7.山中にて

 肌寒い細かな霧雨が、兵たちのマントと鎧を、芯まで湿らせようとしていた。

 水気に潤んだ光のかさが、野営の準備を急ぐ彼らの松明たいまつに、真珠色にまとわりついている。夜の邪霊の呪いめいた、その不安な輝きを横目に見つつ、クルトはあとを部下に任せてギュンダーのもとへ足を運んだ。

 大公直轄領であるリシュヌー地方と、南部二地方の境界に近い山中にいた。むかし、西のソーブラント地方を治めるタヴァラン家、そして東のアンクロワ地方のマリサロシュ家が争ったさいの石累が、時折わずかに露頭しながら傾斜地に段をつけている。

 すぐそこには馬が緩駆ゆるがけできる程度に幅のある山道。道は国土中央の山地を東西に抜ける間道で、魔物襲撃の報がどこから来ても、比較的速やかに駆けつけられる位置だった。

 巡視騎馬隊は、普段からこの地を野営に使っているらしい。慣れた手並みでてきぱき働く騎兵を、下町の衛士たちが覚束おぼつかない動きで手伝っている。騎兵らはギュンダーが束ねている部下だけあり、遠征に慣れぬ街の衛士を邪険にせず接してくれるのがありがたかった。

 ――おかげで俺も、とっとと情報を仕入れにいける。

 天幕の垂れ布をめくりながら中へ。中央卓に両手をつき、半白の長髪を後ろ頭で束ねたギュンダーが待っていた。細かな書き込みのなされた地図を睨んでいたが、クルトの気配を察すると、騎馬隊長は顔を上げて相好を崩した。

「クルト様、お待ちしておりましたぞ。衛士たちのほうはもうよいので?」

「あんたの部下にいろいろ教わってるところだ、助かる。すまないな、調練が足りてなくて」

「街で年中ワインを飲んで、たるんだのでしょう。足りなかったのはむしろ、あなた様への私の教育ですかな。姉上様に顔向けできない」

「厭味はやめろ」頭を搔いてクルトは苦笑いした。「その馬鹿丁寧な喋り方も勘弁してくれよ。ここじゃあんたのほうが指令系統は上なんだから」

「慣れんといかんぞ、クルト」口髭の下に白い歯を見せながらギュンダーは笑った。「だが、今回は望みどおりにしておこう。気が散ってもらっては困るからなあ」

 クルトが家名を負うフィガリーサ家に古くから仕える騎士ギュンダーは、少年の頃、リシュヌーの下町で暮らしていたクルトにとって父親のような存在だった。どんな生活をしているのかもわからなかった庶子の異母弟を心配して、正妻の唯一の子である姉が密かに教育係として差し向けてきた男だ。

 武術と馬術はそこそこ仕込んだが、貴族らしい態度と教養を身につけさせるのは失敗したと、ギュンダーは顔を合わせるたび嘆く。その都度クルトは、自分はギュンダーを見習ったのだから、品下った人間に育つのも当然だと言い返すのが挨拶になっていた。

 老練の騎士たる彼は、国防大臣を担うフィガリーサ家現当主のもと、数年前から国土巡視を行う騎馬隊隊長を務めている。会うのは久々ながら、クルトは恩師の削げた頬、目の下の青黒い隈や、いつもきちんと手入れしていた髭が伸び放題のありさまに内心驚いていた。

魔霊騎行シュヌグーダの首領みたいだぜ、ギュンダー」

悪鬼ゴブリンを駆逐できるのであれば、そうなるのも悪くはないが」

「上の街の連中に聞いたよ。五匹から十匹の群れがひっきりなしで、狩っても狩ってもきりがないって?」

「公太子殿下の近衛隊も導入されたで、負担は減るはずだったのだがな。どうやら予想より数が多いらしい」

 太い息を吐くギュンダーに、クルトも軽口を控える。考えていたよりも事態は深刻であるらしかった。

「厄介なことに、討ち漏らした小さな群れが合流しはじめた気配もある」

「いったいどうなってるんだ。やつら、どこから湧いてくる?」

「それが問題だ」ギュンダーは手招きした。

 卓上の地図をくるりと回し、向かいあわせのクルトが見えやすいよう位置を整える。記された無数のバツ印を指さしながら説明した。

「街道警邏けいらと救援を殿下に担っていただき、我々はしばらく悪鬼の出所探しに注力していた。襲撃は南部から始まっている。大猪が先駆けだ。襲撃箇所や目撃報告を整理して起点を遡ろうとしたのだが、どうにもうまくいかんのだて」

 書き込まれた日付と魔物の数。現在地を中心におおまかな円形の範囲に広がっているようだが、出没順序に関してみると確かにばらばらだった。

 東の山村に出た翌日に、西端の岩崖で目撃される。中央山地で出たと思いきや、また東に現れるといった具合だ。同一起点に発した群れが散開した雰囲気ではなく、山中の至るところから同時に出没したような被害の出方である。

