6章 愛しい人 その3
「喉が渇いた」
マルクの声はずっと枯れていたし、それは二日近く何も口に入れていないのなら当然だった。
「うむ、水を持ってこよう」
シャルロットが立ち上がろうとするのを、マルクは掴んだままの腕で引き止めた。
「なんじゃ?」
「お前がいい」
シャルロットの頭を引き寄せて、その瑞々しく潤った唇に、マルクは口付けた。驚くシャルロットの口内にマルクの舌が入り込み、奥に縮こまっていたシャルロットの小さな舌を引き出して絡みつく。
「……んンっ」
先程の口付けとは違い、濃厚なその行為にシャルロットは戸惑い、頭の先から足先までを、甘い感覚が貫いた。
「マル……ッ」
何度も角度を変えて深く口付けられ、唇が離れた時には、シャルロットの体の力は抜けていた。
「これはいかん。頭が真っ白じゃ」
シャルロットはマルクの胸の上に頭をのせ、トロンとした瞳をマルクに向けた。マルクがあやすように髪や顎をなでると、シャルロットは気持ちよさそうに目を閉じる。
その姿をマルクは柔らかな眼差しで見つめた。
その時、窓をカツカツと引っかく音がした。
「シャルロット」
「ん?」
「窓を開けてくれ」
「なんじゃ?」
けだるい様子で立ち上がりシャルロットが窓を開けると、バサバサッとルルーが窓辺に現れ、カカッと桟で何度か爪を滑らせながら着地した。
「おお。この鳥は、出発の日にマルクの腕に止まったシロハヤブサじゃな」
「ルルーだ。来い」
マルクがルルーに呼びかけると、ルルーは桟からぴょんとマルクのベッドに飛び移った。
マルクはルルーの脚に結んである手紙を外して読み、ひとつ頷くと「近くにいろよ」と言ってルルーをまた外に飛び立たせた。
「何じゃ? まだ誰かと手紙のやり取りをしておるのか?」
「ああ、ちょっとした文通だ。相手が気になるか?」
マルクが意味深な表情をするので、シャルロットはムッとした。
「女性なのか?」
「いいや、陛下だ」
「ウォルター王?」
「ジョアシャン陛下。お前のお父上だ」
「な、なんじゃと!」
驚いたシャルロットの声は裏返った。対してマルクは、いつもの冷静な表情に戻る。
「陛下に黙って長期間国を離れられるわけがないだろう。十日間の許しを得て出発したんだ。毎日状況をご報告していた」
そもそも守衛に見つからずに、シャルロットがこっそり宮殿を抜け出すことなど不可能だ。ジョアシャンの命令で、兵たちは気づかぬ振りをしていたのだった。
「妾は秘密の旅だとばかり」
「楽しめただろ?」
マルクはニッと口角を上げた。
口には出さないが、マルクは随分と準備や根回しに奔走していたのだ。
「ギルフォードもウォルター陛下にだけは報告をしている。おかしなルートで知られて誤解されるよりはいいからな。ウィリアム殿下のご様子からして、陛下は一人、胸にしまってくださったようだ」
むむむ、とシャルロットは唸る。手の平の上で踊らされていたようで面白くない。
「マルクはやっぱり意地悪じゃ」
「嫌いになったか?」
「……大好きじゃ」
プイッとそっぽを向いてシャルロットが臍を曲げたところで、ドアがノックされる。
「すみません、そろそろ入っても宜しいですか?」
ピエールの遠慮がちな声がドア越しに届いた。
「うむ、入るがよい」
ドアが開くと、黒いローブを纏った初老の男を先頭に、アンヌとピエールが入ってきた。
「マルク様が目覚められたようでしたので、お医者様をお連れしました」
顔色の良くなったマルクを見て「おおお!」と医者は驚きの声を上げた。
「まさか回復されるとは思ってもせなんだ!」
正直な医者だった。
「すこうし検査いたしましょう。ご婦人方は外に出られるがよろしかろう」
「見ていてはだめなのか?」
シャルロットが尋ねる。
「刺激が強かろうてな」
「シャルロット様、出ましょう」
「うむむ、そうじゃなあ」
医者が何をするのか気になったが、シャルロットは大人しく外に出ることにする。
「マルク様、ご生還を信じておりましたわ。後ほど」
アンヌは優雅に挨拶をして、シャルロットを連れて部屋を出る。
「良かったです。僕、怖かったです、マルク様……」
ドアが閉まってから、部屋に残ったピエールの涙交じりの上ずった声が聞こえてきた。
