっとだけ、こうやって、手、握ってて?」

 きゅ、と弱く握り返される俺の右手。

「手を握ってると、落ち着いた?」

 小さな首肯。ホーッと安堵の俺。

「サムは?」

「えっ? ぼ、ボク?! ボクは、その」

 フフフ、サムは不意打ちに弱いな。かわいいかわいい。

「ヨッシーの手が暖かくて、大きくて、羨ましいって思ったケド」

「あはは、ありがとう。サムもすぐに大きな掌になるさ」

 顔を真っ赤に俯いたサム。それへクス、とようやく笑みを漏らしたエニー。

「抱き締めて眠るってのもいいかなと思ったけど、二人はどう? 寝にくいかな」

「え?!」

「そんなの、いいの?」

「むしろダメな要素がないよ。ぎゅってして眠ってみたいのは、俺の甘え方だしね」

 サムとエニーを寝かせているこのベッドは、クイーンサイズとそこそこに広い。大人一人プラス一〇二センチの子ども二人が寝転がったって、狭さなど感じるわけもない。

 小さく頷く、サムとエニー。染まったその頬に、年甲斐もなくきゅーんとしてしまったりして。

「じゃあちょっと待っててね。戸締まり確認して電気消してくるからっ」

 浮き足立ってしまう。笑顔ってより、ニヤニヤに近い。

 サムとエニーに受け入れてもらえると、震えるほどに嬉しい自分がいる。


 『子育て』なんて、わかるもんか。でも、俺が今の二人にするのは『子育て』じゃない。

 『共生』だ。そう思う。

 大人だって、ぺしゃんこになるときがある。

 子どもだって、大人をやり込めるときがある。

 みんなみんな同じなんだ。上も下もない。俺はそういう世界を、特に二人へ見せていきたい。

 証明したい。俺──いや、僕の目指す世界を。

 そして家族としても、ゆっくりひとつずつ始めていけばいいんだ。


「憧れてたんだよねぇ、我が子に挟まれて眠るの。最高にハッピーな夜だな」

「フフッ、どっちが子どもだかわかんないよ」

「みんな子どもさ。大人には、みんなで『なって』いけばいいよ」

「ヨッシー、明日、び、病院で、公演ある、よね?」

「そうだよ。僕の本気、二人も観ててね」

「ボクらも行っていいの?」

「もちろん。言ったでしょ? 『僕のパフォーマンスで、美しくなっていく世界を見に行こう』って。俺は、二人にも観ててもらうのが楽しみなんだから」

「楽しみ、に、してる、アタシ」

「ボクもっ」

 左右両方、そっと抱き寄せる。この暖かみだけで心底安心するんだから、俺も冗談抜きでまだ子どもなんだろう。


 あくびが漏れる両脇へ「Have a good dream おやすみ」と囁けば、瞼の裏に素敵な夢が待っている。

 明日を待つという、希望に満ちた夢が。


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