Chapter 4
またあとで、と言いながら、結局姫は授業が終わるまで姿を現さなかった。まぁ学年も違うのだし、当然だとは思うのだが。
とはいえそうなると、図書室に来るつもりだろうか。委員の仕事中に来られても、隣には同じく係の人がいるのだから、万が一にも朝のような話題を振られると困るのだが。
「北大路さん……北大路さん?」
そんなことを考えていたせいか、横から呼びかけてきた声に反応するのが遅れた。慌てて向き直り、微笑を作る。
「え、あ……ごめんなさい、考え事してた」
話しかけてきたのは淀川さんだ。用事があると言っていたが、帰る前に立ち寄ってくれたらしい。
「こっちこそごめんね、急に当番代わってもらっちゃって」
「いいわよそんなの。特に用事もないし」
「そう言ってもらえると助かるわー。来週はちゃんと、北大路さんの分も働くから」
両手を合わせて申し訳なさそうに語る淀川さんは、活発な雰囲気の子だ。明るく気さくな性格で人と打ち解けやすく、色んなタイプの人たちと仲が良い。私にとっても、図書委員の中ではよく話す方の相手だが、正直なところ、昔の自分を見ているようで少し苦手だったりする。
「お願いするわね。若宮さんの相手は、ちょっと大変かもしれないけど」
軽口のトーンで言ってみる。すると、淀川さんは少しだけ困ったように眉を曲げた。
「あー、そっか、姫ちゃんか……」
苦手らしい。
彼女は後ろ頭を掻きながら、しばらく言葉を探していた。泳がせていた目を一度閉じると、瞼を開くとともに私を見て、
「正直なとこさ、どうやったら姫ちゃんと一緒に仕事なんてできるの?」
ぶつけられた問いは、正直すぎて少しばかり失礼な言い草だ。淀川さんも自覚はあるらしい、本人の影も見えないのにわざわざ声を潜めるのは、後ろめたさがあるからなのだろう。
私は私で、返答に窮していた。そう尋ねられたところで、それほど特別な何かがあるわけではない。強いて言えば、姫の人となりを分かった上で、機嫌を損ねないようにするくらいだ。そして、それを馬鹿正直に説明したとして、きっと理解は得られないだろう。
姫が苦手だという時点で、姫の我が道を行くが如き性分を受け入れられるだけの器量がないことは明白なのだから。
「別に、何を言われても気にしないようにするだけよ。気にし出したらキリがないし、放っておけば仕事自体はちゃんとしてくれるわ」
だから、そう答えてお茶を濁す。私の言葉に、淀川さんは納得した様子で「ふーん」と漏らした。
「まぁ、そっか。仲良いのかと思ってたけど、そうでもないんだね」
「えっと、それは……」
「ま、そうだよね。あんなわがまま放題なお姫サマと仲良くなんて、できっこないと思うし」
得心するなり、淀川さんは難しい顔で組んでいた腕を解いて言った。咄嗟に言い返しそうになった私を遮ってさらに言うと、それまでと一転して気楽そうな笑みを浮かべて見せた。
他方、私の胸の中に、泥のような重さが溜まる。自分の言葉が発端なのは分かっていたが、それを差し引いても、淀川さんの結論の早さとその内容に、苛立ちが沸き起こる。
やはり彼女の本質は、昔の私と同じなんだ。
「じゃ、もう行くね。あ、あと今日の交代のこと、私からも伝えてあるけど、一応北大路さんからも
私の表情に気づきもせず、淀川さんはそう言い残して私の席を離れた。小さく手を振って彼女の背を見送りながら、生まれてしまった怒りをゆっくりと冷ました。
気にしたってしょうがない。もとより、私が何かを言わなくとも、姫に対する淀川さんの認識は変わらなかっただろう。そう分かっていても、どういうわけか胸のわだかまりは、なかなか消えてくれなかった。
あまりもたついて後輩を待たせるわけにもいかない。やむなく私は、苛立ちを抱えたまま図書室に向かった。周りには相変わらず人気がない。
「深山さん、いる?」
ドアを開けて中に入る。呼びかけた声にしかし、応える声はない。どうやらもう一人の当番も、まだ来ていないようだ。
私は後ろ手に扉を閉めると、一人カウンターの裏に回り込んだ。椅子の下に鞄を置いて、椅子に腰かけようとした私だったが、その瞬間、またも昨日の会話を思い出してしまう。
――綾子のこと好きだよ
(もうやめて……)
