謎の西洋城

坂根貴行

第1話

 真紀はうなされて目が覚めた。パジャマが汗で濡れている。

 またあの夢を見た。

闇の中、西欧の男の子が訴えてくるのだ。「早くボクを助けて」と。5、6歳の小さな男の子だ。白い顔をして、悲しい目で真紀を見つめている。その顔が溶けて行く。「早く……た…す…け…」最後の声は聞こえない。

 この気持ち悪い夢はいつまで続くのだろうか。

真紀はキリスト教徒だった。熱心な教徒ではないが、ときどき教会に行くし、神に祈りを捧げたりもする。なのにこの悪夢はなぜ? 神父に相談したこともあるが、「懺悔が足りないのです。悔い改めなさい」と言われるだけだった。

 真紀は冷たい水で顔を洗うと、スポーツシューズを履いて近くの国立公園へ行った。小鳥の鳴き声がさわやかな森の中を歩く。朝の散歩は日課だ。インスピレーションのために欠かせない。

 真紀はイラストレーターを志す二十歳の女の子だ。大学は適応できず一年で中退し、昔から好きだった絵で生きていこうと決めた。小さなコンクールで賞を取り、いまはネットを通して月に数件絵の仕事をしているが、それだけでは食べられないから特殊なバイトもしている。両親には早く会社に入ってまともに働けと言われているが、たぶん会社員になっても適応できないと思う。

私はこれでいいのだ。いつか必ず有名なイラストレーターになって、好きな絵を描いて、お金をたくさん稼いで、幸せに暮らしたいという夢があるのだから。そのために毎日絵の練習をしている。今日はどんな絵を描こうかな、と考えながら歩いていると、

「きゃっ」

転んでしまった。樹の根っこにつまづいたのだ。

「いたた、なにこの根っこ」

 それはひどくうねりのある根で、人間の足に絡みつくようだった。いつも通っている道だが、こんな根っこ、あっただろうか。真紀は恐くなって早々とその場を離れた。

 アパートに帰り、コーヒーを飲んでから、スケッチブックを持つ。

 真紀が得意とするのは幻想的なイラストだ。妖精や可愛い魔物が好きだ。普通の男の子、女の子、中年の男女も描くが、筋肉質の男性や機械系、ホラー系は描けない。しかしいろいろな種類の絵を描けたほうが仕事の幅も広がるのだ。得意分野をさらに伸ばすことも大切だが、苦手分野を克服することも大切な気がする。

「よし、筋肉質の少年を描いてみよう」

真紀がペンを持った時、異変が起こった。

ペンが紙の上を勝手に走るのだ。なにこれ、なにこれ。そんな呟きや恐怖を無視してペンは動く。夢で何度も見た西欧の男の子の顔ができあがっていく。悲しげな目でこちらを見ている。背景には暗い森が描かれ、男の子の足元には大きなうねりのある根があった。

ペンが止まる。

真紀は驚きで声も発せない。

これ、男の子からのメッセージってこと……? 

 深呼吸する。いつもあわてて行動して失敗してた。ほら、友達の結婚式のときだって、遅刻すると思ってあわてて式場に向かったら、スポーツシューズを履いていた。

 真紀はキッチンに立ち、コーヒーを煎れた。コーヒーカップの中の濃密な黒が、真紀の表情を投影しているようだ。

 もう一度考える。夢といい、絵といい、男の子は私に助けを求めている。私を呼んでいる。そこまで助けを求められるなら、助けに行かなきゃと真紀は思う。だけど、いまあの森へ行けば、私は男の子の霊的な力に飲み込まれてしまう気がする。かといってこれ以上無視もできない。

 そのとき、コーヒーカップの中に顔が浮かんでいることに気付いた。

「きゃああ!」

カップが手から離れる。床に落ち、破片が飛び散る。まるで血のように黒い液体が四方へ流れて行く。

「何をして欲しいの。はっきり言って。これ以上、私を脅かさないで」

真紀は言った。

「……た…す…け…て…」

 声が聞こえた。夢を見ているわけじゃないのに、声が。

幻聴? 私、気がおかしくなったの?

