Chapter 5

 私は嘘をついた。


 私は澄香が好きだ。

 一緒にいると心が安らぐ。胸が高鳴る。優しくしてくれると、嬉しさで頭がぼうっとしてくる。それが、記憶を失くす以前の名残りだったとしても関係ない。今ここにいる私にとって、澄香は掛け替えのない大切な人。心の底から愛しく思う相手だ。

 なのに、澄香が好きなのは私じゃない。『安田水奈』であっても、それは私じゃない。私が『記憶を失くした安田水奈』である限り、澄香は永久に私を見てはくれない。

 そんなのは理不尽だ。

 私だって、こんなに澄香のことを好きなのに。勝手に消えて、いつ戻ってくるのかも分からない『もう一人の私』のせいで、私の想いが叶わない。そんな理不尽があるものか。私自身が私の恋の邪魔をする、こんな訳の分からない事態があっていいものか。

 だから、私は嘘をついた。

 私は何も思い出していない。私が澄香に告白したことも、澄香がそれに応えてくれたことも。澄香がそれを、心から喜んでくれていたことも。全て昨日の晩、麻衣から教えてもらったことだ。

 思い出したわけじゃない。でも、澄香が私を見てくれるには、私は思い出さなくちゃいけない。それが出来ないなら、そう装わなくちゃいけない。

 だから、私は嘘をついた。

「水奈、好き」

 そう囁いて、澄香が抱きついてくる。その言葉が、私の胸をちくりと刺した。

 罪悪感は、覚悟していたよりもずっと強く、私の心を苛んだ。それでもなお、後悔は浮かばない。だって、私は澄香が好きだから。

 記憶が取り戻せなくったっていい。他の何が無くたっていい。でも、澄香だけは隣にいてくれなきゃ嫌だ。私を見ていてくれなきゃ嫌だ。

 いつまでも、元の私と重ねて見られ続けるのは、嫌だ。

 そのためならば、嘘をついたって構うものか。それで、私の「好き」が澄香に通じるのなら、罪悪感だって我慢してみせる。

 私は澄香の両肩に再び手を置くと、彼女の体をなるべく優しく引き離した。ひとまず涙の涸れた目に、私はそっと自分の視線を重ねる。無警戒に見つめ返すその瞳を見ながら、私は澄香に囁いた。

「澄香。キスしたい。していい?」

 一瞬、澄香の反応が遅れた。きょとんと目を瞬いた澄香は、頬を紅潮させて表情を強張らせた。彼女の反応から察した私は、ニヤリと口元に笑みを浮かべて小声で問いかける。

「もしかして、初めて?」

「う、うんっ」

 さらに顔を赤くしながら、澄香は縮こまってしまった。私はそんな彼女に覆いかぶさるようにしながら、一層耳元に唇を寄せて再度尋ねた。

「ダメ?」

 ビクッ、と、怯えるように澄香の肩が跳ねた。焦りも露わな息遣い。でも、明確な拒絶は返って来なかった。私は期待を込めるように、澄香の答えをじっと待つ。

 それから、痛いほどの沈黙が流れた。いつまで待てばいいんだろう、なんて疑問が脳裏にちらつき始めてしまう。もう一度何か声をかけようか。

 そう思ったまさにその時、蚊の鳴くような声で澄香が言った。

「……ぃぃ、ょ」

 聞き間違えとさえ思うような、か細い声。それでも、私が目を見開く前で、澄香はゆっくりと顔を上向けると、恥ずかしそうに目を閉じた。

 可愛さと嬉しさで胸が破裂しそうになるのを、私はぐっと堪えた。肩に置いていた右手を、澄香の頬に移す。触れた瞬間、ピクリと澄香の眉が揺れた。

 自分と澄香、互いの位置を慎重に見定めて、私は彼女の唇に触れた。

 ちゅ

 小さな音を立てて、柔らかな温もりが伝わってくる。それは、想像していた以上に幸福で、心臓が熱くなる瞬間だった。

 はぁっ、と意図せず吐息が零れる。啄むようなキスを終えて、澄香が閉じていた瞼をうっすらと開いた。

 熱っぽく潤んだ瞳が、その隙間から覗く。その目に見つめられた途端、もう一度私の胸の中で興奮が跳ねた。

「……ごめん澄香、もう一回」

「え……ふぇっ!?」

 通告と同時に、私は有無を言わさず澄香の体を押した。混乱の声を上げる澄香をベッドに押し倒し、その上に全身でのしかかりながら、薄く開いた唇に貪りついた。

 湧き上がる衝動に駆られるまま、澄香の唇を何度も奪う。さっきとは違う、艶めかしい水音が耳に張り付いた。初めは完全に硬直していた澄香の体も、いつの間にか骨抜きになったように力を失っていた。

