ドルミ

天池

ドルミ

 二枚のパンケーキから一日を始めてみる。話題の短い映画を観て、気になっていた美術館の特別展を訪れて、五差路の真ん中にあるビルの二階のカフェに入り、窓際のカウンター席に座った壮太は音も感情もないため息のようなものを吐いた。僅かに運転を続けている体内の、それがボロボロの出荷トラックだった。

 夜はこの街で友人と久しぶりにご飯を食べる予定があるから、大体六時間くらいの暇があった。暇があったのだ。読みかけの本を何冊か持って来たのだけれど、温かいカフェラテを飲み終えるとすぐにたまらない眠気が襲って来て全ては不可能のシャッターの向こう側へと運び込まれていった。映画だって、随分と格闘したのだけれど、結局途中で寝てしまったので結末が分からなくて、シアターを出るなりネタバレサイトを検索することになった。そもそも体調が悪かった。体調が悪かったのだ。

 窓の上にはビニール製の庇があって、明るいのに日陰で気持ちが良い。壮太は両手を前に伸ばして伸びをし、目を瞑った。

 意識を失うことはなかった。まだこの席に座ってから三十分も経っていないが、寝ている仕草は不当に居座っているような雰囲気を強く醸し出すと知っているのでやがて恥ずかしくなって姿勢を正した。シナモン風味のクッキーを一口齧った。小説に手を伸ばそうとしたけれど、やはり駄目だった。可能な全てを放棄して、不当にどこかを占拠する他に、六時間の暇を埋める手立てはないように思われた。ビニール越しの陽はビニール越しだからこそ優しかった。覗き込むとみんな、忙しなく方々へ歩いて行った。まるで散在するそれぞれの可能なことに引っ張られるようにして……。壮太はぼんやりと次に出向く場所を思案していた。明るさに満ちた空間に身を置いていると、見た目の上ではいたって自然なモニュメントになり切ることが出来る。しかしそれだけだった。隣の屋敷の屋根上に現れて、真上を通過してやがて通りの向かいの屋敷を超えて消えていく太陽をじっと全身で眺めているのはひどく体力を消耗する行為だった。けれどこの街のことはよく知らない、知っているのは、庭の土がどれくらい眩しく日光を反射するのかということと、あとは軽快なボサノヴァの泡を混ぜるようなパターンだけだった。明るさが机を、顔を、時間を支配していた。まさにその理由によって、ここで窓の向こうを眺めていたって景色は一切何も変わらない。仕方がないのでクッキーの残りを殆ど一気に食べ切って、壮太はカフェを出た。「流れるプール」を歩く人のような気分で階段を降りた。

 流れというのは文明の発展の秘訣だ。人の流れが止まらないのは、街や、組織や、心理までもがそのように作られているからなのだ。時間を無為に過ごすことなど今は怖くないが(その日彼は既に生産的な行動を十分し終えていた)、間断なく自分の一部までもが前へ前へと流されていくので、篭る巣を拵えることも出来なかった。せめてゆっくり歩いて抵抗した。気温としてはもう日中でもかなり寒く、ただ随分眩しい日だった。前を行く人と同じようにコートのポケットに手を突っ込んで歩いた。鍋の底に沈められたまま忘れられてすっかり茹ってしまった硬い卵のような孤独を感じた。即ち永遠だった。世界はしばしば永遠の安売りをする。もうどこにも行く必要はない、或いは、どこかに何かが待ち受けている幻想などすっかり論駁された、そう言って神話を固めて作った鍋蓋を閉めようとする。でもぜんぶ詐術だった。閉じ込められた空間でなんて生きていけない、その度にそう気づくのだ。

 駅前の銀色の大型商業施設に入ってみると、一階は寿司屋やうどん屋しかなかったが、二階ではオーダーメイド枕の為の頭の形状測定を行っていたり、眼鏡屋の前には簡単な視力検査のボードがあって小さな子が床のラインから身を乗り出すように奮闘していたりした。少し離れたソファーに腰掛け、鍋蓋を閉じるように目を閉じた。背もたれが有難かった。

