その嘘で、私を溶かして
えどわーど
Chapter 1
「ねぇ
放課後、図書室。図書委員の私は、当番としてカウンターについていた。
といっても、この図書室はほとんど人が来ない。今日も来室者は、当番である私たちを除けばゼロだ。だから私は、この静寂を堪能しつつ、蔵書の中から引っ張り出した文庫本を読み進めようとしていたのだが。そんな折、真横から掛けられた声に、私は思わず仏頂面で手を止めた。
正直言って、まともに取り合いたくない。無視を決め込む私だったが、声の主は今度は私の耳元に顔を寄せて、
「ねぇねぇ綾子。あーやーこー」
「……聞こえてるわよ。うるさいなぁ」
けたたましい声に片手で耳を塞ぎ、私は嫌々、傍らに佇む少女に目を向けた。
一方で、その容姿が祟って中学生のようにも見えてしまう。実際に間違われることも多いらしい。尚且つ、普段の我儘な振る舞いは、外見相応の幼さを感じさせた。今この瞬間がいい例だ。
ジロリと睨みつける私の瞳を、姫は恐れる様子もなく覗き返す。真っ直ぐ私を射抜く好奇の眼差しに、いよいよ私は嫌な予感が拭えず、内心大きく嘆息した。
「……で、男女の恋だったかしら。まぁ普通というか、大多数はそうでしょうね」
渋々といった調子で私が答えると、姫は途端に眉根を寄せ、「むむぅ」と唸った。その様子を目の当たりにし、私はもう一度胸中で溜息を漏らす。
姫は『普通』を嫌う。より正確には、『普通』を理由に何かを強要されることを酷く嫌う。彼女と知り合って一年足らずだが、私は幾度となくそれを目にしてきた。
下級生は上級生を敬い、敬語で話すのが『普通』。だから、私を含め上級生も呼び捨てか、せいぜい「さん」付けで呼ぶし、タメ口で話す。
女の子なら可愛いものが好きなのが『普通』。だから、そういうものを自分から遠ざけようとする。
流行を追いかけるのが『普通』。だから、敢えて流行りものには目もくれようとしない。
そして、そういう話題を持ち寄って集団を作り、益体もない会話に耽るのが『普通』。だから、姫はそういう人たちには近づこうともしないし、声を掛けられても無視に徹する。
本当にそれが『普通』なのかは二の次だ。周りから強いられたり、同調圧力のようなものを感じるとそうなってしまうらしい。つまり――今回も誰かに、何か余計な事を言われたのだろう。
苦虫を噛み潰したような表情の私に向かって、姫はずいっと身を寄せながら囁いた。
「じゃあさ綾子。キス、してもいい?」
甘ったるく感じるほどに
私はそれに、当然のごとく頷きながら、
「いいわよ。床にだったらね」
「あっ、酷い!」
言い返した途端、噛みつかんばかりの勢いで肩を掴まれた。そのまま私を揺さぶる姫を、私は忌々しげに睨み返す。
「何が酷いのよ。そんな下らない理由でキスを迫られた私の方が、よっぽどそう言ってやりたいわ」
両目を眇めてそう告げる私だったが、姫はそれに、不満そうに唇を尖らせた。
「下らないって何よぅ。私は真剣なんだから」
そんなことを言って頬を膨らませる彼女を見下ろし、私は鼻息を一つ。わざとらしく手元の文庫を開きなおし、彼女から目を背けて、その視線の先をそのままページの上へ移した。視界の隅に辛うじて姫の姿を残しつつ、そのことを気取られないよう努めながら、
「残念だったわね。姫に真剣なんて言葉、どうしたって似合わないわよ」
言い捨てて、彼女の反応を窺ってみた。
すぐに癇癪を起こすものと見込んでいたのだが、意外にも姫の反応は静かだった。二度、三度と目を瞬いたかと思えば、彼女はやおらニマリと笑って、私の頬に触れそうなほど顔を近づけてきた。ぎょっとして振り向きながら顔を離す私を見て、姫がその笑みをさらに濃くする。
「ちゃんと見てるんだー」
「……何よ」
