男同生、壱

アマリリス

第1話 50年前の話

未だに引きずる、この苦しい胸の内を聞いてください。


不意に涙がこぼれた。

「何だお前、泣き上戸だったのか」

 目ざとく見つけた武三が、冷やかすように言った。カウンターの中で寿司を握っている若い板前の面差しが、一瞬弟にだぶって見えたのである。

「そろそろ出ようか」

 武三は、私の顔色を窺うように肩に手を置いた。

 寿司屋の外に出ると、ホテル街のネオンがけばけばしく、目に映った。拒んだりすねたりしたところで、結局、今夜も彼に抱かれることになるだろう。男の弾む足取りを小走りに追いながら、私は言いようのない淋しさに襲われた。


 「部屋まで送ろうか」

 アパートから少し離れた所で、タクシーから降りようとする私に武三はそう尋ねた。

 「ウウン、大丈夫」

 「そうか、気をつけてな」

 言葉とは裏腹に安堵の表情が、男の顔に浮かぶ。女を抱いた後の疲労感が家路を急がせるのか、彼は運転手を促して、性急に去って行った。

 深夜の帰宅をアパートの住人達に気づかれないよう、私は用心深く足音を忍ばせて、部屋へと急いだ。

 「姉ちゃん」

 闇の中から声がした。

 心臓が止まるかと思う程、ドキンと音を立て、その場に私は棒立ちになってしまった。

「俺、俺だよ、良夫だよ」

 そう言いながら、背後の影はゆっくり近づいて来た。

「良夫?」

 三つ違いの弟だった。

「いったいどうして、こんな真夜中に」 

 振り向くと、二年ぶりに見る弟の姿があった。

「真夜中にって、本当は夕方やって来たんだけど、留守だっただろう。それで仕方なく今まで待っていたんだ」

 「夕方から今まで?それは悪かったわね、お腹も空いたでしょう、早く部屋に入りなさい」

 男との逢瀬のために帰宅が遅れたバツの悪さを隠すように、私はあわててバッグの中の鍵を探した。

「それはそうと、姉ちゃん、今タクシーの中に誰か男の人いたのかい?」

 武三を見られたのかと、一瞬ギクッとしたが、

「シィー、静かに、話は部屋に入ってから」

 と、私は、弟の問いをはぐらかした。

 一日中締め切ってある部屋の中は、初夏とはいえ深夜の冷え冷えとした外の空気と違って、ムッと生暖かだった。

 私は、手早く小鍋に水を入れ、ガスコンロの上に乗せた。

「夕食、どこかで食べなかったの?随分ひもじそうじゃないの。インスタントラーメンでも作るわね」

 弟は本当にひもじそうだった。というより、少し奇妙な感じだった。生気のない顔色、疲れた足取り、そのくせ妙に目だけがパッチリ見開かれていて、鈍い光を放っている。よくよく見れば、瞳孔が拡大されているかのようでさえあった。

「それより、今の男の人誰、以前から知っている人、何故、タクシーに一緒に乗って来たんだい、どんな話をしていたの?」

「どうしたの、お店のマネージャーじゃないの。今夜仕事で遅くなって送ってもらっただけよ。どうして、そんなにしつこく尋ねるの?」

 鍋の中に麺を入れながら、私はうそをついた。

「さあさあ、そんな所に突っ立っていないで、腰を下ろしたらどう」

 鍋に蓋をし、火を弱めてから。私は弟に近づいた。

「姉ちゃん!」

 突然、良夫がむしゃぶりついて来た。

「俺、苦しいんだ、追われているんだ。助けてくれ!」

 男にしては小柄なほうだが、私より上背のある良夫が、まるで幼な児のように私の胸に顔を埋ずめている。一瞬呆気にとられたが、良夫の肩に手をやり、彼を畳の上に座らせた。

「落ち着いて話してごらん、一体何が有ったと言うの。二年ぶりにやって来て、急に泣き出して、訳が分からないじゃない」

 良夫は畳の上に突っ伏して泣いていた。背中が小刻みに揺れ、やがて二十二歳になろうかという大の男が、四つか五つの子供の様に泣いていた。それを見ながら、私は丁度二年前、良夫が訪ねて来た初夏の昼下がりのひとときを思い出していた。