真紀は部屋の隅で小さくなった。

「来て……。森の……中へ……」

「さっき森へ行ったよ。あなた、いなかったわ」

「夜……十二時に……」

 男の子の声が消え入った。

静寂が湧きあがってきた。

 私はどうしても森へ行かなければならないようだ。行かなければ、恐ろしい呪いをかけられるかもしれない。

 真紀はスケッチブックの男の子に、

「わかった。わかりました。行きます。その根っこのところへ行けばいいのね」

 と投げやりに言った。

お守り代わりに十字架を持っていくことにした。それから、子供が喜びそうなお菓子も用意した。

 夜を待ち、真紀は公園に向かった。女性が一人で夜道を歩くなんて、危険極まりない。こんなことをさせるなんて、あの子、なんて身勝手なんだろう、と怒りが湧いてくる。途中で悪い男に絡まれたら、私、あなたを助けるどころじゃないのよ。ああ、本当に男はケダモノで、汚い!

 無事に公園の入り口に着いた。懐中電灯をつけて散歩コースを進んでいく。向こう側に黒い巨大な塊が見える。朝は爽やかな緑あふれる森なのに、夜はまるで魔物でも潜んでいるような邪悪な森と化していた。

真紀は心細さに耐えながら森の中に入り、いつものコースを辿る。懐中電灯の光が闇を削り取っていく。そこに人の顔が突然現れたら、私は飛び上がるかもしれない。できるなら、穏やかに現れて欲しい。

そう考えていると、何かにつまづいて転んだ。

「いたたた」

 手と膝を打った。痛い。泣きたい気持ちだった。そこへ、

「お姉ちゃん」と声がした。

 目の前に足が見えた。見上げると、うっすらと男の子の顔があった。

「来てくれたあ」

 男の子は言って抱き着いてきた。やわらかい感触があった。それで真紀から恐怖が消えた。

「お姉ちゃん、助けてよう。寂しかったよう。怖かったよう」

 霊と言っても、子供は子供だ。真紀は十分に抱きしめたあとお菓子をあげた。ビスケットとチョコレートだ。男の子は口にほおばった。

「名前は何て言うの」と真紀。

「僕、ケインズ。お姉ちゃんは?」 

 ケインズに訊かれて、真紀は「つくし」と答えた。つくしはイラストレーターとしての名前だった。本名を教えるのを避けたのは、警戒心からだった。

「つくし? 変なの」

「ちょっとお、ひどいんじゃない?」

「変だよ。日本の女の人の名前はヨネとかキヨとかじゃないの?」

「いつの時代よ、それ」

 真紀は笑った。

 真夜中の森で正体もよくわからない子と変な会話をしている私。限りなくシュールだ。

「あのね、状況を理解したいから、一つずつ質問するよ。まず、ケインズ君はどうしてここにいるの」

「うん、三〇〇年前のことなんだけど」

 真紀は表し抜けたが、「はい」と言って促した。

「僕のおじいちゃん、魔法使いで、悪い悪魔と闘って、その悪魔を森の奥に封印したんだ。でも誰かがその悪魔の封印を解いてしまって……、そして悪魔は復活し、僕をさらって、あの城に閉じこめたの。復讐として」