 しかも最近はギュンダーの言うとおり、十頭以上の群れが北進、あるいは南進する傾向が見て取れた。大公が近衛兵団の過半数を街に残したのも当然だ、とクルトは眉をひそめた。このぶんでは公国首都の近辺に、いつ悪鬼が大群で現れるともかぎらない。

「二十年くらい前にも、大量に湧いたことがあったよな。そのときの経緯とはまた違うのか」

 指で卓を叩きつつ問うと、ギュンダーは一拍思案してから答える。

「当時をよく知るタヴァランの家の者は同じだろうと言うのだが、いささか疑わしい。あのときは北部の一地方が波状的に襲われたのだ。悪鬼は国境近い遺跡に発した群れで、山中の隠棲魔術師が遺跡の場所をしらせたおかげで、速やかに対処できたという」

「今回は、変わり者の隠者からの報告は?」

「困ったことにな、クルト。複数ある」

 国内定住の魔術師、あるいは羊飼いなどの国民から、いくつかの既知の遺跡についてゴブリン目撃の報告を受けたと老騎士は言った。しかし兵を差し向けてみたところ、結果はどこも死んだ遺跡――入口が塞がったり浅い層で埋まったりで、少数の悪鬼が棲み着く余地もない、ただの瓦礫の山と判明しただけだったという。

「なんだそりゃあ。目撃者は幻覚茸でも食ったかな」

「まったく奇妙な事態だよ。講学館に過去の事例を探すよう要請してはいるが、我々に座して待つだけの余裕はないと思え。南部二地方の諸侯は疲労を溜めてきておるし、我らも近衛隊も出張っているが、このうえ数が増えるとなれば……。民の動員も、ありうるかもしれん」

「あんたの注進は城にちゃんと届いてるようだったぜ。ただ、収穫期だからな。皆なるべく避けたいと考えてるだろう」

「とにかく、魔物がどこから来ているのかだ」

「国外じゃなくて、国内なのは確かなのか?」

「そう考えているが、断言はできんよ。文字通り、地から湧くかのようでな……」

 言いながらギュンダーは、凝っているらしい首筋をしきりに揉みほぐした。

「民の報告を信じるなら、二度に渡って悪鬼が出現したという廃墟遺跡もあるのだ」

「悪鬼は人間より小柄だ。見つけにくいだけで、やつらの通れるような穴がどこかに開いてたりするんじゃないか」

「それを副官と話し合っていたところだ。そこでだ、クルト。おまえが衛士を連れて来るのを待っていた」

「ん?」

「衛士隊の人数を借り、各地の遺跡に人を配って監視したい」

 候補地はすでに地図に記してあった。数えると五カ所ある。

「監視には賛成だが」と、クルト。「うちの人員だけで行かせたくはない。騎兵一人と衛士二人で組ませるのは?」

「そのくらいがちょうどよかろう。馬は臭いで気づかれるから置いていかせる」

「任務内容は監視のみで、戦闘は無しだな?」

「いや、現れたのが少数ならば、その場で討ちとるのがいいだろう」

 即座に言ったギュンダーに、クルトはちょっと考えて腕をこまねいた。

「気がかりがある。うちの隊に、魔物討伐経験のあるやつは半分もいない」

 人型の魔物のうちでは、悪鬼は背丈も子供ほどで華奢な体格だ。群れて行動するほどの知能はあるが、あたふたした動き方も隙が多くて組しやすい。しかし見た目には飢餓で死んだ子供を思わせるおぞましさに、初めて遭遇する兵の中には恐怖で自失する者もいないではなかった。

 衛士隊一人一人の顔を思い浮かべると、ほとんどは問題ないと思えるものの、二、三人、年若い兵に不安な者もいる。

 ――なにしろこっちは平民部隊で、根っからの兵士じゃないんだからな。

「馬も余るし、監視人員以外を討伐役として巡視させておかないか。騎乗なら、ちょっと距離があっても駆けつけて間に合うはずだ」

 それで決まりとばかりにクルトは卓を軽く叩いたが、返ってきたのは沈黙だった。目を向けると、ギュンダーは太い眉の下から教え子をじっと見つめている。

「おまえの見込みは、まだ甘いようだな。悪鬼は崖を登るのが速いぞ。やつらは猪よりはずっと利口で、馬の走る道をまっすぐ逃げたりはせん」

 クルトが反論する前に、天幕を訪う声があった。

 失礼します、と威勢よく入ってきた男は衛士だった。まだ若く、幼いといってもいいほどの丸顔を兜の目庇まびさしの下に緊張させている。

 夏場とはいえ高山気候のサントラジェの宵は肌寒い。雨に濡れた衣服も身体を冷やしているはずだったが、二十歳前とみえるその青年は、ふっくらした両頬を収穫期前のりんごのように紅潮させていた。