 その日私は公休日で、一週間分の洗濯をしていた。洗濯機の中の泡の渦をボケーと眺めていると、表のドアを強く叩く音がする。ドアの横の窓を少し開けて外を覗くと、弟が立っていた。派手な縞のカッターシャツに白い背広の上下、白いメッシュの革靴を履き、金縁のサングラスを掛けている。いかにもチンピラといった風体だった。私は苦笑しながら、ドアを開けた。

「やあ姉ちゃん、久しぶり」

「本当に久しぶりだね、まあ上がりなさいよ」

「いや、そんな暇はないんだ。ただしばらく大阪を離れるから、ちょっと挨拶に寄っただけ」

「大阪を離れるって、どこに行くの」

 私は、弟の明るく弾んだ表情を見ながら尋ねた。

「ちょっと横浜の方へ、仕事に行くのさ」

「横浜、随分遠い所に行くのね。それで、どんな仕事なの」

「うーん、まあちょっとね」

「ちょっとじゃ分からないわよ、どんな仕事なのか、それと連絡先もきちんと教えてちょうだい。もしも急用があれば、困るでしょう」

「行ってみないと続くかどうかも分からないし、向こうに着いたら連絡するよ」

「良夫、待って!」

 そう言うより先に弟はドアを閉めていた。私は慌ててサンダルを履くと、ドアを開けて表に飛び出した。

 連れがいたらしい。濃い緑色の乗用車の助手席に良夫は今にも乗ろうとしていた。

「良夫!」

 片手を小さく上げて、彼は車の人となり、排気ガスのの臭いを残して去って行った。


 それから半月ばかり経ち、偶々私が親の家で寛いでいた時だった。電話のベルの音に、私が手を伸ばして受話器を取ると、強烈なロックのリズムと、人のざわめきと共に、弟の声が飛び込んで来た。

「随分にぎやかな所から、かけているのね」

「ああ、店からかけているからね」

「店、何の店なの、勤め先から?」

「うん、長襦袢って店なんだ」

「なあに、ナガジュバン。それ何、もしかして着物の長襦袢のこと」

「そうだよ、その長襦袢、ピンサロさ」

「ピンサロ、ピンサロって何」

「ピンクサロンのことさ。もっとも、女の姉貴には縁のないところだけどね」

 弟は、長襦袢という名前のピンクサロンに勤めているということだった。そこの支配人をしていて、勤め始めて間もないのに直ぐに支配人になっているというのも妙であるが、そういう世界では、大して不思議ではないらしい。給料は30万円余りになると言う。それ以外の余禄も多く、そのうちドッと貯めて大阪に帰るからと得意げに言って、電話は切れた。

 私は、切れた受話器を戻しながら、溜息をついた。偶然、母が買い物に出かけていて電話を取らなくて良かったと思った。

 長男の和夫は、日本人の嫁と一緒になってからは、滅多に親の家に顔を出さないし、一人娘の私は、母の大嫌いな水商売、スナック勤めをして、アパートでひとり暮らしをしている。

”これも私の八字(ナガパルチャ、さだめ)だ”

 母の諦めとも嘆きともつかぬ口癖が、聞こえてくるかのようだった。

 良夫は横浜で勤めているらしい。仕事の内容は短い電話だったのでよくは聞けなかったわ、と帰って来た母に、私はあいまいに言葉を濁した。

それから二年近く、電話一本なかった 。折に触れ、思い出すことはあっても、妻子ある武三との抜き差しならない恋にもがいていた私は、時たま帰る実家の母の、

”良夫は横浜に居ると言うが、慶子のところに何か連絡は来ないのかい”

