6章 愛しい人 その2
「二年ほど、前かのう」
母のユリアが国内で、シャルロットの伴侶候補を集めた頃だ。
シャルロットの結婚相手はマルクだろうと、宮廷の誰もが思っていた、とピエールは言っていた。
マルク本人はその時、どう考えていたのだろうか?
分からないと、シャルロットは首を横に振る。
「妾はマルクの傷を見た時に、その傷を憎んだ。軍人は戦い、負傷して、醜い傷跡を残す。それ自体を許せないと感じた。だが、違ったようじゃ」
シャープなマルクの頬を何度もなでる。
「傷跡を見たくなかった。マルクの命を奪うその傷が怖かったのじゃ。マルクの生死が分からず待ち続けた、あの苦しい時間を思い出すからじゃ」
シャルロットは、何時間も、ひたすらマルクに触れて語りかけた。
「妾はマルクがおれば恐れるものなどなかった。山賊に襲われた時も、四階から飛び降りた時も。きっとマルクがなんとかしてくれると、妾は確信しておった。妾はマルクを失うのが、なにより恐ろしい」
夜になると、窓際のベッドは月明かりに照らされた。
翌朝になるとさすがに心配になったアンヌがドア越しに声をかけたが、シャルロットは「放っておいてくれ」と一言だけ返した。
そして日が高くなった頃、マルクの呼吸と心拍が穏やかになってきた。熱も下がっている。この症状が良い傾向なのか、シャルロットには判断できなかった。発熱の原因に打ち勝ったのかもしれないし、体が限界を迎えて死に向かって歩き出したのかもしれない。
「マルク、マルク。聞こえるか?」
シャルロットは顔を近づけて、マルクに話しかけた。
「どうすればお主の美しい瞳を、再び見ることが出来るのじゃ」
汗に濡れた短い前髪をかき上げ、形のいい額に手を乗せると、シャルロットは指先で髪の生え際をなでた。
「妾にもう一度チャンスをくれんかの」
シャルロットはもう一方の手をマルクの肩にのせる。
「二度と訓練を邪魔するようなことはしないし、もうマルクには逆らわん。妾が出来ることならなんでもしよう。妾にこんなことを言わせるのはマルクだけじゃ。目を覚まさんと後悔するぞ」
シャルロットはマルクの顔を挟むように両肘をつき、顔を近づける。鉄が混じったような、血液特有の匂いが鼻腔を刺激した。シャルロットの長い巻き髪がサラリとベッドに流れる。
「アンヌに言われたことが、妾はやっと分ったんじゃ」
マルクの頬を両手で包んだ。右側半分を覆う包帯の湿り気が手に伝わった。
「好きな者には触れていたいし、そして、口付けたいと」
シャルロットはマルクにそっと口付けた。荒れた薄い唇の感触がした。
「お願いじゃ。目を覚まして……」
傷ついたマルクの身体に触れないよう肘で上体を支えながら、シャルロットはマルクの肩に顔を埋めた。淡々と語りかけていたシャルロットの表情が悲痛に歪む。
その時。
「お前の好きな物語のようだ」
耳元にマルクの、掠れた声が聞こえた。
「姫の口付けで目覚める騎士」
慌ててシャルロットが顔を上げると、マルクがシニカルな笑みを浮かべていた。
「マル、ク?」
「心配をかけたな」
この部屋に来て、全く流していなかった涙が一気に溢れた。
「マルク!」
シャルロットはマルクの手を両手で強く握り、額に当てた。
「もっとこっちに来い、手が届かん」
マルクは上半身を少しだけ起こし、空いている手でシャルロットの頭を掴むと、己の布団越しの胸に押し付けた。
「マルク、怪我が」
「これくらいでは変わらん。さっきからベッドが揺れる度に痛んでいる」
「す、すまん。妾ベッドから離れた方が……」
「だから、もう動くな」
立ち上がろうとしたシャルロットの頭を、マルクは再び胸の上に押し付けた。
「うむむ」
ベッドに腰かけてマルクの胸に頭をのせたシャルロットの髪を、マルクはなでた。
マルクの大きな手の平が動く感触が嬉しくてシャルロットが視線を上げると、穏やかな表情を浮かべるマルクと目が合った。眉間に皺がないままで、シャルロットは少しくすぐったいような、不思議な気持ちでマルクの表情を眺める。眠っていた時よりも、顔色が良くなっているようだった。
「さっきのはなんだ」
「さっきの?」
