Chapter 2

 姫を置き去りにして私が帰ってきたのはマンションの一室。表札には『北大路きたおおじ』の表記。昨年の初めに父が長期出張で家を離れることになり、母もそれについていった今は、私一人の住まいとなっている。

 鍵を開け、無言で扉を開ける。靴を脱ぎ捨て、着替えを済ませ、洗濯を仕掛けるとともに食事の準備。冷蔵庫と冷凍庫の残りだけで作った素気のない夕食を平らげる。その後に、洗い終わった洗濯物を物干しに吊るした。流れ作業のようにそれらを済ませる間、私は一言も声を発さなかった。

 家には他に誰もいない。無言の空間は、どうしたって寂しさが募る。独り言でも呟いていれば、まだしも気は紛れたかもしれない。或いは、テレビでも付けていれば、やはり多少はマシになっただろう。

 それでも――いや、だからこそ私は、そのどちらもしなかった。

「…………」

 昔は、今より明るい子だったと自分でも思う。周囲の子たちとも仲良く言葉を交わし、話題を共有し、その中で自分が埋もれていかないように色々と考え、立ち回ってきた。

 周りに合わせながら、なお自分が嫌な思いをしないように。自分が楽しい時間を享受できるように。虐げられる側に落っこちないように、罪悪感もなく虐げる側に立ち続けてきた。自分勝手な線引きで、人を多数派と少数派に依り分けて、少ない方を貶める。誰しもが、多かれ少なかれ持つ経験だろう。私は、人よりも少しばかり深く、その流れに身を置いてきたというだけの話だ。

 切っ掛けが何だったかは覚えていない。そんな自分の生き方を、ふと俯瞰的に意識したことがあった。「私は一体何をしているんだろう」なんて、今まで考えもしなかった疑問が、前触れもなく頭の中に生まれたのだ。

 その時に私が自分自身に対して抱いた深い失望を、今でも鮮明に覚えている。あの日以来、私は固く誓っていることがある。

『幸せを求めないこと』。

 私が自分の幸せを求めれば、きっとかつての在り様に立ち返ってしまう。自分のために他者を糧にする、醜い生き方をまた始めてしまう。だから、少しでも幸せから遠く。少しでも自分が痛みを感じる方へ。

 父の出張についていかなかったこともそうだ。時期がちょうど年度の境目ということもあって、出張先の地方の高校を受験することもできたし、実際両親からはそう提案されもした。けれど私は、地元の友人たちと離れたくないと言って、ここに残ることを決めた。

 嘘だった。かつての友人たちとは、とっくに縁が切れている。ただ無目的に、曖昧に『上を』目指し続けたコミュニティは、不毛な努力を怠った私をあっさりと追い出した。その中での交流に心血を注いできた私に、その外での友人がいるはずもない。

 かくて、私は独りぼっちの暮らしを手に入れた。自分自身を寂しさで責め苛む檻。誰にも助けを求められず、誰にも苦しみを気づかせない、黒ずんだ日常。自分にできる精一杯の、自己満足の自傷行為。

 高校に入って、かつての知り合いが周囲から減っても、それは徹底してきた。問題は起こさず、クラスメイトたちとは不用意に距離を縮めず、最低限の交流だけを保ってきた。当然、クラスの中で私は空気同然の存在となり、人の輪から離れることとなった。

 図書委員になったのも、単に空席を埋めただけのこと。特別な意味があったわけではない。だが、そこで若宮姫という後輩と出会ったことは大きな誤算だった。端的に言えば、私は彼女を放っておけなかった。

 垣間見える孤独の影に、自分自身を重ねたわけではない。まして、呑気に明るく振舞う姿にかつての自分を重ねて見たわけでもない。むしろその逆だ。周囲に抗い、自分にとっての正しさを貫こうとする彼女が、私には眩く見えた。こう在ることが出来ていたら、なんて後悔を呼び起こされてしまった。そしてその悔恨と嫉妬が憧憬へと形を変えるまでに、そう時間はかからなかった。

 姫は他の人とは違う。私なんかとは違う。こんな薄汚れた人間にはならない。

 気づけば、まるで街灯に惹き寄せられる蛾のように、私は姫に構っていた。長らく人と積極的に触れ合ってこなかった私にとって、それはとても些細で不器用な交流だったと思うが、元々他の人とはロクに話の合わない姫からすれば、それでも十分だったらしい。

 彼女に入れ込み過ぎている己を律しようと思ったときには遅かった。既に姫は、私にべったり懐いてしまっていた。

「姫……」

 思わず呟きが口を突いて出た。ハッとして手で口を押えるが、意味があるはずもない。

 私がいなければ、姫は誰かと会話することさえままならない。姫を独りぼっちにはしておけない。独りぼっちは寂しい。それを私は身をもって知っている。姫が辛い思いをするのは許容できない。そう言い訳をして、私はこれまでずっと彼女と一緒にいた。

 けれど本当は、姫は私の傍にいちゃいけない。私は姫の傍にいちゃいけない。だって、彼女の傍にいたら、私は幸せになってしまう。

 ――私、綾子のこと好きだよ

 ――私は姫のこと、嫌いだから

 姫の言葉がフラッシュバックする。私の言葉がそれに続く。

 拒絶するより他になかった。そのために、嫌いだなんて嘘をついた。

 嫌いなはずがない。他の誰を嫌いになったとしても、姫だけは嫌いになれるはずがない。彼女の告白を思い出すだけでみっともなく高鳴る胸が、それを証明していた。

 ――綾子のこと好きだよ

「私も――好き」

 噤んでいたはずの口から、するりと零れた声。驚愕に見開いた目からぽたりと涙が落ちた。一度口にしてしまったせいでたがが緩んだ感情が、雪崩を打って押し寄せてくる。

 好き。好き。好き。姫が好き。姫と話すのが好き。ころころ変わる表情を間近で見るのが好き。一緒にいるのが好き。私と一緒にいてくれるところが、私を大切に想ってくれるところが好き。

 全身を抱えるように蹲りながら、繰り返し溢れそうになる声を必死で押さえつける。代わりに嗚咽が漏れ、吐き出しそびれた想いが手足を痙攣させた。

 この想いこそが、確かな証。私が姫の告白を受け入れてはならない理由。私の想いは成就しちゃいけない。私は幸せになろうとしてはいけないのだから。だから、私が姫を好きでいる限り、姫の想いを叶えてはいけない。

 それが、今まで下してきたどんな選択よりも苦痛になるとは、今の今まで気づかなかった。

 黒々とした決意で感情を押し潰し続けて、どれくらいの間泣いていただろう。やがて涙が枯れて力尽きた私は、ふらつく頭を抱えて風呂に入った。シャワーで体を流すと、湯船に浸かる気力もなく、タオルだけ巻いてそのままベッドに倒れ込む。

 私の嘘で、姫は傷ついただろうか。明日からどんな顔をして彼女に会えばいいんだろう。大挙して襲い来る悩みから逃れるように、微睡みの中に潜り込んだ。幸いなことに、かつてないほど泣き疲れたせいか、あっという間に瞼が落ち、思考が暗幕に覆われていく。

(そういえば……)

 意識が完全に落ちる寸前、私の脳裏を、これまでとは別の疑問が掠めていく。

(姫、私のどこが、守ってあげたいなんて――)

 けれど、それが実を結ぶより早く、私は睡魔に身を委ねた。

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