 という心配気な言葉にも、親身になって相手をしたことは無かった。


 鍋の吹きこぼれる音で、私は慌てて蓋を取った。スープの素を入れ、卵を一つ割り入れると、それを丼に移した。

「良夫、ラーメンでも食べなさい」

 まだうずくまったままで、背中を上下させている弟に、私は声を掛けた。

「いや、ラーメンは食べたくない。それよりも水を一杯飲みたいんだ」

 良夫は、ようやく顔を挙げ、背を向けたまま、そう答えた。

 コップ一杯の水を一気に飲み干し、もう一杯くれと言う。二杯の水を飲んで、少し落ち着いたようである。

「それはそうと、姉ちゃん、玄関の戸、きちんと戸締りはしてあるかい」

「ええ、心配ないわよ。この辺りも近頃物騒だから、戸締りはしっかり忘れないようにしているの」

「えっ、物騒だって。変な奴がウロウロしているの?」

 弟は急に顔色を変え、ドアの方へ走り寄った。ドアの横の窓をそっと開け、外の様子を窺っている。目を皿のように見開き耳を澄まして、闇の彼方をにらんでいる。

「良夫、何をしているの、大丈夫よ。男のくせに何をそんなに怯えているの」

「怯えているって、何で姉ちゃん、そう思うんだい、何で俺の考えていることが分かるんだい」

 良夫は、窓を用心深く静かに閉めてから、私の傍らにやって来て、いかにも不思議そうに訊いた。

「どうしたの良夫、何でもかんでも、妙にしつこく聞くのね」

「おかしいかい、ああそうかも知れない。皆そう言うよ、山本お前はおかしいって。でも誰でも俺の様な目に会うとおかしくなるさ。毎日毎日尾けられて、どこの土地に逃げても駄目さ。どこまでもしつこく追いかけて来るんだ、あいつらは」

「あいつらって、あんた何か悪いことでもしたの。誰が尾けて来るの?」

 私は、弟の言葉にびっくりして尋ねた。

「それが、どこの誰か分かっていたら、こんなに苦しむことも無い。どこの誰か分からないから不安なんだ、苦しいんだ」

「どこの誰とも分からない連中が、何だって良夫の後を追っかけまわすと言うの」

「それが、どうして追っかけて来るのかも分からないんだ」

 良夫は弱々しく首を振り、苦し気に呻いた。顔面蒼白で、冷や汗が額に浮かんでいた。

 良夫の言っていることの意味は、よく分からないが、苦しそうなのは明らかだった。

「今夜はゆっくり休みなさい。話は明日詳しく聞くわ」

「えっ、ここで寝ていいの」

「何言ってるの、姉の部屋じゃない、当たり前じゃないの。さあさ、お布団を敷くから、ちょっと横に寄ってちょうだい」

 ここで泊まっても良いからと言った途端、弟の表情がほころぶのを見て、私は胸を衝かれた。一体、横浜で何があったというのだろうか。そんな思いを振り払うように、私は押し入れから布団を引っ張り出した。

「男物の寝間着なんて、気の利いたものは無いから、下着のまま寝なさい」

「いや、このまんまで寝るよ」

 良夫は、いかにも疲れたといった様子で、布団の上にドサリと倒れこんだ。私は、その上にタオルケットを掛けてから、電灯を消した。

 台所に行って、鍋のラーメンを捨て、鍋とコップを洗い、顔を洗ってからパジャマに着替えた。

 弟の横に自分の布団を敷き、その上に座って、弟の寝顔を眺めた。豆球に照らし出された弟は、苦し気な顔をして眠っていた。余程疲れていたのだろうか、横になると同時に寝入ったらしい。あえぐような寝息をたてていたかと思うと、それが物凄い、いびきに変わった。安普請のアパートである。隣室に聞こえるかもしれない。私は、チラッと隣室のお喋り好きそうな、一人暮らしの中年女性の顔を思い出してしまった。

 これは、ちょっと横で眠れそうにもなかった。私は、枕の上に頭をのせて、天井をにらんだ。どうも、弟の様子はただ事ではない、店の金でも使いこんだのだろうか、どうやら誰かに追われているらしい、それにしても様子が変だ。

