3章 シュルーズメア王国 その1

 窓から差し込む日の光で、シャルロットは目が覚めた。


「んむむ。妾は、床に落ちたのか」


 背中に当たる固い感触。視界には、薄汚れた木目の天井が広がっている。


「そうか、ここは……」


 シャルロットは宿屋に泊まっていたことを思い出した。普段のふかふかのベッドとあまりにも違うので、床と勘違いしたのだ。


「おはようございます、お身体はいかがですか?」


「ん? 身体は……あっ」


 体を横に倒しただけで、全身に脱力感と痛みを感じた。筋肉痛だった。


「お揉み致しましょうか?」


「それはもうよいっ!」


 シャルロットは慌てて拒否した。


 すっかり身支度を整え終わっているアンヌにサポートされながら起き上がり、着替えをして髪を整えた。


「皆様は下にいらっしゃいます。お呼びしましょうか?」


 食事をするには階段を下りてホールに行かねばならないので、抱えて運んでもらおうとアンヌは提案したのだが、シャルロットは首を横に振った。夜に聞いたアンヌの話を思い出し、気恥ずかしく思ったのだ。シャルロットの心情を読んで、アンヌはこっそりほくそ笑んだ。


 シャルロットはアンヌに支えられながら、のろのろと軋む階段を下りる。生まれたての小鹿のようにフラフラだった。


 夜は酒場になる一階の食事処にいたマルクとギルフォードは、そんなシャルロットを見つけて駆け寄ってくる。


「何かあったのか?」


 マルクに肩を掴まれた途端、シャルロットは頬を紅潮させて硬直した。普段と違うシャルロットの反応に、マルクは違和感を覚えた。


「案ずるでない、ただの筋肉痛じゃ」


「馬車は手配済みです。表でピエールが荷を積んでいますよ。さあ王女殿下、夕べ出来なかった打ち合わせを、朝食をとりながら致しましょう」


 声をかけるのと同時に、ギルフォードはシャルロットをヒョイと横抱きに抱えた。


「なっ、何をする! 妾はひとりで歩けるっ」


 更に真っ赤になって足をばたつかせると、全身に痛みが走って、シャルロットは脱力した。


「うう、痛い……」


 それ以上に恥ずかしいと、シャルロットは思った。


 ギルフォードに抱えられ、厚い胸板や、逞しい腕の筋肉を服越しに感じている。「シャルロット様が殿方に触れている時、その殿方も、シャルロット様のお身体を堪能されている」というアンヌの言葉を思い出すと、逃げ出したい気持ちになった。


 昨日までのシャルロットなら、「おお、高いのう」とはしゃぐところだ。しかしアンヌの言動で、シャルロットは初めて、異性というものを意識し始めていた。


「つらいのでしたら、部屋に戻って横になりますか? 食事を運ばせますが」


 ギルフォードの優しい瞳に至近距離から覗き込まれて、シャルロットは限界まで赤くなった。これだけ近いと、ギルフォードがつけている香水が鼻腔をくすぐる。思い返せばマルクからも、いつも仄かに柑橘系の香りがしていた。それはつまり、シャルロットの匂いも相手に届いていたということだ。


 そんなことを思うと、シャルロットは硬直したまま借りてきた猫のように大人しくなり、ただ首を横に振るのだった。


「ギルフォード卿、そろそろ解放してくださいませ。シャルロット様が湯だってしまいますわ」


 そう言いながらアンヌも、シャルロットの珍しい表情を覗き込んで、赤く染まった滑らかな頬を撫でていた。まるで愛玩動物だ。


「失礼。大立ち回りをされかけた人物とは、イメージが重ならなくて」


「金輪際、スカートを切るようなことはないと思いますわ」


「うむむ……」


 逃げ場のないシャルロットはギルフォードの肩口に顔を押しつけて、小さくなるしかない。


「いい加減に運んでやれ」


 マルクは低い声と共に、ギルフォードからシャルロットを取り上げた。


「このまま帰るか? 俺は歓迎だが」


「まだ始まってもおらぬではないか」


 憎まれ口を叩くマルクを、シャルロットはまだ火照った顔で睨み上げた。慣れ親しんだ居場所に安堵と気恥ずかしさを感じる。いつものように抱きつきたい衝動に駆られたが、そうも出来ずに、もどかしくなった。


