9.悪鬼襲撃

 山の生き物は異変を察知し、すでにその谷から逃げ出したようだった。

 または、自分だけの安全な棲み処に隠れてしまったのか。ひんやりした早朝未明。背中に微かな悪寒が這いのぼってくる。クルトはギュンダーとともに狭い山峡の崖縁に腹這い、息を殺して谷底を見下ろしていた。

 薄曇りの空は白んできたが、南北に裂けた谷すじにはまだ夜陰が濃く残っている。その青暗い底に、あたかも死神にばれたような、巨大な芋虫に似た霧が、長々横たわっていた。

 眼下を緊張して監視する兵の誰一人として、楽観は抱いていない――その青ざめた怪物が、自分の願いどおりに、やがて勝手に死に絶えてくれるものである、などとは。

 無風にも関わらず、霧は時おり不気味に波打った。白く濁った幼虫が、蠕動ぜんどうのさい、そのはらわたを生々しく肉に映し出すように、霧内部に潜む者を透かし見せながら。

 一見して人に似た姿形が、おぞましさをより引き立てるのだろう――悪鬼の肌はなめしたような黒っぽい光沢を放ち、がさついて筋張っていた。前かがみの歪んだ背骨は、動きにあわせて軋みをたてないのが不思議なほどだ。頭には、ねじくれた剛毛。かつて人から奪ったものか、裸身に鎧や衣服の切れ端を継ぎはぎに巻きつかせている。キイキイがやがやする騒音に、耳障りな小競り合いの声が混じるたび、鈍くきらめく凶器の先が、霧の芋虫の皮膚を突き破って現われた。

 武装した悪鬼ゴブリンの集団は、それでも夜間より頭数を減らしたようだった。最初に斥候せっこうしらせた群れは、おぞけを振るう数だったのだ。今は半数以上が、もといた遺跡内に引き返したらしい。残りが朝霧の中で蠢いていた。

 ――日の出の気配を察したか。まだ眼が地上に慣れていないんだな。

 これは間に合ったと言えるのかなと、クルトはつい眉を顰めたくなるのをなんとかこらえた。

 ちらと横目に見やったギュンダーは、誰もが呻いた最初の報告のときと同じ、冷静そのものの態度で無表情を貫いている。たとえ彼の隣に控えた騎兵も、クルトも、衛士隊の副官も、じっとり浮く脂汗を抑えられていなかったとしても。

 いち早く出した通信兵が、街道巡邏じゅんら中の近衛隊を運良く捕まえられたとしても、支援に駆けてくるまであと半日は見込むべきだろう。発見された魔物の群れは、騎馬隊、衛士隊あわせたところで、正面から仕掛けて討伐できる数ではなかったのだ。

 だが、ギュンダーはあくまでやる気でいた。これほどの災厄を前にして、民の庇護をうたう騎士が放置して戻るのは許されない、と。

 騎馬隊長はゴブリンの突然の行進に備え、まず隊を複数に分けた。挟撃狙いの騎兵を谷すじの南北に配置し、衛士を含めた歩兵には斜面で弓矢と投石の用意をさせた。それから騎馬隊副隊長に別働隊を編成させ、遺跡穴を塞ぐための工作に向かわせた。今は、その工作隊の準備が整うのをじりじり待っているところだった。

 遠い東では、太陽が〈冬のたてがみ山脈〉を越え始めたらしい。山陽側の向かい斜面にうっすら朱っぽい陽が差しはじめている。クルトは額を流れ下った朝露を瞬いて振り落とした。尾根を斜めに切り取った日差しが、大規模な崖崩れあとの最上部を白々と照らし始めた。

 土砂崩れの中間部には、ぽっかりとした亀裂が走っていた。その大穴は汚臭おしゅうのする悪意を闇に抱いて、ドワーフの地下遺跡に通じると思われる深い空洞を穿うがっている。