 その時、何の脈絡もなく、弟の小学二年生の時のことが思い出された。


「姉ちゃん、チョーセンってなあに」

 あどけない表情ながら二つの瞳の中には、不安と苦悩の色が濃く漂っていた。

「ぼく、チョーセン?違うよね、チョーセンなんかじゃないよね」

 私は弟に何と返答して良いものやら、一瞬言葉に詰まって立ち尽くした。

「そうだ、母ちゃんに聞いて来よう。ぼく、チョーセンなんかじゃないって」

 私は、弟が走り去って行く後ろ姿をじっと見送っていた。

―ばかな子ね、自分が朝鮮人だってこと、あの子今まで知らなかったのね―

  そう考えながらも、私は憐れみと痛ましさとで、胸がいっぱいになった。

  その時、私は小学五年生だった。

  自分が日本人ではなくて、朝鮮人だと知ったのは、いつの頃からだっただろうか。小学二、三年生の時は、既に自覚していたような気がする。

 毎日昇る太陽を見て、朝、日が昇り、夕方、陽が沈むのを知る。そんな風にいつとはなく、知らず知らず自覚して行ったような気がする。父と母が、家の中では慶子(キョンジャ)と呼ぶのに、一歩外に出ると、急にケイコと呼び変え、時折訪れる親戚知人に話す言葉と、赤の他人に話す言葉が、全く異なることなど、日々の繰り返しの中で、あたかも砂地に水が沁みこむように、私の幼い心の中に異邦人意識が染み込んで行った。

 だから、弟の良夫が、ある日唐突に子供ながら深刻に尋ねて来た時は、一抹のおかしさも感じた。

 学校で同級生に言われでもしたのだろうか、喧嘩でもしてチョーセンとでもなじられたのかも知れない。そんな時、私はそういう子供の背後に大人の意地悪い二つの目を感じてしまう。子供たちは、最初は何も知らない。大人が教えたり、あるいは不用意に洩らし、それを耳ざとく聞き取った子供たちが、オウム返しに喋るのである。

”あそこの子は、朝鮮人だよ”

 そう話してくれても良い。それは真実なのだから。しかし得てして、その話し方には悪意があり陰険で、無邪気な子供達は、朝鮮人であることが、何か劣った良くないことだと信じてしまうのである。


 弟は苦悶の表情で眠っていた。高いびきの合間にウーンウーンと、うめき声も混ざる。

 暗く沈み込む気持ちを払いのけるように、私は足元のタオルケットを胸元まで引き上げて、きつく目を閉じた。


 翌朝目覚めると六時だった。夜の勤めなので、いつもは昼前に目が覚めるのだが、今朝は四時間ほどで目覚めたらしい。

 窓から淡い朝の光が差し込んでいる。傍らの弟を見ると、昨夜とは打って変わって、穏やかな寝顔である。

 私は、まだ眠り足りない身体を起こして、半そでブラウスとスカートに着替えてから、又布団の上に横たわった。六畳一間と小さな台所だけの狭いアパートである。まさか弟の目の前で着替えるわけにもいかないので、眠っている間に着替えておいたのである。