 ――高校の頃の昼休みを思い出した。そのぼんやりとした映像の中に、オーダーメイド枕の宣伝文句が闖入して来る――「安らかな眠りは自分の寝姿を眺めるところから」。今度は本当に意識を失った。


 ……相変わらず家族連れは楽しそうで、絨毯の色は穏やかな紫だった。――

                 点


 深層循環というものがあってね、酸素を南の深い海底の方へ、つまり古い水に浸されているところまで運んでいくんだ。その過程で段々温度が上がっていって、密度もだんだん小さくなっていく。それで南極までいくと、もっと重い水が更に下に入り込んで来る。だからここでは水の流れは終わらない。そのまま太平洋へ向かうんだね、もう一回、温度と密度を溶けさせながら。

 そう言って峰本は氷の隙間に挿し込まれたストローで残り少ないアイスコーヒーの水分を愛おしそうに啜った。大西洋の北部で沈み込んだ冷たくて密度の大きな水が、大きなリボン模様を描いて世界を巡回し、永い時間の果てに再び浮かび上がって還って来る。いわゆる海洋のコンベア・ベルトの図は見たことがあった。

 太平洋側の北米大陸西部では、海から吹いて来た風は山脈に当たって雨を降らす。だから同緯度であっても、太平洋北部は大西洋の北部に比べて「濃度」がほんの少し薄いんだ。深層循環の出発点が太平洋でなく大西洋なのはそういう理由。大西洋の方が、水が重いからね。

 海洋生物の研究機関で深海の調査をしている峰本は、ある論文で賞を受け、今日はそのささやかなお祝いだった。けれども得意になったりすることは全くなく、むしろ概論的な、素人にも興味深い話を惜しみなくしてくれた。彼は素早い動きでスマホを手に取り、英語で画像検索をして大西洋の断面図を見せた。

 これは海水中の、北大西洋からやって来た水の割合を示している。

 黒くて大きく尖ったりへこんだりしているのは海底だ。へえ、これはまるで……

 北大西洋由来の水が薄まっていくにつれて、海水の色は濃紺から薄い暖色へと変化していくように表されている。割合はかなり減っているけれど、ちゃんと南極まで達しているだろう? なあ、街に夜がやって来るみたいだって思わないかい?

 思わず息を呑む。次に彼は、横向きの画面をスワイプして同じような断面図を見せてくれた。少し地形が異なり、今度は海全体が薄い暖色に包まれている。

 これも一緒。さっきの水がここまで旅をして来ているんだよ。僕達もおなじみの太平洋。あんな喩えをしたからちょっと明るいように錯覚してしまうけれど実際には大部分は真っ暗。でもそんな世界もリズムの中に存在していて、この色の違いがその証拠だ。途方もないくらい長いリズムの一つの局面という訳だね。


 店を出るとビルの上の空はすっかり暗く、歩道では人の流れが折り重なるように混ざっては弾けていた。街路樹の青い光が丁寧に並び、方々へ伸びていた。五差路を渡って駅へ向かった。冷たい風が吹いていた。

 今日、家を出たときの空の色と何も変わらなかった。何か変えたくて家を出たのだった。準備を整えてコートを羽織り、まずファストフード店に行ってパンケーキを注文して、「一日を始めた」のだ。全てが上手くいくような、全能感を含む解放感を舌先に味わった。まだ外は暗かった、何の色でもないけれど何もかもがほんの少し溶け出すような夜明け前の世界だった、出来ることは大いにあった。鼻と目は繋がっていて、開いた空気を前にして顔の奥が膨張と収縮を繰り返す。胎動、永遠のよう、人気のない空間が好きだ。

 長い一日の果てに、またこの暗さに帰って来た。冬場は都市の暗闇も長い。駅の入口では酔った会社員風の人達が円形を成して何か楽しそうなことを言い合っていた。忘年会というやつだろう。壮太達は身体を斜めにしてその脇をすり抜け、構内に入った。束の間の明るさに、不意に寂しさを覚える。