「見ろ。だいぶ数が減った」落ち着き払った低声で、ギュンダーが囁いた。

 眼下、谷底の霧がやや薄らいでいた。気配だけを感じさせていた悪鬼の群れは、いまや各々の武器の先端と禿げた頭頂を霧からさらけ出している。

 眠っているように動かないもの、せこせこと徘徊するもの。数えてみると五十匹ほどになるだろうか。

「これなら騎馬を減らし、弓手を増やしたほうがよさそうだ」

 ギュンダーが言うのを、隣にいる騎馬隊兵士が受けて言った。

「穴の中には、倍以上いますが」

「一息には出てこれまい。こちらもこんな谷すじでは騎兵の力を無駄にする」

 淡々とした物言いに、クルトは師があえてそうしているのか、それとも本当に微塵みじんも動揺していないのかといぶかしんだ。

 ともかく、なるほど騎兵は本来、野戦向きだ。ギュンダーの冷静さには、クルトもやや浮き足立っていた心が落ち着くのを感じた。不思議なもので、いったん平静さを取り戻すと、こんな難局も最後まで走り抜けられる気がしてくる。

 今日のこの戦いを、よく見ておこうとクルトは思った。学べることは多く、面白くなるだろう。

 伝令を通じ、ギュンダーの指示が密やかに動き出した。計画どおりなら、そろそろ反対斜面の尾根に工作隊の合図が現れる頃合いだ。クルトは固く握りしめていた拳を開いたり閉じたりし、来る戦闘に備えて手指に血を通わせた。

 と、そのときだった。左方上手で突然ギャッギャと獣が騒ぐ声がした。小さな悲鳴と、灰色のリスにたかられた衛士が、均衡を崩して茂みから半身を現わしている。

 あれはサムエルか、リスの巣に気づかず近づいたな、と思ったときには部下は足を踏み外していた。多くの石塊いしくれを巻き添えにして、サムエルは滑落する。青年を救おうと手を伸ばした騎馬隊の一人も道連れにして。

 谷底の白い芋虫が激しくどよめいた。落下してくる二人から逃れるように、潮が引くごとく霧が後退する。しかしやがてその内に、踏みとどまった影が黒々と浮き出してきた。

 獲物の血で赤錆び、不揃いに欠けた山刀や短槍の穂先がぎらぎら揺れ動く。見えてきたゴブリンの頭は、すべてが落ちてくる人間へ憎悪の視線を向けていた。

「こらえろ!」反射的に飛び出しかけたクルトの腕を、脇からギュンダーが強く掴む。「工作隊が戻るまで待て、今全頭出てこられたら我らのみでは抑えきれん――」

 その刹那、世界は唐突に真っ白に塗り潰されていた。ゴブリンの悲鳴と人間の抑えた悲鳴が交錯し、ギュンダーを振り向いていたクルトは辛うじて目を瞑るのに間に合った。

 不意の閃光は、テュエンの手になる錬金滴によるものだ。まずいことをした、とクルトは思った。万一の護身用などといって、新兵にまで配るべきではなかったのに。

 魔物との戦闘経験のないサムエルに、錬金滴の使いどころを見分けられるはずがなかった。ただ、滑落した衝撃で勝手に暴発したのかもしれない。だが見下ろした谷底では、サムエルがふらつきながら再び投擲とうてき姿勢を取っている。渡した錬金滴は他にもある。クルトはとっさに身を伏せ、直後吹き荒れた突風から間一髪逃れえた。

 谷からは、濃霧がきれいに吹き払われていた。風は多少の悪鬼をあおっただけで、実害はほぼないに等しかった。だが、突然の魔的な力は彼らを恐懼きょうくせしめたようだ。

 混乱の中、クルトが見分けた事実は二つ。一つ、斜面には土砂崩れあとの亀裂のほか、谷すじに沿って二つの小さな穴があること。もう一つは、逃げ惑った悪鬼が目指したのは一番大きな亀裂と、それに近い小穴だけだったこと。魔物たちは、もっとも離れた横穴には見向きもしなかったのだ。

 隣でまだ閃光の後遺症に苦しむ副官を捕まえて、クルトは言った。「以降はギュンダーに従え」

「いかん、クルト!」

 ギュンダーの手は空振った。クルトは斜面を斜めに駆けおり、下りながら立て続けに矢を五本放った。悪鬼三匹を射倒いたおし、矢を受けながら踏みとどまった一匹を最後の跳躍で踏み殺す。進路上の二匹は抜剣ざま斬り払い、谷底で片膝突いた二人まで駆け寄った。