馬鹿の一つ覚えみたいに姫の言葉を繰り返す頭に手を当てて、私は心の中で呟いた。どっと全身に押し寄せる疲労感。姫の想いに抗うように、重苦しさが胸を覆う。
こんなに辛いと感じたことはない。辛く感じることを、苦しいと思ったことはない。私は私を許してはいけないはずなのに、この苦しさだけは逃げ出したいと感じてしまう。せめて、もし本当に姫のことを嫌いになれていたなら、こんな思いをしなくていいのに。そんな叶いもしない考えさえ浮かんでしまう。
気づけば、無意識に顔を伏せていた。咄嗟に目元に触れるが、流石に涙を流したりはしていなかった。小さく安堵の溜息をひとつ。
「どしたの綾子? 大丈夫?」
「……えっ!?」
一瞬、幻聴かと思った。一体いつの間にやって来ていたのか、図書室の入り口から私の横顔を覗き込んだ姫に尋ねられ、私は目を剥いて声のした方を振り返った。腰を浮かしかけた私の方へ、姫は笑顔を向けながら一歩近づいた。
「あ、あなたの方こそどうしたのよ。当番でもないのにここへ来るなんて、珍しいじゃない」
動揺を押し殺しながら、私は彼女にそう問いかける。もっとも、答えを聞くまでもなく、姫が『図書室に来た』わけではなく、『私に会いに来た』のだろうということは分かっていた。
本音を言えば、困る。昨日や今朝のようなことを言われること自体が、というのもあるが、それ以上にもう一人の当番である後輩が、いつやって来るかが分からない、というのが最大の理由だった、のだが、
「代わってもらったの。当番、深山だったでしょ」
さも当然、という口調で答える姫に、私はきょとんと目を瞬いた。
だが、考えてみればそれも頷ける話だ。姫だって、人と話すことが全くないなんてことはない。むしろ物怖じも遠慮もせず自分の意見を口にするあたり、自分から話を切り出すのは他の人より得意なくらいかもしれない。長時間顔を突き合わせることになれば不和も生じるだろうが、それを避けるためと思えば、尚の事私と一緒に当番を済ませたいのも当然だ。
驚きの表情で固まる私に向かって、姫はやおら胸を張り、
「私も一緒じゃないと、綾子が寂しがるかなと思ってねっ」
「……それ、まさか深山さんにそう言ったわけじゃないでしょうね」
げんなりと肩を落としぼやく私に、姫は何も答えず忍び笑いを漏らした。
まさかと思いたい。思いたいが、実際のところどうなのだろう。降って湧いた疑問に、私はまたも渋い表情で頭を抱えた。
がちゃり
そんな最中、耳に届いた硬質な音に、弾かれるように顔を上げた。今まさに図書室の扉の鍵を閉めた姫は、私の視線を浴びながら、淡い微笑みを浮かべた。
「ちょっと、なんで鍵閉めたりなんてしたの」
立ち上がり、強い口調で詰問する私だったが、姫は柔らかな表情を崩す様子もない。顔は私に向けたまま、彼女は一歩、二歩と扉を離れ、私の方へ近づいてくる。
「そんなに怖い顔しないでよ綾子。この後の話、誰かに邪魔されたりしたくないなって思っただけだよ」
彼女の言葉に、背筋が粟立った。
頭の中で何度も繰り返した悪夢の光景。甘すぎて、幸せ過ぎる姫の言葉にこれ以上溺れないために、最大限の拒絶でそれを振り払う覚悟を問われる瞬間が、遂にやって来てしまった。喉が枯れ、唇が貼り付く。それでも、言わなくちゃいけない。
「姫、聞いて。私は――むぅ!?」
三度姫の告白で決意を乱される前に、と勢い込んで口を開こうとした私だったが、滑るような足取りで近づいてきた姫の人差し指が素早く、だがやんわりと私の口を塞いだ。目を白黒させる私に、姫はさらに口元の笑みを濃く、目元を細く曲げながら近づいてくる。
カウンターを挟んで向かい合う私たち。後ろに下がれば姫の手から逃れられることは分かっているのに、蛇に睨まれた蛙のように、私の足は竦んでしまって動かない。
「ねぇ、私からも聞かせてよ」
三日月のような鋭い眼光。舌なめずりを思わせる、妖艶な声。姫が初めて見せる姿に目を奪われ、私は身動ぎ一つできないまま、姫の声に耳を傾けた。
姫はカウンターの上にさらに身を乗り出すと、私の首筋に吐息がかかるほど近くまで顔を寄せて、蚊の鳴くような声で囁いた。
「――綾子ってさ、自分のこと虐めるの、好きだよね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます