Chapter 3

 悩みが深刻だったことは間違いない。にも関わらず、目覚めはいつもと変わらなかった。

 アラームが鳴るなりすぐに目を覚ました私は、自分の図太さに深々と溜息をついた。体がだるかったり、頭が痛かったりもしない。昨晩の煩悶が嘘のようだ。いっそ昨日の出来事が全て夢だったなら、なんて虫のいいことを願ってみたものの、携帯の液晶に表示された日付は無慈悲に現実を知らしめてくれた。

 霧が晴れたようにクリアになった思考はしかし、寝る前に無視した悩みに対する答えを導きだしてはくれない。制服に着替え、機械的に朝食を貪る傍らで、壊れたレコードのように姫と私の言葉をループし続けるばかりだった。

 苛立ちと不安の同居する胸を手で押さえ、私は諦めて登校することにした。なるようにしかならない、と、半ば自棄やけっぱちの言葉を自分に言い聞かせて部屋を出る。重い足取りで階段を降り、マンションのエントランスに辿り着いた。

 僅かに軋むような音を立てて自動ドアが開く。ひやりとした外気に身震いして、私は無意識に伏せていた顔を上げた。

「おっ、綾子! おはよ~」

 鉢合わせした相手に、思わず唖然とした。

 ただただ呆気に取られる私へと、マンションの外で待ち構えていた姫は、手を振りながら歩み寄ってきた。あっけらかんとした表情は、一昨日までの彼女と何ら変わらない。とはいえ、いつも通りということではないはずだ。何せ、朝、姫が私の家まで会いに来たなんていうのは初めてのことなのだから。

 硬直し切った私を見上げ、姫が怪訝そうな顔をした。どうにか放心状態を脱した私は、努めて平静を装い、

「ど、どうしたのよ、朝から急に。というか、よく私の家知ってたわね」

「前に一回だけ来たことあったじゃない。ほら、綾子の家遊びに行くー、って私がゴネて。結局部屋には上がらなかったけど」

 言われて、確かにそんなこともあったと思い出す。もう半年以上も前のことだったから忘れていた。

「実は私ね、あの頃から――」

「っ!」

 不意に、姫の声が甘さを帯びる。見上げる瞳が熱を帯びて潤んでいた。昨日の光景の再現。私はたまらず身構えてしまう。

 それに続く言葉が、怖い。それに返事をしなければならなくなることが怖い。

 竦みあがる私を余所に、姫の唇が艶めかしく震え――

「――すっごく記憶力が良かったんだ」

「……自慢するほど大したことじゃないわよ、私の家を覚えてたくらい」

 げんなりと応えつつ、私は肩を落とした。気抜けしたのを隠す余裕もない。大きく嘆息する私を、姫はニヤニヤと眺めていた。

 どういう心境なのかは分からないが、少なくとも今、思いっきりからかわれたことだけは確かだ。

「じゃ、行こっか」

「えぇ、そうね」

 満足、と言わんばかりの笑みで促す姫に、私もそれ以上言い返す気にはなれなかった。頷き、私は姫を伴って学校への道を歩き始める。

 学校までは、せいぜい十分の道のりだ。無言のまま数分も歩けば、同じ制服を着た生徒もちらほらと見え始める。中には、仲良さそうに言葉を交わす者たちもいる。流石に漏れ聞こえてくる声だけで会話の内容を察することはできないけれど。