「君も立派になったね。こんなに若いのに、ここまでになるとは」

「いや、少し色んな経験が良い方に働いただけだよ。それにまだまだ、明らかにしなきゃいけないことは山ほどある」

 例えば鍋底に小さな光を当てて、細かな傷を辿ってみたら――違う、その喩えはおかしいな。世界は鍋底なんかじゃないってこと、それを峰本は知っているのだ。けれどあまりのスケールに、壮太はうまくピントを合わせることが出来なかった。

「さっき、光が届くのは深度一キロくらいまでだって言ったでしょ。それも青色の光だけで、ちゃんと多くの太陽光が透過するのはほんの数メートルだって」

「うん。マイナス二百メートルのあたりまで来ると窓の外は全然見えないよ。そこから先が深海だ」

「だけどその深海の底までは、断面図を見せてもらったように何千キロもある。当り前だけれど、海の大半は暗闇で、光を取り込める層というのは表面付近に膜のように存在しているだけだ。思うんだけどね、君は海の底のことを熟知していながら、そこからぐっと揚力を得て、光の当たるところまで浮上することが出来るんだよ。そんな芸当が出来るのは人間くらいだね、きっと」

「とんでもないネクトンだね。確かに人間くらいだ。もっとも、僕はそんなに深いところまではまだ行ったことないけれど」

「人間に独特の力は、社会に限りなく近いと思う。僕はリズムも社会も今はよく分からないんだ。青色が辛うじて届くようなところを彷徨っているよ」

「そこから、どんな景色が見える?」

 私鉄の改札前までゆっくりと歩いて来て、柱のところでくるっと向き合う。

「さあ……。よく分からない生き物の影みたいなものがたまに」

 答えてみたは良いものの、実際には深く沈み込んだ自分の比喩にうまく引っかけられるだけの長さを持った鍵縄を欠いていて、遂に自分の言葉も自分自身に対して要領を得ないものになってしまっていた。

「それって、本当はすごく綺麗な景色なんだよ。僕の一番好きな海中の景色は深海に達する少し前に名残を惜しむように表層の方を見上げたときのそれなんだ。それ以上先に行くと生物の観察が全てになってしまうからね」

 トンネルの奥からやって来る汽車のような、なんだか遠い光を見たような気分だった。


 サンドイッチが有名な喫茶店に行ったのでカツサンドを食べたのだが、昼ご飯をカフェラテとクッキーで済ましていたし、時間も早かったので、帰宅してからお風呂に入ってテレビを眺め、十二時を回る頃には程良い空腹感があった。

 空腹感こそ、眠りに潔く飛び込む秘訣である気がした。きっとそれが、現在と明日とを繋ぐ鍵になっているから。空腹感と共に眠ろう、静かに。そう思ってベッドに入り、画面をナイトモードにしたスマホをいじりながら眠気が来るのを待った。二日分の疲労が良い具合に結晶している筈だった。

 暖色の灯りの中で目を覚ますと、四時になっていた。昨日早朝からの外出を思い立ったのと同じ時刻だ。……お腹が空いた。冷蔵庫の中には卵三個の他に何もなかった。一昨日ゆで卵を作ることを思い立ったからだ。

 大学に入って三年目の冬休みだった。二年続けたバイトを辞め、同じ学部の友人達と会うのも控えて、部屋を根城とする、砂漠の盗賊のように小さな――山肌の水流みたいに静かで、アーモンドのように閉じた立てこもり的生活を始めた。眠りの問題とたたかう為だった。

 もう一度目を閉じよう。不思議なことに、眠気は全くない。ともかく電気を消そう、となって、滅。でも段々気持ちが悪くなって来て、スピーカーで音楽を流すことにした。試みに、高校時代に吹奏楽部で演奏した「カリンカ」を再生してみる。当時の音源はアルバムにしてあるので、しばらくは何もしなくてもそれ等が再生されることになる。瞼の下で感覚がそれぞれに休みながら聴き入っている。これは殆ど眠りだな、と思って、別解の存在に心から安堵した。