 両者とも視界をかれている。「まっすぐ走れ、俺についてこい!」怒鳴って引き起こし、先に立って剣を振るった。悪鬼を一匹切り飛ばしたとき、左右後方に迫っていた魔物が急につまずいて絶命した。胸を貫いた剣を引き抜く部下の衛士二人、勝手にあとを追ってきていた。

「あの横穴だ!」示して駆け抜けようとする矢先、ようやく魔物が怒号をあげる。狂った蜘蛛の群れさながらたかってくるのを、クルトは激しい気合いを発して牽制した。

 右の一匹を脇から切り上げ、返す剣で正面の山刀を叩き折る。風切り音に即応して矢を叩き落とし、突っ込んできた二匹をまとめて蹴り飛ばした。

 滑落した二人ともう一人が横穴に潜り込んだとき、ともに殿軍を務めた部下の肩に短槍が突き立った。倒れかける襟を掴んで体を入れ替え、遠心力を存分に乗せた横薙よこなぎで二匹の胴を寸断する。

「隊長!」背後から声。クルトは警告した。「目を瞑れ、閃光!」

 腰の革袋を探っていた指からつぶてが飛ぶ。正面の悪鬼に当たって砕ける、と同時に白光が再びあふれた。瞼を閉じても眩みかけた視界で、からくも穴に滑りこむ。安堵する暇などない。「盾で押さえろ、岩でも何でも塞げるもので塞げ!」

 サムと一緒に滑落した騎兵が、すぐに盾で加わった。浅傷あさでの二人も大岩を転がし、穴の入口を塞ぎにかかる。

 洞窟には小部屋程度の広さがあったが、くぐり抜けてきた隧道ずいどうは、高さは低いが距離が三歩程度しかない。殺到してくる悪鬼の圧力は凄まじく、これは駄目かなと思った直後、盾を搔きむしってくる魔物どもの爪の後ろから、ときの声が轟いてきた。

 工作隊が間に合ったのだ。ギュンダーが攻めに出たらしい。

「味方が押すまで」隙間から突きこまれてきた剣に、危うく鼻先をかすられながらクルトは怒鳴った。「なんとか耐えるぞ! この穴、他に出入口はあるか!?」

「奥に通路が! でも埋まってます!」

「ほらな。日頃の行いだぜ、俺の」

 一緒に盾をかざす騎兵がそれを聞いて軽く噴き出し、穴の隙間を魚のようにすり抜けて来た悪鬼の首を踏みつけてへし折った。壮絶な笑みを浮かべたその男もクルトも、顔面は返り血で赤く濡れている。

「た、隊長。あれ、なんでしょう」

 悲鳴に近い震え声は、衛士サムエルに違いなかった。

「見えない、説明しろ!」

「わ、わかりません。天井に何か動くものが、変な模様が光ってて――」

「まずいぞ隊長、ありゃあドワーフの仕掛けだ! この穴、この部屋は遺跡の――」

 振り向く余裕はなかった。ただ必死に敵の侵入を阻む背後で、妖しげな光が脈打ったのは感じた。錬金滴の一瞬の烈光とは違う、薄気味悪いおぼろな光だ。雨雲を透かした月光にも似て、熱はなく、無音で、それでいて産毛を逆立ててくるねっとりした力の気配。

 肌をやわく押すように、波動は二度ほど空間を波打たせた。胃がねじれるような嫌な浮遊感があり、次の瞬間、いきなり噴き上がった黄金の火柱に人々は飲み込まれていた。

 ――ギュンダーはいつも正しい。

 くそ、と胸中毒吐どくづきながら、クルトはあえて目を見開いた。

 殴り倒してでも、サムエルは街に置いてくるべきだったのだ。やつを両親のもとに返してやることもできず、そのうえ優れた兵士三人まで道連れにするとは。

 怒りが頭を激しく焦がして、炎の熱さを感じなかった。指先から燃え尽きていく。不甲斐ない己の死をせめて見届けようと、クルトは強く奥歯を噛みしめた。

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