 ケインズが後ろを指さした。すると向こう側に、月光に照らされた西洋城の輪郭が見えた。

「待って。ここ、日本だよね。なんでヨーロッパの城があるの。それに七〇〇年前に日本に外国人なんていないはずよ」

「ここ日本じゃないよ」

 ケインズは微笑した。

「ここは北欧のとある森の中だよ。霊的な場所なんだ。だから夜になると、公園の森と繋がるんだ」

「なぜ繋がる場所が、公園の森なの」

「ここ、戦国時代にたくさんの人が亡くなった場所だから」

真紀は、怖くなってきた。そんなことは知らなかったが、ケインズが言うのだから本当なのだろう。

「ほら」ケインズは真紀にチョコレートを出し、「ほら、これ食べなよ、あげるから」と笑った。真紀はそのチョコを受け取り口に放った。甘さはいくらか心を落ち着かせた。

 ケインズの話によると、霊界では時間が流れないので、城の中に閉じ込められたケインズは年を取らないまま七〇〇年を過ごしてきたという。

「待って。ケインズ君は城の中にいるってこと? じゃあいま私と話しているあなたは誰?」

「僕は一種の霊なんだ。体を城に置いたまま抜け出してきたの。おじいちゃんの血を引き継いでいるので、こういう不思議なことができるみたい。僕はどうしても人間の世界に戻りたかったんだ。お母さんにも会いたいし」

「ふうん。霊だから私の夢に出たり絵を描かせたりできたのね。でもなぜ私に?」

「波長が合う人ということが条件で、僕はこれまでにも、おばさんとかおじさん、若い男の人、女の人にメッセージを出してきたよ。でもみんなぼくを恐がって逃げた。一〇〇年ほど前に、助けてあげるって人も現れたけど、その人は僕を助ける力を持っていなかった」

「私だってないわよ。武器と言えば、これだけ」

 真紀は十字架を出した。もともとはケインズから自分を守るための道具だったが。

「あ、それは効果なし」

「あらら」

「それより、純粋な心が武器になるんだ」

「ずいぶん精神論ね」

「つくしさんは、キリスト教徒でしょ。人を許すとか、正しいことをしたいとか、そういう気持ちが大切なんだ。信心深さは実は大切じゃない。それにいま、イラストレーターという夢を持って頑張っているよね。そういう努力も純粋な心を作るよ」

「ありがとう。では私は、この純粋な心で、ケインズ君をどう助けるの」

「城の中に入るでしょ。悪魔たちが襲ってくるけど、つくしさんの心に触れて死んじゃう。だからつくしさんは、何もしなくていい。ただ城の中を、牢獄に向かって歩いていって。その道案内は僕がするから。そして僕を牢獄から外へ連れ出して欲しいんだ。そのとき、僕は体の中に入る。そのあと城を出る」

「城を出て人間界に戻るのね。あの、お母さんに会いたいって言ったよね。でも、お母さんはもう……」

 真紀は、死んでいるのよ、とは言えなかった。

「なあに?」

「ううん、何でもない」

 子どもの夢を壊すべきではない。

「じゃ、行こう」

ケインズは真紀の手を握り、森の中を歩き始めた。

道が荒くなり、うねりだす。奇怪な鳥の鳴き声が木々のあいだを走り抜ける。ひんやりとした空気が漂ってくる。霊的な場所の存在感をひしひしと感じる。

 懐中電灯の光が灰色の壁を照らした。ああ、ついにここまで来た。真紀は心の中で神に祈る。

壁はところどころ崩れ、生き絶える寸前の老婆のようだった。

「ずいぶんボロボロね」と真紀。

 ケインズは小さく口をあけて、城を見上げている。

「どうしたの」

「どうしてこんなにボロボロなんだ。僕が城を出る時は、もっとがっしりしてた」

「ケインズ君が霊になって城を出たのはいつなの?」

「二〇〇年くらい前かな。そのとき霊になる方法がわかったから」

「二〇〇年も経てば壁もボロボロになるんじゃない?」

「でもここは、時間が流れない場所だよ」

 ケインズが言った。

 城に閉じ込められたのが七〇〇年前で、抜け出したのが二〇〇年前。少なくとも五〇〇年経っているのに城が頑丈のままというのは時間の影響を受けないからだろう。

「ケインズ君がいない間に、何かあったのね」

「そういうことかな。そうなのかな」

「他に考えられないじゃない」

「じゃ、何があったの」

「私が知るわけないでしょ」

 真紀がふと思ったのは、この場所にも時間が流れ込んできているのではないか、ということだった。あの木の根っこ。あれは朝もあったが、夜もあった。あれがいわば傷口になって、血という時間が流れ出したのでは。