からかわれた、という腹立たしさを抑えきれず、私は憮然と問いを投げた。私の反応が愉快だったのだろう、小さく笑い声を零す姫だったが、それもすぐに引っ込めた。
彼女は直前までの厭味ったらしい笑みを掻き消すと、不意に柔らかく微笑んで、
「私、綾子のこと好きだよ」
直前に、そう言い出しそうな気はしていた。恋の話からキスの誘いという順序を考えれば、行き着く先はそれくらいしか思い浮かばない。だから、驚いたわけではない。それでも、私は一瞬それに言葉を返しあぐねた。
「あ、そう」
「またそんなつれない態度とって~」
そっぽを向き、敢えて冷淡に言い返したものの、堪えきれない逡巡や照れを見抜かれたらしい。途端に相好を崩した姫が、私の頬をつついてきた。顔を顰めて振り払うものの、彼女は上機嫌のままだ。調子に乗せてしまったらしい。
「言っておくけど本気だからね? ほら、綾子って優しいし」
「初めて言われたわ」
聞いてもいないのに理由を語り始める姫に、私は一切興味を示さず、本のページを捲る。
とはいえ、姫が私を優しいと評するのは、まぁ分からなくもない。周囲と足並みを揃えるということに、致命的なほど理解のない彼女は、当然のごとく人とまともに話すことさえままならない。初対面で一言二言挨拶を交わすくらいならいざ知らず、長くに渡ってある程度親密な関係を築けた例など僅かだろう。少なくとも、この学校の中では私以外に、そんな相手はいないように見える。
私からしてみれば、図書委員の仕事をさせるために必要だから、彼女の逆鱗に触れないように接しているだけなのだが、その気遣いが彼女にとって憩いとなっているのかもしれない。
いかにも無関心な私の態度を見せつけられても、姫が止まる様子はなかった。しなだれかかるように私の肩に手を置きながら、さらに続ける。
「カッコいいし」
「それも初めてよ」
添えられた手を振り解こうか悩んだものの、結局無視。同じ言葉を返しながらページを捲る。
人より目つきがキツい自覚はある。だがそれによる周囲の評価は「いつも不機嫌そう」か「なんだか眠そう」のどちらかが常だ。「格好いい」などと言われたことは、本当にただの一度もない。
いよいよ姫の言い分が戯言じみて聞こえてくる。彼女の表情を窺うべく、ちらりと真横に視線を走らせたのだが、姫はそれを目敏く見止めたらしい。一瞬目が合ったかと思うと、目を丸くして瞬きした。かと思えば、嬉しそうに口元を一層綻ばせた。
きーん こーん
下校時刻を告げるチャイムが響く。気を取られ、瞬間警戒を緩めた私へと、姫はさらなる一言を放り投げた。
「それに――なんだか守ってあげたくなる感じだし」
「……馬鹿らしい」
冷えた声でそう吐き捨てて、私は姫の手を振り払い立ち上がる。私の声質に何か感じたのか、慌てて姫も私を追いかけるように立ち上がってきた。
「あ、綾子っ!? 待ってよ!」
揺れる声とともに手を伸ばす姫だったが、私はその手をするりと躱し、椅子の傍に置いてあった鞄に手を伸ばす。
「何を勘違いしてるか知らないけど」
私が再び口を開くと、姫の動きが凍りついた。
胸の内側が酷く重い。黒く濁り、鬱屈した想いを反映するように、私の目は剃刀のように細く、剣呑に研がれていく。
直前までのけたたましさはどこへやら、今や完全に失い立ち尽くす姫に突きつけるように、私は低い声で囁いた。
「私は姫のこと、嫌いだから」
雷に打たれたように、姫の肩が激しく震える。それを見ていられず、私は目を逸らし踵を返した。
「図書室の施錠、よろしくね」
一方的に告げ、私は足早に図書室を離れた。後ろ手に扉を閉めると、一度深呼吸。そして、駆け足でその場を後にした。
姫から、或いはその空間から逃げるように。独りになれる場所まで、一分一秒でも早く逃げ去るように。
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