6章 愛しい人 その1
シャルロットが目を覚まして初めに映ったのは、シンプルな天井だった。部屋は太陽の自然光を取り込んで明るい。視線だけ動かすと、視界の端にアンヌを捉えた。
「シャルロット様、目が覚めましたのね」
アンヌがシャルロットの手を握り、もう一方の手でシャルロットの髪を撫でた。
「ここは、どこじゃ?」
「シュルーズメア城の客室ですわ。シャルロット様は、半日眠っておられました」
「……半日?」
最後の記憶は夜だった。ウィリアムと会って、追われることになって、そして。
そしてマルクが大男に斬られたことを、シャルロットは思い出した。
吹き出す鮮血。マルクは倒れて……。
「マルクは? マルクはどうしたのじゃ!」
ガバリと上半身を起こし、シャルロットはアンヌの両肩を掴む。くらりと眩暈がした。
「まだ起き上がってはいけません」
「マルクは無事なんじゃろうな!?」
「……」
アンヌが表情を曇らせて言葉を詰まらせると、シャルロットは顔を歪ませた。
「嘘じゃ! 妾の騎士が命を落とすなどあってはならん。マルクが死んでしまうくらいならウィリアムなど……」
そこまで口走って、シャルロットは手で口を塞ぐ。
“ウィリアムなど”
その先、自分はなんと言おうとしたのか。
“マルクが死んでしまうくらいなら、ウィリアムなど、庇わなければ良かったのに”
そう言おうとしたのだ。
状況からしてマルクが助けていなければ、ウィリアムに毒ナイフが刺さって、命を落としたことだろう。
シャルロットは無意識に、マルクとウィリアムの命を比べてしまったのだ。
「いやじゃ……。妾はなんと、愚かで、醜い」
シャルロットは手で顔を覆って涙を流した。
あんなに好きだといってくれたウィリアム。母を失い、父には生きている事を疎ましく思われ、傍にいて守りたいと思った相手だった。そのウィリアムを、マルクが死ぬくらいならと命の秤にかけた、自分の浅ましさが情けなかった。
そして何より、マルクを失った絶望感にシャルロットは泣いた。
シャルロットはこうなってから、はっきりと確信した。
何よりも失いたくない者はマルクだった。
愛しているのは、マルクなのだと。
「シャルロット様、違います」
アンヌが震えるシャルロットの背中を優しくなでた。
「マルク様は、生きておられます」
「……!」
シャルロットはまだ泣き濡れた顔を上げた。
「本当か!」
「……ええ」
アンヌの煮え切らない態度に、シャルロットは苛立った。
「はっきりせんか!」
「大変、危険な状態なのです。傷の縫合は終わっているのですが、あまりに傷が深く、出血性のショック死に至っていなかったのが不思議だと、お医者様が」
「治るのか?」
「息をしているのが、奇跡のような状況なのだそうです」
シャルロットは蒼白になった。しかし唇を噛み締めて、ベッドから起き上がる。
「マルクのいる部屋に行きたい。着替えを」
「シャルロット様、まだお休みになっていた方が……」
「早くいたせっ」
シャルロットはアンヌを急かして着替えを済ませた。マルクの眠る部屋は隣の客室だった。
ドアを開けると、ベッドサイドにピエールが座り、ギルフォードとウィリアムが立ってマルクを見守っていた。
「シャルロット……」
ウィリアムはそれだけ呟いて、口をつぐむ。目が腫れていて、長く泣いていたことが分った。それはピエールも同じで、一睡もしていないことが腫れに拍車をかけている。
「医者は、帰ったのか?」
「はい」
ピエールは席をシャルロットに譲った。
ベッドに横たわるマルクを見て、シャルロットの目に一番に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった顔の右半分を覆う包帯だった。
マルクの顔は青ざめて、唇は乾いてカサカサになっている。胸まで布団がかかっているので身体は見えないが、露出した肩に巻かれた白い包帯にも、まだ乾ききっていない血が滲んでいた。
「これは?」
シャルロットが視線で尋ねたものは、麻の布と水の入った銀の器だった。
「発熱しているので熱を抑えるのと、汗をお拭きするのとに使っています」
ピエールが答えると、シャルロットは頷いた。
「妾が代わろう。マルクと二人きりにして欲しい」
「そんな、シャルロット様……」
「頼む」
シャルロットはマルクを見たまま告げた。
アンヌたちは目配せをして、部屋を出て行こうとしたが、ピエールだけは動かなかった。
「シャルロット様、僕も、お傍にいてはいけませんか?」
医者には絶望的だと言われている。ピエールは主人の死に目に立ち会いたくて食い下がった。
「妾が呼ぶまで、誰も入れるでないぞ」
シャルロットはそう言って黙った。
「ピエール、行くぞ」
ギルフォードに促されて、ピエールは名残惜しげに部屋を出た。
ウィリアムも、マルクを静かに見つめるシャルロットをドアの前で振り返り、そして最後にドアを閉めた。
部屋は静かだった。外から鳥のさえずりが聞こえる。
「妾が、この国に来たいなどと言わなければ」
そっとシャルロットは上掛けをめくる。体全体に包帯が巻かれ、血がこびりついている。手を当てると、体は熱く、包帯が汗で湿っていた。
シャルロットは布団を掛けなおした後、濡れた布を絞り、額の汗を拭った。
「すまぬの」
シャルロットは立ち上がり、ベッドサイドに腰掛けた。上からマルクを眺め、髪に触れ、そのままゆっくりと額に、頬に、顎に、首筋に、肩にと手を滑らせる。形を、そして感触を手に覚えさせるかのように、何度も何度も往復させて、汗が浮かべば拭うことを繰り返した。
「穏やかな顔をしておるの。妾といる時は、ずっとここに皺が寄っておるのに」
シャルロットは眉間に指を置いた。
そういえば、ここに皺が刻まれ始めたのはいつの頃からだろうとシャルロットは考えた。以前はそんな表情ではなかったのに、いつの間にか眉間の皺は顔のパーツの一つのように常にそこにあった。マルクの厳つい表情も美しかったので、シャルロットはまったく気に留めていなかった。
「二年ほど、前かのう」
母のユリアが国内で、シャルロットの伴侶候補を集めた頃だ。
シャルロットの結婚相手はマルクだろうと、宮廷の誰もが思っていた、とピエールは言っていた。
マルク本人はその時、どう考えていたのだろうか?
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