「行こう」

 ケインズは真紀の手を握り、城門へ移動した。黒い扉であった。錆びついている。ケインズに懐中電灯を預けた真紀は、取っ手に手をかけて、引いた。重かったが、少しずつ扉は開いた。充満していた闇がこぼれてくるようだった。

「大丈夫だよ。怖くないからね」

 ケインズは紳士のように、怖がる真紀の手を優しく握った。子供とはいえさすがは西洋人であった。

 真紀は懐中電灯を握り、門をくぐった。またすぐに扉があったが、半分開かれていた。中に入る。ここは玄関ホールであった。ケインズの話では、右手にダイニングルームが、左手にビリヤード室があるという。ホールを直進すれば広間に出る。宴会や舞踏会の間として使われる部屋だ。

「僕のいる牢獄は、広間を右のドアから出て、まっすぐ通路を進むと階段室があるから、地下に降りて。そうしたら独房が並んでる。僕のは一番奥の」

「わかったわ」

真紀は凍えそうな息を吐いた。怖いだけじゃなくて、寒いのだ。この骨身に染みるような冷気はなんなのだ。

 玄関ホールは荒れ果てていた。花瓶やブロンズ像が崩れ、床にぶちまけられている。赤い血の跡が壁についていて、真紀は息を飲む。

「なんだよ、これ」とケインズ。

「どうしたの」

「僕が城を出るときは、こんなんじゃなかった。まるで盗賊が入ったみたいだ」

 ライトが床の上の細長いものを照らした。

骸骨だった。

 真紀は叫び出したかったが、かろうじて耐えた。

「僕がいない間に、いったい何が起こったんだろう」

「はじめからこうじゃなかったのね」

「僕の体、大丈夫かな」

 ケインズが不安げに呟いた。城内のこの荒れた様子では、牢獄にいる人たちも無事ではないかもしれない。

「急ぎましょ」

 真紀としてもこんな怖い場所にいつまでもいたくない。

 玄関ホールの扉を開け、広間に入る。不気味なほど静かだった。そこへ、ガタ、と物音が奥から響く。

真紀はケインズの手を硬く握った。

ケインズが光を向こうへ当てるが、足の欠けたテーブルや椅子が横転している光景を切り取るばかりだ。

「いまの音、何だろう」

「た、ただの物音よ」真紀はそう信じたい。

「行ってみよう」

「ダメ、悪魔だったらどうすんの」

「悪魔ならとっくに僕たちのほうへ来ているはず。でも来ないってことは、悪魔じゃない。他の、何かだよ。正体はあらかじめ知っておいたほうがいよ。放っておいたら、後から殺されるかもしれないんだから」

「やめてよ、恐いこと言わないで! ケインズ君は霊的だから無事だろうけど、私は生身の体なのよ」

「じゃ、つくしさんは、ここで待ってて」

「一人にしないで!」

 真紀は一緒になって奥のほうへ歩いた。

 一歩ごとに床が来しんだ。

 懐中電灯の明かりは闇を裂くが、その光の先に物音の正体は現われない。

 見えるのは、床にうつぶせの骸骨。横になったテーブルや割れた皿、散らばったスプーン、腐蝕したパン。なぎ倒されたワインクーラー。

「なんだよう、これ」ケインズが戸惑っている。

 異次元の森に佇む城。それだけで恐いというのに、ケインズさえ知らない荒廃の謎……。

何かが動いた。

ケインズが光を向けた。走る人影があった。真紀は悲鳴をあげた。

「待って!」とケインズ。

 しかし人影は止まらない。広間を出て通路を駆けていった。

「なに、何だったの」

「きっと盗賊だよ。実はこの城には財宝が隠されているんだ。それで盗賊が狙ってたようだけど、なにせ悪魔の城だから簡単には入れないし、被害に遭ったこともない。僕が牢獄にいたときに隣の囚人がそう教えてくれた。だけど、僕がこの城を出たあと、状況が変わったみたいだ……」