 少し横たわっていようと思っていただけなのに眠り足りなかったせいか、再び眠ってしまったらしい。台所の流しの方で、水を出したりゴトゴトする音で、気が付いた。

「良夫、起きていたの?」

「ああ、今顔を洗っているんだ」

 枕元の置時計を見ると11時だった。結局いつもと変わらない時間になっていた。

「今から、食事作るわね」

「うん、夕べ食べていないせいか、すごくお腹が空いているんだ」

「夕べ食べていないって、いつから食べていないの」

「おととい横浜を出て、その晩西成のドヤで泊まって、昨日の朝は食べなかったなあ。昼過ぎにうどん一杯食べたぐらいかな」

「えっ何ですって、良夫、横浜から帰って来たのは、おとといなの」

「うん、おととい、車で東名高速ぶっ飛ばして来たのさ」

「まあ、車で来たの。それで車、今どこに停めてあるの」

「おととい、西成の路上に停めたまんまだよ」

「路上に停めて来たって、それ誰の車」

「店の車さ」

「そんなことして、お店の方困らないの」

「困るもんか、もう今頃は、車見つけて持って行ってるさ」

「どうして、横浜の人間が、こんな遠い大阪の、しかも場所も分からない所に乗り捨ててある車を見つけられると、言うの」

「姉ちゃん、姉ちゃんは何も知らないんだなあ、あいつらは日本中知らない所は一つだってないんだぜ」

「あいつらって」

「あいつらさ」

 弟は、急に怯えた表情になり座り込んだ。タオルを持っていた右手が、小刻みに震えている。

「あいつらに捕まったら、おしまいさ。こっちの神経をジワジワと痛めつけて、二度と立ち上がれないようにしてしまうんだ」

「良夫、いったいどんな目にあったと言うの、コーヒーでも入れるから、それを飲んで、ゆっくり話してごらん」

「ああ、それより姉ちゃん、今晩仕事に行くの」

「行くつもりだけど、どうして」

「頼む、お願いだ。、休んでそばにいてくれ。身内の者がそばにいると、あいつらはやって来ない、だけど一人になったら、きっと出てくるんだ」

 何を馬鹿な、と言いかけて、私はその言葉を飲み込んだ。弟は真剣である。

「じゃあお休みするわ。その代り、休むという電話は入れないといけないの、その間ぐらい、ひとりで大丈夫よね」

「うん、それぐらいなら。だけど早く帰ってきてね。出かける時も、外から鍵を掛けて、いかにも留守ですといったようにして行ってほしいんだ」

「それなら今すぐ電話をかけて来るわ。お店の開くのは五時だから、マネージャーの自宅のほうへかけてくるからね」

 小銭入れと鍵を持つと、私はゆっくり立ち上がった。何だかテキパキと動くと、弟を刺激して怖がらせるような気がしたからである。ドアもゆっくり開けて、外から鍵を差し込み、音のしないように回した。それから急に小走りになり、近くの食料品店へと急いだ。

 店先の公衆電話を、一瞬ためらったのち、そらで覚えている電話番号を回した。もっとも暗記はしていても、実際にかけたのは初めてである。

「ハイ、もしもし」

「あの失礼ですが、上田さんのお宅でしょうか。私、山本と申しますが、マネージャーはいらっしゃいますか」

「ハイ、ちょっとお待ちください」

 何のこだわりもない女性の声である。私は受話器を握りしめて、次の声を待った。

「あーもしもし」

 固い声である。

「すみません、お家の方へ電話して」

「何か急用」

 周りを意識した抑揚のない声だった。

「今日お店を休ませていただきたいんです」

「あっそう、わかりました。夕方もう一度お店の方へ電話をお願いします」

「かけられるかどうか分かりませんが、なるべくそうします」

「じゃあよろしく」

 一瞬の間を置いて、ガチャンと音がした。昨夜のベッドの中での睦言など片鱗も忍ばせない声だった。私は惨めな気持ちで受話器を置いた。

 気を取り直して、今度は実家の番号を回した。十回ほど呼び出し音が続き、諦めて切ろうかなと思ったとき、ようやく相手が出た。ところが、無言のままである。

「もしもし、もしもし、母さん」

「あ、慶子か」

「どうしたの、なかなか出ないし、出たと思ったら、黙ったままじゃない、何かあったの」

「慶子だと知っていたら、すぐに出たんだけど」

「どうしたの、随分元気のない声ね、身体の具合でも悪いの」

「そうじゃないの、良夫のことで」

「えっ、良夫だったら、今私のところに居るわよ」

「何だって、慶子のところに行っていたのか、良夫は」

「母さん、良夫が大阪に戻っていること、知っているの?」

「知っているも何も、おとといから地獄の思いじゃ。横浜の何とかという店から、一日に何回も電話がかかって来た。良夫の居所を教えろって」

「良夫、いったい何をしでかしたの」

「店の車と金を持ち逃げしたらしい」

「そういえば、車で来たとは言っていたけど、お金まで・・・」

「金は十万円ぐらいらしい。金はどうでもいいから、車は返してくれと言っていた。その車で、もしも事故でも起こされたら、目も当てられんと言っていた」

「それで、良夫は母さんの所へも行ったの?」

「昨日の朝来た。おとといの夜、横浜から電話があって、良夫のこと聞いていたから、横浜の連中が、お前を捜しているらしいと言ったら、血相変えて出て行った。どこに行ったのかと思っていたら、慶子のところに行っていたのか」

