Chapter 5

「え……は……」

 氷点下を下回った思考が、何を言われたのか理解を阻む。けれど、それも一時のことだ。次第に脳が氷解し、姫の言葉がゆっくりと染み入ってくるに至り、特大の喪失感が胸に落ちてきた。

 姫に気づかれた。この、救いようもなく捻じ曲がった生き様を。姫の在り様を理解しようとしない、『普通』をひけらかす連中と同じ存在だったという過去に根差した、腐敗し淀んだ胸の内を。

 姫に知られた。いや、知られていた。

 全身からどっと汗が湧く。顔から気色が抜け落ちる。平衡感覚さえ薄れ、今にも倒れてしまいそうな不安に襲われた。そんな私の肩にそっと手を乗せて、姫はなおも囁きかける。

「綾子ってさ、笑わないよね。楽しいって感じないわけじゃない、笑うのを我慢してるの、見てて分かるよ。たまに口元動いてるもん。それと、たまに笑うことがあっても、いっつも自虐的なこと考えてるときでしょ」

 奈落に落ちた私の心に、姫の言葉は容赦なく降り注ぐ。その全てが全て、空恐ろしいほどの正確さで胸を抉ってきた。さらに顔色を失くしていく私の顔を、姫は一層蠱惑的な笑みで見上げた。

「あとは、たまにここで読んでる本。悲しい話ばっかりだよね。主人公の願いが叶わなかったり、大切な人が死んじゃったり。単にそういう話が好きなのかとも思ってたけど、辛そうな顔しながら読んでるから、きっと違うだろうなって」

「……もう、やめて……」

 絞り出した声に、姫がきょとんと目を瞬く。私自身も驚くほど、その声は弱々しく掠れていた。

 我慢が決壊し、両目からとめどなく涙が溢れてくる。昨日の夜に一生分流し尽くしたと思っていたのに、ぼたぼたと落ち続ける涙の勢いはそれ以上だった。

「もう、これ以上、何も言わないで。私を暴かないで……私のこと、見ないでッ」

 両腕を上げて顔を隠す。嗚咽混じりにそう吐き捨てながら、私はふらつく足で後ろに下がる。私の肩に触れていた姫は、私を追いかけるように手を伸ばすが、カウンターに上体を乗せ切っても足りなくなり、結局その手は空を切った。

 最早恥も外聞もなく、鼻を啜りながら泣きじゃくる私の姿は、姫の目にどう映っただろう。顔を覆った私には、姫の顔を窺い知ることはできない。

「綾子」

 名前を呼ぶ声、それに続く衣擦れの音。何が起きているのか、遅れて察したのは、間近で足音がしたからだ。姫がカウンターを乗り越えて、私の前に立っている。そう理解したときには既に、姫の両腕が私の腰に絡みついていた。

 びくりと、意思に反して体が震える。姫はそんな私の反応を楽しむように一度鼻を鳴らし、

「綾子はさ、私のこと嫌いなんだよね?」

 直前にも増して、身体が跳ねる。心臓を鷲摑みにされたような悪寒と、脳天を殴られたような衝撃。本心では二度と口にしたくないと思っていた言葉を、それでも私は答えなきゃいけない。