「ピエールさんもずっとここで寝ずに、マルク様の目覚めを待ち続けていたのです」
アンヌはそう言って、シャルロットの両肩に手をのせた。
「なんじゃ?」
アンヌは少し眉を寄せつつ、笑顔を作る。
「とうとうマルク様にお決めになりましたのね」
「う、うえぇっ……?」
シャルロットは慌てた。
「まさか、妾たちの話しが聞こえておったのか?」
「マルク様のお声は聞こえませんでしたけど、シャルロット様のお声は通りますから」
「ああぅ」
言葉にならないくらい全身湯だってしまったシャルロットを、アンヌは強く抱きしめた。
「嘘をついてしまったこと、お許しください。ご自分の本当の気持ちに気づいていただきたかったのです。シャルロット様をお任せするなら、マルク様しかいないと思っておりました。私が殿方に生まれていれば、私の手でシャルロット様を幸せにして差し上げましたものを。口惜しいですわ」
アンヌは心底悔しそうに、細い眉を寄せて唇を歪ませる。
「王女殿下! アンヌ!」
ギルフォードとウィリアムが靴音を響かせてやってきた。
「マルクが目覚めたと聞いたので」
「ええ、シャルロット様の献身的な介抱のおかげですわ」
「妾はなにもしておらん」
シャルロットは首を振る。
「じゃが色々と見つめ直すことが出来た。本当に命があって良かった」
シャルロットはしみじみと、マルクの寝顔を見つめていた時間を思い返した。
「ウィリアム殿下のお命を救ったマルクに、陛下は大変感謝されています。もちろん王女殿下方にも。しかし執務で大変お忙しく、帰国するまでに面会できるか分らないのです。なにせ、以前の王位継承順の一位と二位の殿下、そして枢機卿の中でも権力の高いシーモア猊下を裁くことになるのですから。王女殿下がジョルジュ殿下の金庫から持ち出してくださった書類は、陛下暗殺計画だけでなく、横領や不正の証拠でいっぱいでした。城中パニックですよ」
ギルフォードは重々しい内容とは裏腹に、朗らかに笑いながら語った。
「陛下は後日、国をあげて帝国を訪問するおつもりのようです。それだけの功績ですから」
「ギルフォード卿」
アンヌは包み隠さぬギルフォードの物言いが気になって話を止めた。ギルフォードはアンヌの言わんとすることを察し、頷いた。
「こうなったからには、ウィリアム殿下には王女殿下方の事情をお話ししました」
ウィリアムは控えめに頷いた。
「殿方は部屋に入れますのよ。マルク様に会われます?」
アンヌの言葉に、ウィリアムは首を横に振った。
「僕はシャルロットにお別れを言いに来たんだ。陛下の手伝いで、会う時間がなくなってしまうから」
「ウィリアム、妾……」
「言わないでシャルロット、分ってる」
マルクが倒れた時のシャルロットの嘆きを見ていれば、シャルロットにとってマルクが特別な存在なのだと悟らざるを得なかった。そして命を懸けてシャルロットを守った、マルクの思いも。
「幸せを祈ってるから、僕の女神」
「ウィリアム……」
ウィリアムはシャルロットの手を取り、口付けた。笑顔でシャルロットを見つめて踵を返す。笑顔で別れる事が、ウィリアムのできる精一杯だった。
「陛下がウィリアム殿下を執務の傍に置くのには理由があって」
胸を張って歩くウィリアムの後ろ姿を見ながら、ギルフォードはシャルロットたちに言った。
「先王陛下の遺言で、次の王位をウィリアム殿下に継承して欲しいと託されていたのだそうです。息子は如何ともしがたいので、孫に譲りたいというわけですね。それを承知で、世論の反発も覚悟してウォルター陛下は即位されたのです」
ウィリアムはウォルターに様々なことを教わったと言っていたが、それは王に育てるための帝王学だったのだ。
「遺言を公にすると、ジョルジュ殿下とフランシス殿下が反旗を翻しかねないと、ごく一部にしか知らせていなかったのだそうです。こうなったからには、正式に発表する日も近いでしょう。後継者が決まっているのといないのとでは、やはり国の安定度が違いますから。私もウィリアム殿下も、つい先程、陛下からお聞きした話です」
ギィッと音がして扉が開き、医者が出てきた。
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