 安堵とも腹立ちともつかぬ声だった。

「母さん、今長電話していられないの、又電話するから、もう切るわね」

「そうかい、又必ず電話しておくれ」

 車だけではなくお金までも…。胸の中に鉛の玉でも撃ち込まれたように気が重くなってしまった。

 それでも、パンや牛乳、ジュースなどを買い込み、私はアパートに帰った。

 良夫は、手枕で寝転んでいた。

「良夫、あんた車だけではなく、お金まで持ち逃げして来たのね」

「えっ、姉ちゃん、何でそれを」

「今、母さんのところへ電話して聞いたわ」

「それで、母さんは他にも何か言ってなかった?俺に横浜に戻れとか」

「他には何も言ってなかったけれど、随分困っているみたい。全くあんたって子は二十二にもなってまだ、親を苦しめるんだから」

「それは違うよ、苦しめられているのは俺の方さ」

「何馬鹿なことを言ってるの、母さんがあんたを苦しめるって」

「本当なんだ」

 良夫は力を込めて言った。

「本当なんだ、母さんもグルなんだ。あいつらは、母さんも味方にして俺を操ろうとしているんだ。その証拠に昨日母さんのところに行ったら、もう俺が店を抜け出したことを知っていた。母さんとあいつらはツーカーなんだ」

「バカバカしい。おとといの夜、電話が掛かって来て、母さんはあんたのことを知ったのよ」

「違う、チガウンダ」

「良夫は、右手を強く振った。

「飲みに行ってもパチンコに行っても、あいつらは俺を尾けて来る。そして横浜から逃げ出さないように監視しているんだ」

「何のために?どうしてあんたを尾け回すの。そりゃ良夫が特別お金持ちの坊ちゃんとかだったら、金づるにでもしようかなと思うかも知れないけど、全く理由がないじゃないの」

「何のためか俺にも判らない。でも尾けられていることは確かなんだ。でも、誰に言っても信じてもらえない。大阪の友達に電話して助けに来てくれって頼んでも、皆笑うだけさ。姉ちゃんも知っているだろう、一番仲の良かった里田、あいつも鼻先で笑うだけさ。山本、シャブやりすぎて、ぼけたんじゃないのかって」

「エッ、今なんて言った、シャブって言わなかった」

 良夫は一瞬バツの悪そうな顔をした。

「そうさ、シャブ、クスリさ」

「クスリって、あんた、そんなものやっていたの」

 私は、全身がわなわなと震えるのを感じた。

「いつからやっていたの?」

「いつからって、初めて打ったのは。三年ぐらい前かな」

 私は絶句した。これで、弟の奇妙な言動も飲み込めた。弟は、覚せい剤中毒に陥っていたのである。

 私は、気を落ち着けるために一呼吸してから尋ねた。

「それで、一番最後に打ったのは、いつ?」

「西成のドヤさ」

「じゃあ、おとといの夜じゃないの」

「シャブでも打って、元気つけようと思っていたのに、もう、あいつら、手を回して、ドヤの外から俺を呼ぶんだ。早く出て来いって」

「良夫!」

 私は思わず眼がしらが熱くなった。

「それは誰かが、あんたを呼んだわけでもないのよ。クスリのせいなのに」

 三年も前から、クスリを打っていたと言う。私の両頬を涙が筋を引いて伝わった。


 良夫は、小中学校を通じて、いわゆる落ちこぼれと言われるような生徒だった。中学卒業後も、公立高校は到底望めそうにもなく、私立高校は、家庭の経済事情が許さなかった。中学校の就職指導部の世話で、小さな町工場に就職したが、それも長続きはしなかった。工員、左官見習い、キャバレーのボーイと職を転々とし、親元から通ったり住み込みで勤めたりと、いつも尻の定まらぬ生活を送っていた。

