section 5

5-1 contact lens to need for

 日本──枝依えだより市西区、柳田探偵事務所。



 柳田やなぎだ良二りょうじは、応接用の三人がけソファに靴を履いたまま寝転がっていた。掛け布団代わりに新聞紙を何枚もその身に掛け、まるで蓑虫ミノムシだ。ソファの肘置きに組んで乗せた足首は事務机に向かっており、尖った爪先は天井を刺している。

 そんな風にしているから、大して眠くもなかったはずが、いつの間にやらすっかり眠り込んでいたようで。

「んー?」

 胸元で、スマートフォンが低く唸りだしたことで目を覚ます。朧気おぼろげな意識のまま胸元をまさぐり、やがて薄く目を開け、表示画面を注視。

「…………」

 比較的無害そうな着信相手だったことへ、良二はフゥと安堵を漏らす。電話には出ておくか、と緑色の真円通話ボタンをタップ。

「ふぁい、柳田」

 薄く開けたはずの目を再び閉じる良二。モゾゾ、と寝返りを打てば、新聞掛け布団が何枚か床に落ちた。

 そうして二分程を電話で使い、いくつかの相槌の後に赤色の真円終話ボタンをタップ。


 赤茶けた天然パーマ気味のボサボサ癖毛をガシガシと乱暴に掻きながら、上半身を起こす。そっと目を開ければ、ズンとした激痛が走り、思わずバタリと目を閉じた。

「イデっ。あー、クソ。マジかよ」

 眼球にある違和感。どうやら着用中のコンタクトレンズが眼球に貼り付いたようだ。装着したまま何十分と目を閉じ続けていたことが原因。

 薄く目を開き、よれよれと事務机に辿り着く。周辺が紙山ではなくて助かった、と、この片付けを一週間前にたった一人で成した秘書・服部はっとり若菜わかなの後ろ姿を思い浮かべた。


 若菜は、九時から一八時までの勤務を良二から言い渡されている。

 一日の大半を事務所とその裏手のアパート二棟の掃除や片付けに充て、残った時間でポケットティッシュ配りも行うなど、見事な献身ぶりを見せている。もちろん、良二が『あっさりと』やってのけるマジックの観察も怠らない。今ところ、観察するだけに留まってはいるが。


 そしてなんといっても、若菜は「やりたくないDo Not to Want」や「できないCan Not」は決して言わない姿勢を貫いている。このことは良二に密かに好感高く映っていた。

 若菜の口から文句は尽きない。しかし、やらなかったことはない。

 若菜にしてみれば、良二から指示される『業務片付け』は『難題ではない』ためだ。むしろなぜ出来ないのだろう、と『業務』の最中に疑問になるほど。


 ともあれ。


 良二と若菜はこれにより、確固たる相補関係が成立したことになる。互いに特別な不便もないため、今のところ諸々が平行線。

「誰も居ねぇときで助かった……」

 良二は、薄い視界と大層な感覚で辿り着いた事務机の引き出しから、ほぼ手探りで卓上鏡と小さな白いケースを取り出した。

 古びた椅子には、直感で触れることができた。それをギイィと鳴かせ、どっかりと腰を下ろす。卓上に鏡を開き置けば、流れるようにコンタクトレンズを左目から順に外し、それぞれをケース内の洗浄液へ戻し浸ける。

「……おし」

 痛みは瞬時に退いてくれた。鏡に映した両眼球も、外傷が無いことを伝えてくる。

 ゆっくりと何度かのまばたきで眼球を潤し、ホーッと安堵を長く漏らした。


 良二のしているこれは、一か月用ワンマンスコンタクトレンズ。絶対に手放すことの出来ない、必需品。優先順位はタバコよりも格段に上。

 眼球に指先を近付けさせることは、怖くはない。むしろ、こんなに便利なものがあったのかと感動した良二は、一七才の秋から切らすことなく使用し続けている。


 一旦外したコンタクトレンズを軽くゆすいでから、まずは左目に戻す。着け心地も問題はない。

 『病気』じゃねぇってわかっててもな──良二が右目にコンタクトレンズを装着しようとした、その時。

「戻りましたぁ。柳田さぁーん、お願い聞いてくだ──」

 ビタンビタンと不細工な足音と共に、アルミの扉がバンッと開く。

 肩を跳ね上げた良二は、咄嗟に両目を閉じ、椅子の背もたれをギキイィと鳴かせ、目一杯った。まるで天井に顎を向けるかのようにして、ピタリと固まる。

「──なっ、何やってるんですか?」

「ウルセェ気にすんな」

 頭上に無数のハテナを並べる若菜。

 口腔内で溜めておいた「なんつータイミングで戻ってくんだよ」を、フーッと細く天井へ吐き出す良二。

「あれ、鏡見てたんですか?」

「お、あぁ、目にゴミが、な」

「ふうーん。自分の顔大好きですもんね、柳田さん」

「あ?」

「いえ、なんでもないです」

 小さなシンクにてザバザバと手洗いを始める若菜。良二との距離、二メートル二五センチ。

「そっ、掃除だのは、終わったのか」

「いや、まだです。デッキブラシとか欲しいんですよね。買ってきてくれますか?」

「あ? あぁ、もうちっとしたら、な」

 良二は、仰け反った上半身をそろりそろりと戻していく。

「柳田さんてコンタクトなんですね」

「いっ」

 ギクゥ、と馴れない反応リアクションをとってしまう良二。正確には「い」に濁点を付けた声が漏れたわけだが、若菜の話が突然すぎて、身構えることもままならなかった結果なわけで。

「あ。もしかして、目ェ悪いからそんな目付きなんですか?」

 近くに引っ掛けてあるタオルで手を拭う若菜は、くるり、良二を向く。良二は目を閉じたまま、顔を俯けていた。

「別に、視力も目付きも悪かねぇよ」

「またまたぁ。目付きはちゃんと悪いですよ、自信持ってください」

「ウルセェ、テメーに言われたかねぇ」

「まぁまぁ。視力が悪いくらいなんですか。そんなの気にすることないですよ」

「俺は気にしてんだよ」

「だあって、コンタクトしてちゃんと見えてるんですから、普通ですよ、ふ、つ、う!」

「だーもう、わーったっつの。あっち行ってろ」

「えー? これからここでお湯沸かそうと思ってるんですけどォ」

「あー言やこー言うのなんとかなんねぇのか、テメーはっ」

「我慢比べなら負けませんよ」

「んなことするほど暇してねぇっつの」

「じゃあさっさとコンタクトしてくださいよ。デッキブラシがダメんなって、掃除中断しちゃってんですから」

「あーあーわーったわーった、だからあっち向け」

「なんでそんなに遠ざけさせようとすんですかっ。コンタクト入れてるだけでしょ?」

「それを見られたくねぇっつってんだろーがっ」

「見せたくないと言われたら見たくなりますぅー」

「なるな。んで、一〇秒だけ俺を見るな」

「どんな妙ちくりんな顔してコンタクト着けるんです? ん?」

「バカ、ちげぇ、そうじゃねえってのっ」

「いいじゃないですかぁ、ちょっとだけ! ね? 片目でいいからっ」

「だーもう、しつけぇ!」

 声を低く響かせた良二。若菜へ真正面の顔を向け、ようやくその目を開く。

「あ」

「こんなだから見られたくねぇし、コンタクトしてンだよっ」

 口を丸く開けて、今度は若菜が固まる番だった。


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