「お話し中、申し訳ありません! 夕餉の支度が調ととのいましたので、隊長殿にお報せに参りました!」

 ああ、と二人の隊長が異口同音に返事する。青年は、あっ、しまったと大慌てした。

「あの、いえ、クルト隊長……。いえ、ギュンダー様も……」

「どっちだっていいさ、サム。わかった、俺らにかまわず先に食っててくれ。報告ご苦労」

「あ、あの、騎兵の方に伺ってくるよう言われました! お食事はこちらにお持ちしますか、それとも皆の天幕でなさいますか?」

「ふむ」ギュンダーがあご髭をしごき、「いつもは皆と食うのだが、今日はここに運んでもらおうか。もう少しこいつと話を詰めねばならん」

「承知いたしました!」

 元気すぎる勢いで返答し、ブリキの兵隊さながらサムは回れ右して行きかける。その途中で思い切ったように動きを止めると、あの、と緊張した声を張り上げた。

 何事かと眺める二人の隊長。サムは兜を脱いで小脇に抱え、反り返るほど背筋を伸ばして宣言した。

「今回の作戦に加えていただいて、光栄です! 俺、いや私は、人々を護るために精いっぱい戦いますので、どうぞよろしくお願いします!」

 ぎくしゃく敬礼し、旋風つむじかぜのように去って行った。呆気にとられた顔つきで、ギュンダーがクルトを振り向いた。

「あんな子供まで連れてきたのか。いくつだ、十五か、十六か?」

「あれで十八だ」苦笑しながらクルトは答える。「ジュニパー通りで商売してる理髪師夫婦、ミーロとジュッテの息子でサムエルという。入隊して三ヶ月だな」

「戦えるのか?」

「まあ、訓練中だよ。街に残すつもりだったんだが、置いていくなら勝手についてくると言い張って、あいつは実際そうしたのさ」

「連れてくるべきではなかった」

「俺は、あの齢にはあんたに引っ張り出されて喰屍鬼グールとやりあってたけどな」

「おまえはすでに戦えた」

 少年時代によく聞いた、反論を許さぬ口調だった。クルトが笑みを引っ込めて目をやると、ギュンダーの表情は厳しいというよりも憂慮する色が強い。

「クルト、部下に恨まれるのは辛いことではないぞ。先の襲撃で、我が隊では二人が重傷を負い街へ帰した。通りすがりの渉猟兵の助けがなければ、彼らは死んでいたかもしれん。今度の騒動は決して甘くはない。おまえも一部隊を率いる者として、覚悟はしておけ」

「…………」

 いつのまにか、天幕を叩く雨音が強さを増していた。ふいに落ちた沈黙を破るように、雨の帳の奥から早足の馬蹄の音が近づいてくる。

「近在の村からの使者です」

 声があり、全身に泥を跳ねさせた男が騎兵に伴われて入ってきた。青ざめた顔色でぎこちなく挨拶した男は、ルス川上流の村落に住む村人だと名乗った。

「騎士様、どうか俺の村まで兵隊さん方と一緒に来てもらえませんでしょうか」

「何があった?」

「羊の放牧地の裏側です。去年の長雨のあと、小ちゃい土砂崩れがあったあたりだと思うんですがね。何かいるみたいなんですよ」

「何かとはなんだ、魔物か? おまえが見たのか」

 はっきりしない物言いにじれったくなったクルトへ、男はおどおど視線を泳がせる。恐ろしいので誰も見に行っていないと答えた。

「だども羊が怯えてます。犬も。風が吹くと嫌な臭いがして、昨晩からきいきい声が村まで聞こえてくるようになったです。物音もだんだん大きくなってるみてえで……」

 悪鬼ゴブリンだろうな。クルトはギュンダーと目配せし、ギュンダーは軽く頷きながら「訴えは聞いた」男の村の位置を確かめた。

「放牧用の夏の村か、この地図には無いな。おまえの案内が要る。食事をとり、少し休むがいい。今夜のうちに兵を出そう」

 感謝して天幕を去る村人を見送って、土砂崩れか、と老騎士は呟いた。

「新しい遺跡が出てきたかな?」

「だが去年と言ってただろ。今更すぎないか」

「古代人の遺跡は、何があるかわからん」

 ドワーフめ、厄介なことだ、とギュンダーは珍しく愚痴のようなものを吐いた。最後に一晩ぐっすり寝たのはいつだろうなとクルトは思った。

「俺が行こう。部下を山に慣れさせたいし。数が多そうなら助勢を頼みに連絡する」

「いや、無論のこと私も行く。下町衛士隊の動きを見ねばならんからな」

「言っておくが、上の街の連中よりは使えるぞ」

 口角を上げてクルトは確約したが、ギュンダーは一瞬の笑みを返したのみで、すぐにもとの真顔へ戻った。危惧を浮かべた眼差しは、天幕入口に切り取られた誰もいない夜闇に据えられている。

 その奥に潜むであろう悪鬼の蠢きを探るように、思わずクルトも闇を見つめた。雨脚はまた強まって、食事をしているはずの部下たちの声をかき消していた。

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