そんな良夫が、不思議とまじめに働いていた一時期があった。それがちょうど三年前だった。

「どうしようもない良夫だけど、二十歳近くになると変わるもんだねえ。やっぱり自分でも一人前の大人になったと思ったんだろう」

 母は、単純に喜んでいた。

 アパートを自分で見つけて来て、二十万円ほどの敷金も、いつの間に貯めていたのか、きちんと納めていたらしかった。

 一度様子を窺いに行ったことがあるが、男の一人暮らしとは思えぬぐらい、小ざっぱりと整頓されていた。窓には二重のカーテンレールが取り付けられ、花柄の厚地のカーテンとやはり花柄のレースのカーテンの二枚がかかっていた。私は、ふとその時、そこに若い娘の匂いを嗅いだように思った。

 案の定、予感は的中していた。しかし、私たちが知ったのは、破局に至る過程であった。

 その当時は、私もまだ親許に居て、喫茶店のウエイトレスをしていた。

 ある夜更け、表のドアを無遠慮に叩く音がした。ただならぬ気配に戸を開けると、四、五人の男たちが立っていた。その中の初老の男性が、血相変えて叫んだ。

「娘を返せ!」

 あの夜のことを思い出すと、いまだに胸が疼く。弟は恋愛をしていたのだ、それも日本人の娘と。

 結局二人はアパートに居るところを発見されて、引き離された。

 相手の若い娘は、その頃弟は運送屋で運転助手をしていたのだが、いつも荷物を降ろしに行く先の事務員をしていたという。同じ年齢の娘だった。

 私と母は、アパートに同行する羽目になってしまった。

「男手ひとつで育てて来たのに、よりによって、こんな国の違うチンピラと・・・」

 父親は、太い腕で目をぬぐいながら泣いていた.

「チキショー。朝鮮人だと思って、バカにして」

 弟の吐き捨てるように呻いた声が、今だに忘れられない。

 しかし、弟の辛そうな様子もつかの間で、一か月とは続かなかった。

「あれは、一時の気まぐれだったみたいだねぇ。良夫は職も続かんが、女も続かんらしい。まあ、元気出してくれて良かった」

 母は、そう言って笑った。

 私もそう思った。実際、次々に違った女と連れ立って歩いていた。

 けれども、私達の知らないところで、弟は深く傷ついていたのかも知れない。覚醒剤を初めて打ったのが、三年前と聞いて、私は溜息をついた。弟の心の奥の深くえぐれた傷跡を見せつけられた思いだった。

 私は涙の滲む目で弟を見つめた。絶えて久しく感じなかった弟に対する想いで、胸が熱くなった。

「食事の支度をしなくてはね」

 立ち上がると、台所に行った。掛けてあるタオルで、目をぬぐうと、それがかえってきっかけとなって、涙が後から後から湧いて来て、私は思わず、その場に突っ伏して泣きじゃくった。

 ひとしきり泣いた後で、私は気を取り直して、米を研いだ。味噌汁の実にするため、ねぎを刻んでいると、優しい気分に満たされて来た。長い間、自分以外のために食事の支度などしたことがなかった。武三とは、ホテルのベッドの上だけでの付き合いだった。付き合いの最初の頃は、食事や映画にも誘ってくれたが、馴れてくると、金と時間を惜しんで、直ぐにホテルに行きたがった。それでも時折拗ねたりすると、いかにも気が重いと言った風で、昨夜は寿司屋へ連れて行ってくれたが、それも極々稀なことである。

