5章 黒幕 その2
ギイッと部屋の扉が開く音がした。
「……っ!」
風もなく静まり返っていただけに、二人は驚いて、思わず身を屈めた。
コツ、コツ……。
カツカツカツ……。
そしてバタンとドアの閉まる音。足音は二種類あった。
「呼び出さないでいただきたいと、再三申し上げたはずです。私たちは会うべきではありません。リスクが高い」
その低い男の声に、シャルロットは聞き覚えがあった。
最近だったはずだと、記憶の糸を手繰る。
「……っ!」
思い出した。
シーモア枢機卿だ。
「もう待てん。すぐにウォルターを殺すんだ」
衝撃的な発言が飛び出し、シャルロットは思わず口元を押さえた。
そのくもった、ねっとりとした喋り方にもシャルロットは聞き覚えがあり、そっとと視線を隣に向けた。ウィリアムは蒼白になっていた。
「監禁が先です。その間に王の命令として税を大幅に引き上げ、偽造した先王陛下の暗殺の証拠と国有財産の横領目録を公表して、陛下の罪としなければ。大罪で処刑し門前に姿を晒した時、干からびていては辻褄が合わなくなります」
「あれを陛下と呼ぶな!」
ヒステリックに男は叫んだ。
「失礼しました、ジョルジュ“陛下”」
シャルロットは天を仰いだ。ウィリアムのために、間違いであって欲しかった。
ウィリアムは蒼白な顔のまま、目を強く閉じ、唇を噛み締めていた。シャルロットは繋がったままだったウィリアムの手に、更に自分の手を乗せた。
「分っているならなぜやらんのだ。いい加減、蒔いた噂が芽を出すどころか、腐り始めておるぞ」
語気が荒い。ジョルジュは相当なストレスを溜めていた。
「あれで警戒心の強いお方でな、枢密院の私さえ根回しに手間取りました。やっとあの方の寵臣三名ほど買収できましたので、その者たちと狩りに出られるその日こそ」
滑舌の悪いジョルジュに比べ、シーモアは落ち着いたテノールの声で歯切れがいい。
「ウォルターを捕獲するのだな。なんと待ち遠しい。横から余の席を奪うとは、盗人猛々しいにも程がある」
「お気持ち、お察しいたします」
「ウィリアムもあの庶民に尻尾を振りおって。余を出し抜いて、王位を奪う腹積りかもしれん。後々余の邪魔になるようなら、消して構わんからな」
「あちらはいつでも片付きますので」
ウィリアムは俯いて肩を震わせていた。長い髪で表情は隠れていたが、シャルロットの手に温かい雫がいくつも滴っている。その姿はあまりにも痛々しく、シャルロットはウィリアムを抱きしめ、その耳を塞いだ。それくらいでは声を遮断できないと分かってはいても、聞かせたくなかった。
「決行が近いと分れば、胸のつかえが取れるわ。もっと早く報告せぬか」
「失礼いたしました」
「弟めも玉座を狙って暗躍しておるようだ。ぬかるなよ」
「ええ勿論。大法官でもある私が付いているのですから、神も貴族院も貴方の味方。陛下の欲するものは目前です」
「よし、よし! ははははははっ!」
ジョルジュの耳障りな高笑いが長く続いた。シャルロットは一刻も早く二人が去るのを祈っていた。
「いや、疑って悪かった。余の周囲には裏切り者が多いのでな。では行こうか」
「お先にどうぞ。共にいるところを目撃される危険は、避けるのが賢明です。契約文書があるかぎり、私が裏切ることなどありませんので、ご安心を」
「頼りにしておるぞ」
足音がひとつ遠ざかり、ドアが開いて、そして閉まる音がした。ジョルジュが部屋を出て行ったのだ。
シャルロットたちは息を潜めて動かずにいた。ウィリアムの肩の揺れがどんどん大きくなっている。嗚咽を堪えているウィリアムの頭を、背中を、シャルロットはただ擦ることしか出来なかった。
「もう国王気取りか。扱いやすい兄弟よ」
コツ、コツと足音が遠ざかる。
カチリ。
「っ!」
それは姿勢を変えたシャルロットの髪留めが壁を擦った、ごく小さな音だった。
「……誰かいるのか?」
コツ、コツ……。
シーモアはその音を敏感に聞き取り、引き返してくる。
「……」
シャルロットたちは身をかがめたまま、耳を澄まして足音がどこに移動しているのかを判断しようとした。
「ここか!」