 誰もいない場所で落ち着くと、次第に感覚の領域が広がって来る。とは言ってもこの部屋は閉じた空間だから、空や夜と接続したりすることは少し難しいのだけれど――ぎりぎり、ドアを抜けて――それは冷たさを見たみたいだった。

 ――アパートの外階段、この階段は実は宇宙。階段の形に成型された、角張った宇宙。ある程度安定した心を持っていないと、足を踏み出した途端にそのまま宇宙の奥の奥底へ落ちていってしまう。――でもその途中できっと気付くだろう。これで良かったんじゃないかって。そもそも宇宙の中で落ちるという状況が成立する筈もない。これはきっと、僕の描いた世界。――どこまでも星はあって、どこまでも降りていく、出かけようとしてたとこなんかよりずっと遠くまで、僕だけの知る直線として。

 最後の曲が終わったので音楽を止めた。一緒に舫い綱を解いたのだが、船が漂い出す気配はない。安心感だけが心細げに咲いていた。

 空腹を意識すると、食品サンプルみたいに様々のお皿が生まれては靄の中へと消えていった。パスタ、パエリア、青じそのサラダ、チーズケーキ、トマトスープ、じゃがいものポタージュ、ピザ、窯焼きの――ここはイタリア、いつまでも寝てられる。ピザの香りと木陰。唇を人差し指でなぞってみて……。

 飛行場の並ぶ強い光のイメージだった。いま、いま……

 そのとき、壮太はカーテンから漏れる朝の光に気が付いた。忌々しい、そう思ってしまった。時間的な枠組みに押し出されて居場所をなくす、深層循環に似ている。それでも、朝を好きでいたいから、

                 点


 卵を三つ食べて、若干の気持ち悪さをなだめながら地下鉄で街に向かった。本と服を買う為だ。雲一つない空から降り注ぐ純粋な太陽光にげんなりしながら、歩く。新しい本や新しい服は自分に何か付加してくれる気がするからつい求めてしまうのだが、新しい食べ物に対してそんな気持ちになることはあんまりないな、とふと思う。むしろ、懐かしい食べ物を久しぶりに食べたり、その味を思い出したりしたときの方が得るものが多いような気がする。

 百貨店に入って、財布の残金を確かめて暖かい服を買った後、上階のレストラン街をゆっくり見て回った。懐かしい食べ物ってなんだろう。難しい問いだった。デミグラスソースのオムライスは美味しそうだったけれど、身体のどこかが拒絶したからやめにしておいた。エスニック――一人で入るのは少々気が引ける。カフェ風のお店――二日連続は嫌だ。中華、蕎麦――匂いが強いのは気分じゃない。フランス料理――食べたい。けど高い。そんなことをしている間に人が増えて来た。チーズリゾット、これにしよう。――眠気の詰まった味がした。

 本屋で単行本と文庫本を一冊ずつ買って、今日もすべきことは全て終了した。あくびをしながらゲームセンターに足を踏み入れたところでスマホが振動した。画面を確認すると、高校時代の友人から着信だった。

 ――久しぶり。悪いんだけどさ、明日早朝からバイトでそっちの方に行かなくちゃいけなくて、今晩お前の家泊めてもらえない?

 ――別に良いけど。何時に来る? いつでも良いよ

 ――夕飯一緒に食べようよ

 ――ちょっと待って、静かなとこ行く。――OK、じゃあ七時くらい?

 ――そんな感じで。てか今どこにいるの?