 玄関ホールの荒れようも盗賊のせいなのだろうか。骸骨があったが、あれは盗賊の死体だったのか。それとも……。

 真紀はもう泣き出してしまいたかった。だけどケインズと約束したからには責任を持ちたかった。

 真紀はケインズの手をしっかりと握り直し、盗賊の後を追う形で通路へと出た。ベッドルーム、書斎、子供用の部屋などが両脇に並び、通路の奥のドアを開けると、階段室があった。二階と地下へ続く階段がある。

「地下だわ」

 地下というだけで怖い。

 降りたが最後、上がって来られなくなったらどうしよう。

「ケインズ君。ここまでで、悪魔とやらは全然いないみたいだけど。私に見えてないだけ?」

「ううん。本当にいなかった」

「どうしてなの」

「わかんない。僕もわかんないよ」

 悪魔は消えたのだろうか。だからこそ盗賊も侵入するようになったのだろうか。しかし、城内を漂うこの、肌を刺すような冷気……。それは目の前の地下から流れてくるようだ。

「つくしさん。もう、帰ってもいいよ」

ケインズがぽつりと言った。

「何言うのよ」

「僕のわがままだから……。ここまで来てくれて、十分にうれしい。でも、もういい」

 真紀はケインズを力強く抱きしめた。

「自由になりたいんでしょ。人間の世界に戻りたいんでしょ。七〇〇年も待っていたんでしょ。そしてようやく私を見つけたんでしょ。だったらあきらめたらダメ。私は大丈夫だから、さあ、行きましょう」

階段を見る。幅が狭く、二人で並んでは降りられない。真紀は懐中電灯を片手に、自ら階段を降り始めた。本当はケインズに先頭を歩いて欲しかったが、自分が頼りになるところを見せなければと思った。

木でできた階段なので、降りるたびにミシミシと不安な音を発した。踊り場に足を下ろしたとき、足がめり込み、体勢を崩した。

「大丈夫?」とケインズ。

真紀は叫びを飲み込む。手すりにつかまって持ちこたえる。

「私は大丈夫。ケインズ君も気を付けて。木が傷んでるわ」

真紀は荒い息で言った。

ケインズが踊り場に足を置くと一気に崩れ落ちた。ケインズは叫び声もあげず穴の淵に捕まった。真紀が手を伸ばすが、ケインズはすぐに落下していった。

「ケインズ君!」

 穴に向かって叫ぶ。反応はない。地獄のような静けさ。だけど、彼はいま霊的な状態なのだ。飛んで来られるかもしれない。私は先を急いだほうがいい。

 階段を降りるたびに冷気は強くなり、肌が痛いほどだ。だけど私は負けない。

 いちばん下に着いたとき、通路が一本向こう側へと走り、その左側に独房が並んでいた。ケインズの独房はいちばん奥だという。私は鍵など持っていないが、外からだと簡単に開けられる仕組みなのだろう。

 真紀は白い息を吐いて、歩き出す。

 最初の独房は、床に骸骨があった。真紀に恐怖の痛みが弾けた。

 次の独房も同じく骸骨が。

 こんな光景がずっと続くのだろうか。

 しかし次の独房を見たとき、真紀は心臓が止まった気がした。そこにいたのは生きた人間だった。少し太った色白の西欧人男性で、鉄格子を握って、生気のない目で真紀を見ている。

 なぜここに人間がいるのだ。時間の流れに関わらず死なない体を持っているというのか。

「どこへ行く」

 男が言った。

 真紀は早足で先へ進もうとした。

「つくしだろ、おまえ」

 足が止まる。

「イララストレーターの卵なんだろう」

「なぜ……!」

「全部知ってるよ。全部見てたから」

「な……、あなた、誰なの」

「ナポレオンだ」

「ふざけないで」

「ナポレオンが嫌いかい。んじゃあ俺はアリストテレスだ。へへへ」男はそこで初めて笑った。「俺は長いことここにいるんだ。どんな有名人や偉人も俺の中へ来たことがあるんだ。来ては去り、来ては去り……、ある意味では俺は全世界の偉人なんだ。そうそう、徳川家康だって来たことあるんだぜ」

