3章 シュルーズメア王国 その5

「王女殿下!」


 どこかからか、シャルロットを呼ぶ声が聞こえた。この国でシャルロットをそう呼ぶのは、一人しかいない。


「ギルフォード!」


 回廊のガラスのない窓の下、親衛隊の制服を身に着けたギルフォードがシャルロットを見上げていた。ギルフォードは助走をつけ、壁を蹴りあげて二階の手すりを握ると、ひらりと窓から飛び込んできた。その身軽さに、シャルロットは状況を忘れて目を奪われる。


「あれの親衛隊か。今、王女と……?」


「いえ、殿下の名をお呼びしたのです、ジョルジュ殿下」


 しれっと無茶な言い訳をしてギルフォードは平伏してから、そっとシャルロットを引き寄せた。


「この娘は私の遠縁にあたります。慣れない城仕えで、ご無礼をお許しください」


「詫びるのなら、その女を渡すがよい」


「こんな下賤な娘を相手にしては、殿下の格が下がります。それに私がおかしな登り方をしたせいで人が集まってきたようです。事を荒立てずともよいでしょう」


 元々人が少なくなかった緑の庭で、何人かが立ち止まり、二階の回廊を見上げていた。


「……もうよい、興が醒めたわ」


 ジョルジュは踵を返し、側近たちと共に去って行った。


「助かった、感謝する」


「王女殿下っ」


 ホッとしたシャルロットは腰が抜け、その場にへたり込んでしまった。


「立てますか?」


「しばし待たれよ。妾は、あれほど美しくない者に触れたのは久しぶりじゃ」


 美しい者に囲まれて育ったシャルロットは、醜い者にとことん弱かった。


 それにしても、とシャルロットは思う。ジョルジュの「美しい」という物言いは、シャルロットが美しい者を見るたびに言っている言葉と同じだった。褒め言葉のつもりだったが、これからは誰彼かまわず言うのはやめようと、シャルロットは反省した。


「震えていますね。顔色も悪い。横になりますか?」


「このままでよい」


 頭が重く感じて、片膝をついているギルフォードの胸に頭を預ける。すると「失礼」と声をかけられ、そのままギルフォードに抱きこまれた。


「なんじゃ?」


「温めた方が、回復が早いかと。こうしていても、よろしいですか?」


「う、うむ」


 確かに、温かい胸に包まれると震えが止まった。鍛えられた身体は、マルクのそれとそっくりだった。


 だけど、なにか足りない、とシャルロットは思った。


 何が足りないのかと考える。


 マルクの声なのか、匂いなのか、眼差しなのか……。


「なぜ妾は……」


 マルクと比較ばかりしているのだろう?


「マルクに頼まれていたのですよ、女王殿下を見守るようにと」


 まさに思い浮かべていた人の名を告げられて、シャルロットはドキリとした。


「何をしでかすか分からない、と。読みは当たっていましたね」


 その口調には、揶揄が含まれていた。


「マルクのやつ、一言余計じゃ」


 頬が熱くなるのをシャルロットは感じた。傍にいなくてもマルクに守られている気がして心が温まる。

「可愛らしいお方だ。お相手の候補に名乗り出たいところですが、軍人は対象外だそうですね」


 本心なのか冗談か。優しい碧眼を見上げてシャルロットはわずかに眉を下げた。自分でも分からなくなっていたからだ。


「先ほどの者は、父王にも見放されたうつけ兄弟の兄の方じゃな。ギルフォードの立場が悪くなったりはせんか?」


 ギルフォードは苦笑する。


「昨日、派閥があると申し上げたように、ジョルジュ殿下派、フランシス殿下派、そしてウォルター陛下派があるのです。もちろん私は陛下派ですから、そもそも関係は最悪です」


「そうじゃ、大事なことを忘れておった」


 ジョルジュが「もうすぐこの国は余のものになる」と発言していたこと。それから枢機卿が、ウォルター王の不正の書類などを持っていることを伝えた。


「ありがとうございます。ジョルジュ殿下は黒ですね、裏取りを急ぎます。それにしても、猊下に提出された書類というのが解せません。陛下が不正をするなど、あり得ませんから。ですが、猊下が受け取るほどしっかりとした書類を捏造するなど、簡単には出来ないはず」


 シャルロットが見かけたのは、特徴からしてランド大司教アーチボルト・シーモア枢機卿に違いないとギルフォードは言う。


「猊下は陛下派ですし、間違った判断をされないでしょうが……」


 ギルフォードの表情が陰った。


 王室と権力を二分する教会のナンバー二がシーモアだ。ギルフォードでも迂闊には手を出せない領域だった。


「もうよい、治ったようじゃ。礼を言うぞ」


 シャルロットはギルフォードの手を借りて立ち上がった。


「明日、国王主催の舞踏会があるじゃろ? 妾が参加することは可能かの?」


「ええ、可能ですが。突然どうされました?」


「誘われたのじゃ。王に会うチャンスでもあるしのう」


「物理的には可能ですが、あの者がなんと言うか」


「あの者?」


 ※ ※ ※


「ダメだ、参加は認められない」


 マルクは腕を組んで首を振った。


「なぜじゃ!」


 本来シャルロットたちは王城に泊まるはずだったが、城での務めを終えるとギルフォードの屋敷に戻ってきた。明日の舞踏会についてマルクたちと話し合うために、シャルロットにあてがわれていた部屋に五人集まった。