バタン! と窓が開いたのは、四つある窓の左端だった。シャルロットたちは一番右端のポーチにいた。
屈んでいるのでシーモアからこちらは見えないが、シャルロットたちには窓から突き出ているスピアが見えた。
シーモアは話を聞いた者の口を封じるつもりだ。
シャルロットは胸の中のウィリアムを見た。まだ涙に濡れた瞳に強い光を取り戻し、ひとつ頷くと、音を立てないようにウィリアムは中腰になった。
部屋の中の足音はまたコツ、コツとゆっくり移動して、ひとつ右の窓が音を立てて開いた。
更に右、まさに隣の窓がバタンと開き、ヒュンと音を立ててレイピアが空を斬る音が届く。鋭い剣は月明かりを反射して、濡れたように光った。
もうひとつ右に移動されるとシャルロットたちのいるポーチだ。逃げ場はなかった。
シャルロットの鼓動が緊張で早くなり、呼吸も浅く短くなる。ここは二階、降りようと思えば地上に降りられるかもしれない。
「……」
シャルロットとウィリアムは手を繋いだ。目配せで、次の行動を確認しあう。
コツ、コツ……。
足音が大きくなった。まさにシャルロットたちのいる窓の内側にシーモアはいる。
バタン! ヒュッと音がして、スピアが窓から飛び出した。
「……フン、風のしわざか」
シーモアは窓から身を乗り出して辺りを見回し、窓を閉めた。コツコツとした足音が遠ざかり、部屋のドアが閉まる音が続いた。
「……はっ、は……」
シャルロットは飛び出しそうな心臓を押さえて、止めていた息をやっと再開した。シーモアが窓と窓の間を移動する間、二人は既に調べ済みだったひとつ隣のポーチに飛び移ったのだ。距離はそう離れてはいなかったが、手すりの上に乗ってのジャンプだったので、気づかれないかは一か八かだった。
「行ったのう……」
シャルロットは安心して、中腰だった姿勢を崩した。
「そうだね」
ウィリアムも脚を投げ出すように座って、空を見上げた。みるみるその表情は苦痛に歪む。父親と枢機卿の会話を思い出したのだ。
「好かれていると思っていなかったし、僕だって父への恨み言を口に出さないようにするので精一杯なくらいだったけど。でもまさか、死を望まれているなんて」
また新たに涙を溢れさせるウィリアムをどうしていいのか分らず、シャルロットは戸惑った。
「妾は、どうすればよいのじゃろう」
「ああ、ごめんね」
ウィリアムは袖で涙を拭う。シャルロットはその腕を止めて、ハンカチでそっと涙を受け止めた。
「謝る必要はない。悪くもないことで謝ってはならん」
「うん、そうだね」
ウィリアムは壁に背を付けたまま、まだ眉間に力の入った状態で無理に笑顔を作る。
「シャルロット、寒いんだ。温めて」
両手を広げるウィリアムにシャルロットが近づくと、その身体は優しく引き寄せられて包まれた。
「シャルロットがいてくれてよかった。一人だったら、ここで命を絶っていたかもしれない」
「バカを言うのではないっ」
本気で怒るシャルロットに、ウィリアムは微かに笑う。
「……冗談だよ」
「言って良いものと悪いものがあるぞ」
シャルロットは胸を撫で下ろし、ぎこちなくウィリアムの背中に両腕を回した。馴染んだ男性の背中といえばマルクだけなので、それと比べると半分程しか厚みがない。とても繊細で、守らねばならない存在に思えた。
「もう少し、このままでいい?」
「うむ」
ウィリアムの手が背中に首筋にゆっくりと這い、くすぐったいような気もしたが、シャルロットはしたいようにさせておいた。
「陛下にお伝えしないとね」
「まさか、黒幕が枢機卿とはの」
「やはりいたか」
「なっ……!」
シャルロット達が振り返ると、白いローブに緋色マントを巻き、緋色のベレッタ帽を被った初老の男が、窓ごしにシャルロットたちを見下ろしていた。
暗い部屋の中で、長く白い髭を蓄えた男の血走った目だけが、爛々としている。
それは、狂気の目だった。
「生かしてはおけん」
バンと窓が開いたのと同時に、スピアが振り上げられた。
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