「あなた……、なぜ生きてるの。この城の時間は動き出したはずよ」

 そうでなければ骸骨たちの存在の説明がつかない。

「誰が生きてると言った?」

 男はニタリと笑った。

「生も死も俺にゃ関係ねえよ」

 ウハハハと笑いだした。

悪魔、悪魔だ! これが悪魔だったんだ! 真紀は十字架を突き付けた。

「そんな人工物、効かないんだよ」

 十字架はなぜか真紀の手から落ちて、地面にめりこみ、落下していった。

 真紀は逃げ出した。背中から声が追いかけてきた。

「ウハハハ。ちょっとからかっただけだ。おまえもいつか死んだら俺のところへ来るかもな。有名なイラストレーターの先生になったらな。ウハハハ」

 真紀は荒い息で走り続ける。

 やがて壁にぶつかる。階段とは反対の方向へ走ってきたらしい。ケインズのことを助けなきゃと思っていたからだろう。

「ケインズ、いる?」

 真紀は独房の暗がりに懐中電灯の光を当てた。

 人がいた。隅にしゃがみ、こちらに背中を向けている。

「ケインズね。いま開けるわよ」鉄格子の鍵を探す。それは右へひねると簡単に開いた。

「さあ、もう大丈夫よ」

 真紀は独房の中に入ったが、彼は背中を向けたままだ。彼はいわば抜け殻なのだろう。霊的存在のケインズが自身の中に入ってようやく動けるのだろう。

 そのケインズは階段の踊り場から落ちてしまい、いま傍にいない。早く戻って来てくれないだろうか。私一人で抜け殻の彼を連れてこの城を出るのは無理だ。かといって、ここでじっとしてもいられない。

「ケインズ」

 真紀はもう一度男の子に呼びかけ、その背中に触れた。そのとき、自分の背中が誰かに触れられる感覚があった。真紀は飛び上がった。が、誰もいない。早くここを離れたい。

「ケインズ、行くわよ」

 と肩を抱いた。すると、またも自分の肩に触れられた感触が走る。

 そのとき真紀は、男の子だと思っていた彼が真紀自身であることに気づいた。髪の色、うなじのホクロ、体型。私の体だ。

 もう一人の私が立ち上がった。

「ありがとう。来てくれたのね」とかすかに笑った。

「どうなってんのこれ……」

「私閉じ込められていたの」

「どうして。誰に?」

 もう一人の真紀は答える代わりに真紀に近づいた。怖いけど、逃げられない。逃げてはいけないと思った。二つの体がひとつになった。真紀に愛しい気持ちが広がって、自分を抱きしめた。


 覚えているのはここまでだ。

 意識が戻った時、真紀は明け方の森の中で倒れていた。あの奇妙な形の根っこがあるところだ。手元には懐中電灯が転がっていた。

 長い映画を見ていたような気分でアパートに戻った。スケッチブックに描かれたはずの男の子の絵はなかった。夢にもケインズは現れなくなった。すべてが日常に戻った。

 朝の散歩で森を歩くたびに、真紀はあの城の意味を考える。

 城のどこかに隠されているという財宝。あれはもう一人の自分のことだったのだろうか。ケインズは道案内の役割を果たしてくれた。そう考えると、なんとなく辻褄も合う。

 真紀はキリスト教をやめた。

 特殊なバイトもすっかりやめた。

 ただ朝のコーヒーは飲んだ。意識をはっきりさせて、履歴書を書いた。自分にでもできそうな仕事を探しては会社に送った。イラスト以外に自信のあることなんてないけれど、このまま部屋にいることは牢獄にいるのと同じなのだと悟った。

 外に出ることの勇気が自分の中から湧いてくる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

謎の西洋城 坂根貴行 @zuojia

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る