 ――977町で暇してるよ

 ――じゃあ今からすぐ準備してそこ行くよ、どうせ暇だし

 ――ありがとう、それが一番良いや

 ――じゃ、一時間半くらいで着けると思うから駅で待ち合わせしよう

 日々は変奏する。急な転換に身体を投げ打ってしまうというのも悪くない振る舞いだ。より正確に言えば、判断に迷う余地もなかったのだが――感覚も眼なのだ。バレリーナが日々の練習で培った弦のように繊細で軽やかな踊りの感覚は、舞台上ですっと開き、周りの演者と床と背景と観客とをたった一つの動きの瞬間に完璧に捉える。その感覚だけが大切だった。つまり、自分がこれまでに蓄積して来たものの総体が、リボン状に流れ出すその感覚――。


 改札の前で待っていると、懐かしい顔が現れた。一年半ぶりくらいだろうか。

「悪いね、急に。起きられるかどうしても不安でさ。久しぶりに顔見たかったし」

 緑色のジャンパーに灰色のバケットハット姿の石島はウロコインコの色彩に少し似ていた。山小屋の窓辺に野鳥が訪れたようで、思わず口元が綻んだ。

「さて、ちょっとボウリングでも行かない? 体を動かしたい」

「良いね、すぐに行こう」

 石島とは吹奏楽部の同期で、先輩がいなくなる二年の後半からは一緒に部を引っ張った仲だった。定期演奏会で発表する曲目にロシアの愛唱歌である「カリンカ」を加えたのは彼だ。

「昨日、なんとなく「カリンカ」を聴いていたんだけど、やっぱりあれは良いね」

「そうだろう。否応なく突き進んでいくメロディーに、色々なものを抱え込んだ魂が鼓舞されるというか」

「うん。孤独な肉体の安寧と、それでも何かに突き動かされて今まさにどこかに向かっていこうとする精神の高揚を感じる。そしてその緊張状態は、豊かに演奏を続けながら何かに帰結することを待っている。あの緊張感は忘れ難いね」

 階段を上って大きな出口から地上に出ると、石島のジャンパーの光沢がキラキラと眩しかった。つい先程まで時間を潰していたゲームセンターの上にボウリング場はあった。大勢の人に交じって、その歩調に合わせるように大通りを横断する。向こう側は日陰だった。

 エレベーターが四階に着いてドアが開くとすぐに受付カウンターがあって、左手には十数本のレーンが並んでいた。そこまで大きな建物ではないからもしかしたら随分待たされるかもしれないという懸念もあったが、レーンは丁度一組分空いていて、待つ必要もなさそうだった。

 鈍い落下音と乾いた風の音、跳ね返るピンの騒ぎ、そして競うように各レーンで流れる幾パターンかのカジノ風のアニメ映像が空間を支配していて、一歩ずつ入り込む度に仮面舞踏会的な心地良さを覚えた。着席早々インセンティブを決め、ゲーム性を高める。五ゲームは案外すぐに終わって、結果は三対二でメロンソーダは言い出した石島の奢り。「その代わり」、夜ご飯を何にするかの選択権は彼に与えられた。

「ロシア料理」

「この辺で食べられるの?」

「それが、食べられるんだな。さっき調べた」

 石島はLサイズの紙コップのメロンソーダを置いて、にやりとした。

 帽子を被っていそいそと先を行く後姿はやはり鳥みたいだ。暗くなって来た森の道案内を頼むとしよう。

「結構歩く?」

「いや、十分ちょっとだと思う。そんなに遠くない」

「いやあ、ワクワクするね」

 風は段々と強くなって来て、石島は隘路に入った。

「この道みたいだ」

 二人横並びになると、両側に手を伸ばすのもぎりぎりというくらいの細さだった。977町にこんな場所があるなんて知らなかった。左右にはスナックや小料理屋が並び、店内のBGMや会話があちこちからやたらと漏れている。奥の方まで続く一本道のようだった。少し行くと、右手に茶色い看板の釣り下がっている店が見えた。石島の教えてくれた店名が記されていた。

「ここだ!」

 左手で指差すと、右側にいる石島も満足そうに頷いた。

「じゃあ入ろう。店の中が全く見えないからってびびっていても仕方ない」

 ドアの質感は古く、周りのスナックと似ていた。鉄の取っ手は綺麗に磨かれていて洗練された感じだ。石島は言葉の通りさっさとそれを開けて店内に入ってしまった。すると暖かい空気とボルシチの旅人を覗き込む大鴉のような香りが一気に流れ出し、壮太も全身を掴まれて引きずり込まれてしまった。