シャルロットのまだ涙で濡れた碧眼に“?”の色が滲む。マルクがニヤリと口角を上げ、唇に長い人差し指をのせた。
「あっ」
シャルロットはマルクに口付けたことを思い出して、真っ赤になった。
「あれは、だからの。妾はマルクが好きなんじゃ!」
律儀になるべく動かないよう、シャルロットは思い切って告白した。
「それは何度も聞いている」
確かにシャルロットはマルクによく好きだと言っていた。美しい花が好きだと告げるのと同等の軽さだった。
「そ、そうではなくてじゃな。いつも言っていた好きと意味が違うんじゃ。つまり、口付けたいくらい好きなんじゃ!」
恥ずかしさに堪えて必死にシャルロットは訴えているのに、マルクは薄く笑みを浮かべながら首を傾げる。
「なにが違うんだ?」
「だ、だから」
羞恥のあまり言葉が詰まった。なぜ察しないのかと怒りすらわいてくる。
「結婚したいくらい好きなんじゃ! もうマルクと離れたくないんじゃ!」
シャルロットは思わず立ち上がった。言ってしまってから更に顔を赤くして、椅子にヘナヘナと座った。
「意識がないのをいい事に唇を奪うとは、妾はなんて卑しいのじゃ。マルクを愛して、妾はどれだけ自分が醜いのかを知ってしまった。妾は醜い。この身は汚らわしい。……そうじゃ、妾は尼になるぞ。それならマルクたちを祝福できる。妾はマルクが生きて、幸せでいくれたら満足じゃ。目を覚ましたことを神に感謝し続けよう」
「お前は一体、なんの話をしているんだ」
呆れ顔のマルクを見て、シャルロットは頬を膨らませた。
「マルクとアンヌの祝言の話じゃ!」
「なぜ俺がアンヌと結婚せねばならん」
話が噛み合わなかった。
シャルロットはアンヌから言われたことを話した。
「アンヌはこの旅でなにやら画策していたからな。その一環の嘘だろう」
「嘘、なのか……?」
シャルロットは頭を抱えた。夜も眠れぬほど悩んだというのに。
「で? お前は俺を、なんだって?」
何度言わせるんじゃ、とシャルロットは真っ赤な顔でマルクを睨む。
「愛しておる」
マルクは意地の悪い笑みを浮かべた。
「今後、お前は俺に逆らわず、何でもするんだったな?」
「えっ……」
シャルロットは再び固まった。それはマルクが目覚める前に言った言葉のはずだった。
「まさか、起きていたのか?」
「朧げながら」
「ど、どこから聞いていたんじゃ!」
「朝方から、うっすらと」
「なっ……」
とめどなく告白していた言葉を聞かれていたのかと思うと、シャルロットは恥ずかしさのあまり気が遠くなりそうだった。
「ならば妾の気持ちは分っておろうが! マルクはどうなんじゃ!」
シャルロットは開き直った。
「なんにせよ、一生お前を守る契約だ」
「そうではなくてじゃな……、いや、もうよい!」
シャルロットは拗ねた。マルクからも好きだと言って欲しかったのだ。
再びベッドから離れて後ろを向いてしまったシャルロットを見て、マルクは声を殺して笑った。
マルクの心はとっくに、十一歳の頃に出会った金髪の少女に奪われていた。それを色恋沙汰に無頓着なシャルロットのせいで封印し続けるしかなかったのだ。ほんの数日前まで他の男と結婚しようとしていたシャルロットに、その事実を打ち明けるつもりは、マルクにはなかった。
「シャルロット」
呼びかけたマルクは、指で来るように合図した。シャルロットが近づくと、マルクはその腕を掴んで引き寄せた。
「お前こそ、俺のものになる覚悟があるのか?」
「どんな覚悟じゃ? 妾は母上に、夫には従順であれとだけ教わっておる」
マルクは改めて、毒気が抜ける思いがした。
「ものは試しじゃ、何でも申してみよ」
シャルロットはワクワクしてマルクの言葉を待っている。マルクは一瞬考えるような仕草をした。
「喉が渇いた」
マルクの声はずっと枯れていたし、それは二日近く何も口に入れていないのなら当然だった。
「うむ、水を持ってこよう」
シャルロットが立ち上がろうとするのを、マルクは掴んだままの腕で引き止めた。
「なんじゃ?」
「お前がいい」
シャルロットの頭を引き寄せて、その瑞々しく潤った唇にマルクは口付けた。
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