 息が切れるほどに深いキスを重ね、ようやく私は澄香から顔を離した。私と澄香の口元を繋ぐように、銀の糸が伸びる。

 それに気づいたあたりで、ようやく私の思考に理性が帰ってきた。同じく息を荒げながら、ぐったりとベッドに横たわる澄香。その表情に精気はない。

「す、すみか、ごめん……大丈夫?」

 咄嗟に言葉が見つからず、どうにか絞り出したのは、どこか間抜けな問いかけ。私の声に、澄香は呆けた顔で、ちらりと私を見る。

 澄香は怒るでもなく、恥ずかしがるでもなく、まだ意識が定まらないかのような声で、

「なんか、意外……」

 そう呟いた。

「水奈がこんなに甘えてきたの、初めてな気がする……キスするとき、見たことない顔してたもん」

 抑揚のない声でそう指摘され、私は堪えきれずに身を竦ませた。

 今までと違う、なんて澄香に言われただけで、瞬く間に意識が恐怖に支配されてしまった。今までと違う私を、澄香は好きでいてくれるだろうか。嫌いになったりしないだろうか。そう思うと口が乾き、言葉が出てこなくなる。

 私は今、どんな顔をしているだろう。私の不安に、澄香は気づいてしまっただろうか。

 そんな思いで見守る私の前で、澄香はゆっくりと目の焦点を合わせながら、小さく微笑んだ。

「こんな水奈もいたんだね……ごめんね、今まで気づけなくて」

 ベッドに寝転んだまま、澄香が腕を伸ばす。その腕が、私の首に絡みつく。ちょっとだけ、首元に彼女の重さを感じた。

 私が驚く中、澄香は優しい笑みを浮かべて、柔らかな声音で囁いた。

「まだまだ頼りないかもしれないけど、私だって水奈を支えたい。だから、辛いときはいつだって頼って、甘えてきてね?」

 それはまるで、澄香の方が私に甘えているかのような声だった。私が澄香に頼ることを、せがむような声。それは、私にとっても新鮮な、澄香の初めて目にする姿だった。

 私の感慨とは関係なく、澄香はその目を嬉しげに細めた。私を見つめる眼差しに、またも艶っぽく熱を込め、静寂の中に溶けてしまいそうな小声で、私に告げた。


「――私は、そんな水奈のことも、好きだよ」


 その瞬間、私の体はきっと、床から離れて宙に舞っていた。

 それくらい、一瞬で心が軽くなった。胸を締めつけていた不安が消えた。澄香が今の私を受け入れてくれたことが、何よりも嬉しかった。

「澄香っ!」

 たまらず、私は澄香に抱きついた。澄香と一緒にベッドに倒れ込み、背中に腕を回して思いっきり抱きしめる。

 嬉し涙は流れてこなかった。溢れることすらなく、喜びが胸の中を駆けまわっていた。今すぐにでも、破裂してしまうんじゃないかと思うくらい。

 あぁ、やっぱり私は澄香が好きだ。

「澄香、大好き。愛してる」

 澄香の耳元でそう囁く。ぎゅっと引き寄せた澄香の体は温かくて、柔らかくて。幸福に形があるのなら、きっとこういうものなんだろう。

「うん。私も大好き」

 澄香もまた、私の背中をさすりながら、私の耳元で返してくれる。それに、喜びの熱がまた一段、高くなる。

 腕を少しだけ緩めて、私は顔を後ろに下げた。すると、すぐ近くで澄香と見つめ合う形になる。ちょっとだけ驚いた様子の澄香の額に、私は自分の額をくっつけて、

「私が一番、澄香のことを好き」

 私の言葉に、澄香は目を丸くした。

 今なら確信できる。世界にどれだけ澄香のことを好きな人がいたとしたって、私の想いが一番強い。誰が来たって負けはしない。

 たとえそれが、かつての私だったとしても。

「水奈――ぁっ」

 ちゅぅ

 澄香の呼びかけを飲み込むように、私はもう一度澄香の唇を奪う。

 一度目の触れるだけのキスとも、二度目の貪るようなキスとも違う。なるべく優しく、ゆっくりと抱き合うようなキス。

 驚いた様子だった澄香も、私を拒むことはなく、うっとりしたように目を細める。そんな彼女の頭を軽く撫でながら、私たちは吐息を交換しあった。

 私の零した吐息に、どれだけ「好き」を込められただろう。澄香のくれた吐息には、どれだけ「好き」が込められていただろう。幾ら想いを交わしたって物足りない、そう思うのはやはり、贅沢なんだろうか。

 惜しみながらも、私は唇を離した。間近で覗き込む澄香の表情は、熱で溶けたようにトロンとしていた。唾液で濡れた口元がいやらしく輝き、赤みを差した肌が、愛くるしさを増長させる。

 澄香は、その唇を微かに震わせて、

「水奈ぁ……お願い、もう一回」

「えっ?」

 予想だにしなかった言葉に驚いたのは一瞬。瞬きした直後には、澄香がそのまま私にキスをしていた。

 何度目かの柔らかな感触。すぐに頭が嬉しさでいっぱいになる。自然と腕が澄香の体を、もう離すまいとばかりに抱き寄せる。

 キスの甘さに意識を奪われながら、私は頭の片隅で思う。

 もう大丈夫だ。何があっても、たとえいつか、私がかつての自分を思い出したとしても、私の恋はきっと終わらない。

 澄香が抱きしめてくれる限り。「好き」と言ってくれる限り。私は決して私を見失わない。

 そんな安堵を胸に、私はそっと目を閉じた――

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