「いらっしゃい。二名様?」

「はい」

 こちらへどうぞ、とエプロン姿の男性ににこやかに案内され、入り口近くの席に腰を下ろした。内装は民家風で、テーブルが六つ、カウンター席が三つ。ごく小さな音量でロシア語の音楽が流れていた。奥の席には恐らくロシア人の三人組が座って黙々と餃子のようなものを食べていた。席は半分くらい埋まっている。厨房に目をやると、同じくエプロン姿の女性が蒸気で真っ白になっているフライパンの蓋をタオル越しに抑えていた。多分ロシア人だ。

 辛口のジンジャーエールとボルシチ、それから奥の人達と同じ餃子のようなもの(ペリメニというらしい)をそれぞれ注文した。値段は案外安くて、一人二千円弱だった。

 コバルトブルーのテーブルクロスに緑色のペットボトルとグラス、深紅の湖と大皿にてんこ盛りの可愛らしい惑星達が運ばれて来た。山奥には隠遁者しか知らない秘密の美徳がそこここに隠されている。それをおしゃべり者のインコがこっそりと教えてくれたのだ。

 隔絶された本当の美徳は、独り占め出来るが故に悪徳と錯覚してしまうことすらあるのだと知る。きっと不安の生じる構造も似たような側面を持っているのだろう。結局は自ら潜るしかないのだ。


 暗闇を反射する水路を通って街へ帰る。相変わらず左右から漏れる音は大きくて、通りには誰もいない。

「実に美味しかったね」

 惑星の最後の一個をじゃんけんの勝負によって取られたときの悔しさをまだ舌の上に残しながら顔を撫でる風にこぼす。石島は前を向いたまま笑みで応じた。

 駅周辺に戻ると、人の数はむしろ増えていた。電車の中では眠ってしまった。石島は起こすのが早い。ドアが開いてからで良いのに……。

 地下をうねる赤色の濁流となって、眠りかけたり起こされたりしながら二度の乗り換えの末最寄り駅まで辿り着いた。蒸気で押し上げる仕組みのエレベーターでがくがくと揺れながら地上へ。ミシンが通った後の黒いビロードを歩いて少し坂を登れば、宇宙製アパートに到着だ。

 気を付けて階段を上る。暖房を付けたまま出て来てしまったみたいで、ドアを開けると柔軟剤の香りが暖気となって浮遊していた。ワーリカよぐっすり眠れと念じて靴を脱ぐ。来客用の布団を準備してから急いで部屋干しの洗濯物を片付けた。今すぐにこの暖かいバスタオルにくるまって眠り込んでしまいたいという衝動に何とか耐えて、寝る為の場所が完璧に整った。


 十二時半。時間をしっかりと確認して、

     ……万物は物自体となって半身沈み……

    潜水調査船がいま海面に下ろされ、

                 滅


 そのとき壮太は夜空を見たのだった。沈黙する凪いだ水面から垂直に潜水するか、或いは冷え切った飛行場から後ろに重力を受けて飛び立つか、部屋は広がり、家具やクッションや本や石島の肉体は放射状に分散し――こうして大切な問題は身体としての自己に発見され、抱きかかえられ――一緒に溶け出して――この部屋って電気を消すとこんなに暗かったっけ。瞼を閉じてより一層主張を強める暗闇、その暗闇の中で、発見が問題をビロードで包んだと思ったら、すぐにまたそれは開かれて、中には何もない。深度百メートル、或いは高度二万フィート、東京の眠る都市の光か、発光生物のそれか、顔の奥まで暗闇はどっぷりと侵入して来て、もっと大きな発見がこの先に待っているのは必至だった、と言っても判断の余地などなく、

だから僕は上を向いて星を眺めたのだった。

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ドルミ 天池 @say_ware_michael

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