「お忍びで来ているのにもかかわらず、公の場で大勢を欺くのか。シャルロット、少しは考えろ」


「そうなんじゃが。妾、善処すると約束したゆえ」


 シャルロットは抵抗を試みる。


「誰と約束を?」


 ギルフォードが訊ねた。


「名はウィリアムと名乗っておったぞ。銀髪で、妾と同じくらいの年齢じゃ」


「ウィリアム……?」


 ギルフォードわずかに瞠目し、マルクにウインクする。


「マルク、私も王女殿下が舞踏会に参加するのは賛成だ」


「?」


 ギルフォードの視線を受けたマルクは、不気味そうに眉を顰めた。


「お城で貴族様に舞踏会に誘われたんですね? それってシャルロット様がおっしゃっていた、ラブストーリーそのものじゃないですか!」


 ピエールは手を叩いてはしゃぐ。


「おお、言われてみればそうじゃ!」


 城の下女として国王と会い恋をする、身分違いの恋。自分で言っていたことをシャルロットは思い出した。国王ではないが、美しい男性に身分をいとわず誘われたことには違いなかった。


「どうにかなりませんか? マルク様」


「ならん」


 ピエールがシャルロットの味方についたが、マルクは首を縦には振らない。


「夜会で陛下にどのような噂が上っているのか。それに派閥の動きも直接確かめられる、絶好のチャンスでもありますわよ」


 アンヌも当然のごとく、シャルロットに加勢した。


「そうだな。ご婦人でないと聞けない話もあるだろう」


 ギルフォードはそう援護しつつ、相変わらずマルクにウインクを送っていた。


「さっきからなんだ、気色が悪い」


「察しの悪い男だ」


「おい、なんなんだ」


 ギルフォードはマルクを連れて部屋を出て行った。


「お相手は、好みのタイプなんですか?」


 ピエールがシャルロットに尋ねる。


「美しい姿をしておるぞ。肩くらいのサラサラした銀髪で、アッシュブルーの瞳は大きく、鼻筋もスッとしておる。身長は、ピエールよりちょっと低いの」


 隣にいるピエールを軽く見上げ、額辺りに「このくらいじゃ」と指を置く。


「好きになれそうですか?」


 重ねて尋ねるピエールに、シャルロットは首をかしげた。


「それは、まだ分からぬが」


 一緒にダンスを踊るのは楽しかったし、好意を向けられて嬉しく思った。しかしそれが恋に繋がるのか、シャルロットには分からなかった。


 ピエールはマルクが出て行った扉を見ながら、声のトーンを落とした。


「実は僕、二年前に姫様が大々的に国内で結婚相手を探されると聞いた時、マルク様を選ばれると思ったんです」


「え……?」


 驚いたシャルロットは、ピエールのダークグリーンの瞳をまじまじと見た。


「僕だけではありません。宮廷の誰もがそう思っていたと思います。てっきりシャルロット様は、マルク様がお好きだろうと」


「好きじゃ。妾だけの、騎士じゃから……」


 しかし結婚相手とは別だと分けて考えていた。


 いつから、なぜ、区別していたのだろう?


「いくら姫様専属だと言っても、ご結婚されたら、マルク様と一緒にはいられませんよ?」


「なぜじゃ!?」


 ピエールの言葉に、シャルロットは心底驚いた。他国に嫁いだとしても、マルクとアンヌは付き添うものだと思っていた。


 アンヌも頷いて続ける。


「マルク様はシャルロット様の騎士である前に、帝国の近衛隊ですのよ。それに嫁ぎ先に近しい殿方を連れて行くなんて非常識です。ですからこの旅は、マルク様との最後のご旅行なんです」


「最後……」


 シャルロットは混乱してきた。


 そんな話をしていると、騎士二人が戻って来た。


「舞踏会に参加しましょう。明日は準備もありますから、使用人稼業はお休みです。それでは私たちはこれで」


 マルクはシャルロットになにか言いかけたが、結局、何も言わずに部屋を出て行った。


「マルク様をどうやって説得されたのでしょう。それにしても、面白くなってきましたわね、シャルロット様」


 男性三人を見送って、アンヌは猫のように上がり気味の瞳を輝かせた。


「うむ……」


 シャルロットは喜ぶ余裕がなくなっていた。


 その夜、シャルロットは寝つけなかった。


 なぜ軍人を夫の対象外としたのか考えるうちに、マルクが戦地から戻ってきた、激しい雨の夜を思い出していた。

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