 もっとも、その方が良かった。こんなところで、また『普通』についての話題でも聞こえようものなら、姫が余計なことを考えかねない。

「ね、綾子」

 そんなことを考えていると、袖口が軽く引っ張られた。姫の方を見ると、彼女は私の顔を覗き込み、

「そういえば、綾子は今日も図書室当番だっけ」

 何でもないような雑談だ。やはり少しだけ首をもたげた警戒心を慌てて追いやり、私は頷く。

「うん、そうよ。今日当番の予定だった淀川よどがわさんが、用事があるから代わって欲しいって」

「……ということは、来週はその「淀川さん」が、私と一緒の日なの?」

 投げられた問いは、不安と不満に満ちていた。眉根を寄せて私を睨む姫を、しばしじっと見つめてしまう。

 私以外と一緒に仕事をするからなのか、それとも私と一緒にいられないからなのか。以前なら気にも留めなかった違いに、どうしても意識を取られてしまう。

「そんなに嫌がらないの。こういう言い方しちゃ淀川さんにも悪いけど、大して仲良くしようとしなくたって、図書委員の仕事くらいできるわよ」

 あやすように言いながら、頭を撫でてやる。覿面てきめんに機嫌を直したわけではないけれど、それでも姫は納得してくれたらしい。未だ難しい顔をしながらも、「ん」と漏らして小さく頷いた。

 歩きながらそんな話をしているうちに、遠目に校門が見えてきた。デリケートな話題に触れずにここまで来られたことに、私は胸中で安堵の息を漏らした。

 後から思い返せば、姫はタイミングを計っていたのかもしれない。私の注意が校門に向いた直後、もう一度袖が引かれる。

 改めて姫の方を見やり、ぎょっとする。私を見つめる姫の顔が、思ったよりずっと近くにあった。眼前で輝く、姫の瞳。その視線は迷うことなく真っ直ぐに、私の両目を捉えていた。

「綾子。女の子が女の子を好きになるのって、おかしなことかな?」

 囁くように小さく、低い声。一切の誤魔化しを許そうとしない、固い覚悟が垣間見えた。虚を突かれ、私は咄嗟に言葉が出ない。

「誰かを好きになるときってさ。その人がどんなことをしたとか、どの人とどんな時間を過ごしてきたかが大事じゃないかって思うの。そういうのって、男女関係なく積み重ねていけるじゃない。だから、私はおかしなことだなんて思わない」

 言いながら、姫は小さく一歩足を踏み出した。小さな一歩だったが、それでも元から零に近かった私と姫の距離が、密着しそうなほど縮まる。体温すら伝わりそうな距離感に、私の心臓が否応なく高鳴った。

 惰性に任せて歩みを進めることすらままならず、足を止めた私を引き留めるように、姫の両手が私の両腕を掴んだ。

「私が告白したのはね、それが『普通じゃない』なんて話してるのが聞こえたから。それが認めてもらえないのが、なんだかすごく嫌で、悔しくて……でもね、綾子」

 遠巻きに私たちに向けられる視線を感じる。押し殺した姫の声が、彼ら彼女らに聞こえることはなかっただろう。それでもいつもの私なら、周りの目を嫌って姫を引き剥がしたはずだ。けど、そのときの私に、そんなことを気にするほどの余裕はなかった。

 姫の目がこんなに強い輝きを放っていたことなど、かつてなかった。彼女の視線に捕らわれた私は、ただ彼女の言葉を待つしかできなかった。

「私が綾子を好きになったのは、そんなのよりずっと前。ずっと……ずぅっと綾子のこと、好きだったんだよ」

 半ば掠れて消えた言葉は、他の誰にも聞かせないよう秘めた告白。熱く潤んだ目が、きゅっとすぼまった。

 身を固くし、唇を噛む。湧き上がる嬉しさを全力で握り潰し、私は姫を睨む眼光に力を込めた。何度言われようと、どれだけ胸が痛もうと、私は姫の想いには応えられない。応えてはいけない。

「姫、私は――」

 拒絶の言葉を告げようと――したところで、唐突に姫は私の両腕を放した。軽やかな足取りで踵を返すと、目を丸くした私からあっという間に離れていく。

 駆け足で遠ざかっていった姫は、少し先でもう一度私を振り返ると、勢いよく手を振り上げて、

「じゃあね綾子! またあとで~」

 元気よくそう宣言して、校舎へと一目散に走っていった。

 置き去られた私は、唖然とするより他にない。ひょっとして今のは、遂に気を病んだ私が見た幻だったんじゃないだろうか。そんな疑念すら湧いてくる。

「あとで、って……どういうことよ」

 投げかけそびれた問いは、誰の耳に届くこともなく大気に溶けていく。

 一人で棒立ちする私に向けられる奇異の視線は、姫に密着されていたときよりも数段濃密だった。

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