 歯を食いしばり、私は必死で口を動かし、

「そ、そうよ……姫なんて、きら、い……」

 どうにか言い切ると同時、堪えきれない慟哭が口を突いて出た。それ以上は言葉にならない。呻く私の背を、誰かの手が優しくさすった。

 姫以外にいるはずがない。たった今、姫のことを嫌いだと言い放った私を、彼女の想いを拒絶した私を、その姫が気遣い触れてくる。それがどうしようもなく嬉しい。

 その嬉しさが、私には苦しい。

「綾子は、本当に自分を傷つけるのが好きだね」

 そんな私に、姫の柔らかな声が届く。

「「男女で恋愛するのが『普通』だ」って言えば、私が綾子から離れてくの、分かってたよね」

 姫の指摘はなお鋭く、私の胸を穿つ。ぎゅっと私にしがみつく姫の温もりが、拒み切れずに伝わってくる。

「綾子は、私に『普通』を語らなかった。それは、私が嫌がるのを分かってたからでしょ。綾子は私のことを、嫌いなのに。ねぇ、それがどうしてか、気がつかないと思った?」

「姫やめてっ、お願いだから……それ以上は!」

 何より秘め隠していたかった胸の内を、姫の言葉は容赦なく曝け出す。この先まで見抜かれたら、本当にどこにも逃げ道がなくなってしまう。

 姫を好きだと、姫に知られてしまう――

 顔の前から手を退けて、姫の肩を掴みながら叫ぶ私を、姫の微笑が迎え撃つ。ぐしゃぐしゃに崩れた顔で懇願する私の祈りを踏みにじるように、姫はより強く私に抱きつき、胸に顔を埋めるようにしながら、甘い声で囁いた。

「私のこと――本当に、心の底から嫌いだから、だよね」

「……え?」

 今、なんて?

 想像と違う姫の言葉に、私は耳を疑いながら、姫の顔を覗き込む。混迷を極めて自分を見る瞳を、姫は包み込むような笑顔で見つめていた。

「綾子は本当に私が嫌い。一緒にいると面倒くさい、相手をするのが辛い。だから、綾子は私の傍にいてくれた。そうして自分のことを虐めてた。そうだよね」

 一つ一つ確認するように、不自然なほどはっきりとした口調で姫が言う。私はそれを、呆然と聞き流していた。

 事実とは違う、姫の言葉。無論、それを正すわけにもいかずに黙るしかない、というのもある。けどそれ以上に、胸を焦がす疑問が一つ。

 本当に姫の言葉は、単なる勘違いなのだろうか。

 抱いた疑心を、言葉にすることはできない。そんな私を見上げる姫の目は、見たことのない優しさを湛えていた。その姫が、小声で言う。

「だったらさ、付き合おうよ、私たち」

 胸が高鳴った。姫の一言ごとに驚かされている気さえする。目を丸くした私に、姫ははにかんだ後顔を伏せ、額を私の胸元に擦りつけてくる。その直前に見えた彼女の頬が、可愛らしく紅潮していたのは、果たして私の気のせいだろうか。

「付き合うって……恋人に、ってこと?」

 問うまでもないはずのことを、私は信じられずに確認する。びくり、と一度肩を揺らした姫は、頬を膨らませながら私を見上げた。「いけず……」という呟きが漏れ聞こえたような気がしたが、本当かどうかを知る術はない。

「そうだよ。だってそうすれば、今よりずっと綾子の近くにいてあげられる。もっともっと近くで、迷惑かけたり振り回してあげられる。綾子の嫌いな、私が。それは綾子にとって、辛いことでしょ?」

 それでも少し遅れて、姫はそんな言葉を返した。

 私の葛藤は止まらない。だって私は、姫の「好き」という気持ちに、本当は同じ気持ちを返したいくらいなのだ。それなのに、姫の恋人になって、ずっと隣にいるなんてことになったら、私は――

「――それなら、さ」

 頭を怒涛の勢いで巡る思考を掻き分けて、姫の小さな声が耳に届いた。その瞬間、私の注意は姫に釘付けになる。私の目の前で、姫はゆっくりと唇を震わせた。


「綾子も自分のこと、許せるんじゃない?」


 ぽつりと零れ落ちた一言。それを耳にした途端、何かが腑に落ちた。

 きっと姫は、もう既に私の全てを見抜いてしまっているんだ。どんなに隠しても、隠れようとしても、どうしたってもう逃げきれないほどに。

 こんなにも傍に寄り添われて、離れることなど最早できなくて。それでも私は姫を嫌いでいなければならないのだとしたら。彼女の「好き」に、「好き」と応えられないというのなら。