 椅子に降ろされてマルクの温もりが去ると、一抹の淋しさが残る。


「寝心地はいかがでした?」


 ギルフォードはシャルロットの斜向かいに着席し、揶揄するような視線を向けた。


「想定の範囲内じゃ」


 シャルロットは見栄を張った。


「知り合いの侍従長に頼んで、希望通り城に住み込みで働けることになりましたよ。ただし、末端の使用人ですが」


 テーブルに料理が運ばれてきた。パンと豚汁スープ、ニラネギと茹でた鶏、アーティチョークのグリルだった。


「お前が下働きなどできるものか」


 マルクの言葉にムッとするシャルロット。


「やってみなければ分からぬ」


「私も心配です。側近かもう少し王族に近い役回りでないと、粗野な仕事になるだけではなく、王族に会うことも出来ませんわ」


 アンヌに頷くギルフォード。


「しかし、その辺りは身元のしっかりした者でないと難しい。その代わりと言ってはなんですが、いつでも辞められるようになっていますよ」


「どんなに長くても最大十日。今日より数えて、十日後には帰るからな」


 マルクは長い指をシャルロットに向けた。


「そんなに早く?」


「帝国が大騒ぎになってもいいのなら残るといい。俺はそれより先に音を上げると思うが」


 シャルロットはマルクの言葉にムムッと唸った。いつも以上に、口調が辛辣な気がする。


「皆さん、準備が終わりました。馬車はいつでも出せますよ~」


 そこにピエールがほんわかとした笑顔で現れ、重くなりつつあった空気が変わった。


 ピエールはマルクの隣に腰掛けながら改めて四人の顔を見回し、ほうっと息をはきながら、水の入った銀のカップを持った。


 シュルーズメアの兵士御用達のこの店には庶民は少なく、下級貴族以上の客がほとんどだった。その中にいて、特にシャルロットとアンヌは質素な服を纏っているにも関わらず、四人は一際輝いていた。生まれが違うと醸し出す空気まで違うのかと、ピエールは感心してしまう。

 改めてピエールは、通常ではありえない輪の中にいるのだと実感した。


 ピエールは当然、雲の上の存在である皇族と会話が出来る身分ではない。アンヌも貴族というだけで遠い存在だが、シャルロットの侍女といえば、シャルロットと同等の権限がある人物だともいえる。ギルフォードもマルクも伯爵で、本来はピエールに対して扱いが悪くて当然だった。それが、まるで階級など存在しないかのように接してくれるから、ピエールは時々、己の出自を忘れそうになった。


 他の屋敷に勤めている使用人仲間は人間扱いをされず、ただの消耗品として使われると言っていた。話を聞くたびにピエールは、自分の境遇がいかに幸せかを噛みしめるのであった。


「さあ、食事を済ませて私の屋敷に向かいましょう。歓迎会の準備を進めています。住み込み仕事は明日から。今日はゆっくり休まれるといい」


「やったー!」


 ギルフォードの言葉に、素直にピエールは喜んだ。


「昨夜、なにかあったのか?」


 そうマルクが尋ねると、初めて食べる他国の食事に集中し始めていたシャルロットは、頬を赤らめて小さく首を横に振った。


 マルクは、昨日と今日でシャルロットの様子が違いすぎるのが気になっていた。なにより、ギルフォードへの反応が気に食わず、ささくれ立つ胸を静めるように水を飲みほした。


「今度はシャルロットになにを吹き込んだんだ」


 確信を持ってマルクが鋭い眼光を走らせるも、


「申し上げましたでしょ。成長していただきましたのよ」


 と、アンヌはにっこりと微笑んだ。

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