 食事の用意を整えて、テーブルに二人差し向かいで座った時の事だった。

 ドアをノックする音がした。良夫の顔色が、サーッと変わった。

「どちら様ですか」

 私は立ち上がって、ドア越しに声をかけた。

「俺だよ」

 武三だった。

 私は素早く表に出ると、後ろ手にドアを閉めた。

「どうしたんだ。えらく慌てているじゃないか。電話なんかかけて来て、びっくりしたぜ。ちょっと上がらせてもらうよ」

「待って、今、人が来ているの」

「人?男か女か」

「弟なの」

「弟?まさか、血のつながらない弟なんかじゃないだろうな」

「バカなこと言わないで。正真正銘の弟よ」

「それだったら、何そんなにびくついているんだ。店のマネージャーだと言えばいい。挨拶ぐらいさせてくれよ」

「それが、今は駄目なの」

「どう駄目だって言うんだ。おかしいぞ」

 武三は私を押しやって、今にもドアを開けかねんばかりだった。

「どうしても駄目、お願い、今日は帰って」

「やっぱりおかしい。お前、他に男でも出来たのと違うか」

「訳は、後で話すわ。夕方店に電話を入れるから、このまま帰ってちょうだい」

「いや、こうなったら、てこでも帰らん。中の弟やらの顔を一度拝ませてもらってからだ」

 武三の顔が、怒気を含んで、赤みを帯びて来た。

「そこどけ、中に入れろ」

 武三が、力を込めて私を押しやり、ドアを開けるのと同時だった。良夫が飛び出して来たのは。

「チキショー、ここまで追っかけて来たんだな。こうなったらてめえが死ぬか、こっちが死ぬか、どっちかだ」

 良夫は、そう叫びながら。武三に飛びかかり馬乗りになった。

「やめて、良夫。その人は店のマネージャーよ。今日休むって電話入れたから、家までやって来たの」

「うるさい。姉貴なんかも信用出来るか。みんなグルなんだ」

 武三は、訳が分からず、ただただ首を絞められる苦しさにもがいていた。

 私の全身を恐怖が、電流のように走った。

「良夫、お願いやめて」

「うるさい、こんな奴ぶっ殺してやる」

 良夫にむしゃぶりつき、両手を離させようとしたが、ものすごい力で到底手に負えない。 

 その内、ただならない物音や声に気づいて、アパートの住人や通行人たちが集まって来た。

 二人の男性が、駆け寄って来て、やっとの思いで良夫を引き離した。

 武三は、まだショックから覚めきれなくて、首を押さえながら、へたり込んでいた。

「どうします、警察に連絡しますか?」

 ひとりの男性が、武三にそう尋ねた。

 武三は、左手で首を押さえながら、右手を力なく振った。

 良夫は、息を切らしながら立っていた。

 なかに割って入っていた男性達は、帰ってよいものかどうか考えあぐねて、遠巻きにして見ていた。

「慶子」

 武三が、力なく呼んだ。

「俺は帰る」

 のろのろと起き上がると、

「お前とも終わりだな」

 私は黙って、武三の顔を無表情に見つめた。

「朝鮮の女は怖いよ、もうこりごりだ。二度と俺の前に顔を出さないでくれ」

 武三は、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。額を押さえると、血が滲んだ。

「給料の事やらなんやらは、誰か店の者を来させるから」

 ヨロヨロと歩き始めると、もう一度つぶやいた。

「朝鮮人は、こりごりだ」

 それを聞いて、不思議に悲しさは感じなかった。心が麻痺してしまったようで、何の感情も湧いて来なかった。

「姉ちゃん」

 弟の声がした。

 私は振り返った。

 弟は、まるで子供に戻った様な、幼い表情で突っ立っていた。

 その時、まるで堰を切ったかのように私の心の中を温かいものが、満たして行った。

「ナムドンセン(弟)」

 不意に私の口から、朝鮮語がこぼれた。

 私が、三つか四つの時の事だった。無心に眠っている良夫を指さしながら、母が私に囁いた。

「ほれ、この子は、慶子の男同生(ナムドンセン)だよ。同じ親から生まれた弟なんだよ」

「ナムドンセン?」

 私は回らぬ舌で、たどたどしく聞き返した。

 ナムドンセン、ナムドンセン、男同生、それからも何度この言葉を聞いたことだろうか。

 私は良夫に近寄って、腕を取った。弟は私に腕を預けたまま、素直に従って歩いた。

 ナムドンセン、ナムドンセン、ウリナムドンセン(私の弟)、まるでおまじないの様に幾度もそう呟きながら、私は弟と腕を組んで歩き続けた。




  




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