 ああ、それはきっと、何より辛くて、苦しいだろう。

 ――だったら、きっと私は、姫の恋人でいられるんだ

「……分かったわよ」

 苦笑とともに吐き出した私の声に、姫が大きく瞬きした。ぎゅっと制服の裾を掴まれる。何かをせがむような瞳の輝き。私はそれに応えることにした。

「付き合ってあげるわ、姫」

「ホント!?」

 私が頷くと同時、パッと顔を綻ばせて姫が叫ぶ。

 目尻にはほんの微かに滲んだ涙。喜びに薄く色づいた頬。結ばれ、わなわなと震える小さな唇。その全てが可愛くて、愛おしい。

 そんな気持ちを、私はおくびにも出さず、わざとらしい溜息とともに肩を竦めた。

「姫の根気に負けて、仕方なく、ね」

「うん。それでいいよ」

 私の言葉に、姫はかえって機嫌を良くした様子で、制服を掴んでいた手を放し、私の腰の後ろで組んだ。そのまま、密着するように腕に力を込めて、

「綾子が私の恋人になってくれるなら、それでいい」

 そう言うと、満面の笑みで私の胸に頬ずりしてきた。抱きしめたい衝動が疼いたけれど、私はそれを我慢して、姫の肩を両手で掴むと、その体を引き剥がして彼女の顔を見下ろす。

 意外そうに私を見上げた姫の表情を見て、遅れて気づいた。その構図はまるで、キスを迫るかのようだった。

「……ええと、違うのよ姫。あんまりくっつかれても困ったから離れて欲しかっただけで」

「何も言ってないよ?」

 慌てて釈明する私を、姫は可笑しそうに見やりながら、おどけた口調で告げる。

 言葉に詰まり、苦い顔で押し黙った私に、姫はきらきら光る視線を投げかけた。言葉はない。けれど、彼女の目は雄弁に語りかけてきていた。「一体どうしたいの?」と。

 ――少しだけなら、正直になってもいいんだろうか

 絶えて久しかった、自分を甘やかしたくなる欲望。姫という恋人を前に、私が長らく保ってきた自制心は、「一度だけ」と自分に言い聞かせながらあっさり折れた。

「姫……あの、ね」

「うん」

「キス、してもいい?」

「だーめ」

「えっ」

 楽しげな声音で断られ、思わず情けない声を出す私に、姫は背伸びして顔を近づけた。そのまま、薄く開いた私の唇に、姫の唇が触れた。

 甘くて、柔らかくて、溶けてしまいそうな感触。姫の唇が離れた後も、触れ合った温もりは消えぬまま、むしろ顔中に、さらには全身に広がっていく。

 視界に映る姫の顔は、夕焼けよりも赤かった。きっと、私の顔も同じような色をしているんだろう。

「綾子……大好きっ」

 私にキスしたその口で、姫はそんなことを言う。私はそれに、泣きたくなってしまった。

 自分からキスすることも、本心を伝えることも、私には出来ない。それは覚悟していたよりもずっと強く、私の胸を締め付ける。でもこの痛みは必要なもの、私が姫の恋人でいてもいいという証。だから、我慢しなくちゃいけない。

 私は名残惜しさを必死で堪え、姫の肩から手を放す。そのまま私は一歩下がると、後ろ手を組んで背筋を伸ばし、姫の顔を覗き込んだ。

 いつか私が私自身のことを許せる日が来たら。そのときは私も、姫に「好き」を返せるのだろうか。そんな日が来るのが待ち遠しい。初めて、心からそう思った。

 だから。そのときが来るまではどうか――こんな見え透いた嘘で我慢してね。

 幸せそうに微笑む姫に、私はとびっきりの笑顔を作って、


「うん――私は嫌い。大っ嫌い!」

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その嘘で、私を溶かして えどわーど @Edwordsparrow

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