第7節 最後の2つの扉
それは、ひどく苦しい記憶だった。
ぼんやりと映る天井と明かり。
視界の端には管のついた点滴薬。
近くに、背の高い誰かがいるようだった。
「おや、気づいたかい?」
これは以前、リト自身が経験した過去の映像みたいなものだ。だから痛みは感じない。
それなのに、なぜか胸が詰まるように苦しかった。
「……あ」
リトはうまく声を出せていなかった。聞きづらいほどに小さい声だ。
なのに、そばで佇むそのひとは、気を悪くした様子もなく頭を撫でてくれる。
「無理に話そうとしなくていいよ。声を出せる状態じゃないからね」
穏やかで優しい声だった。
声質からして男性なんだろうが、まだ視界がぼんやりとしているせいで姿までははっきりと見えない。
「……おれ、しんだ?」
かすれた声で、記憶の中の自分が尋ねる。
これは一体、いつの記憶なのだろう。
声変わりのしていない、まるで子どものような声だ。
「君は死んでなどいないよ。大丈夫、今は点滴しかできないけど、じきに物が食べられるようになるさ。何も心配はいらないからね」
点滴。今は物が食べられないということか。
どうやら、今の自分は何らかの治療を受けている状態らしい。
「可哀想に、こんなに痩せ細ってしまって。何日も放っておくなんて、まったくあいつは酷いことをするものだ。駆けつけるのが遅くなってすまなかったね」
大きなてのひらが、再び自分の頭を撫でる。
はっきりしない視界の中、穏やかな声が続く。
「リトアーユ、もう君にこんな思いをさせないと約束する。私の名はセリオ、サイヴァ国王陛下から君のことを頼まれた者だ」
与えられる温もりが心地良かったのか、記憶の中の自分は目を閉じたようだった。
闇の
「これからは私が必ず君を守ろう。だから
後に続くのは子守唄などではなく、聞き覚えのある
衝撃がリトの身体に走り、闇の中で手を伸ばす。
彼が何をしようとしているのか瞬時に悟ったが、止める手立てなどあるはずがない。
これは過去起きたことで、変えようもない事実なのだ。
てのひらは虚しく空をつかみ、気がつくと初めにいた場所へ戻されていた。
* * *
「あれは、あれは……っ」
心臓が早鐘を打つ。
衝撃的な事実に動揺してしまい、リトは片膝をついた。
『あの魔法は記憶を吹き払うものだ』
隣に佇むクレストルが穏やかにそう言った。
かれの言葉に頷く。
「ああ、【
記憶操作の魔法は二種類ほど存在する。
ひとつはリトがかけられたという光に属する魔法【
そしてもうひとつは風に属する魔法、【
ただし、この【
飛ばされた記憶を取り戻すためには、散らばった記憶を拾い集めなければならないという。
つまり、今リトが受けている儀式では取り戻すことはできないのだ。
「セリオというやつは、どうしてそんな魔法を俺に……」
リトはエルディスだけでなく、もう一人にも記憶操作をされていたのだ。
衝撃すぎる真実は、リトの心の中に重石としてのしかかる。
穏やかな声で彼は頭を撫でてくれた。そこに悪意なんて感じられなかった。
それに、どうして子どもの頃の自分は、点滴されるほどまで身体が弱っていたのだろう。
『案ずることはない。すべての記憶が開かれれば理解できるはずだ』
悲壮な顔になっていたんだろうか。
優しげな藍の瞳を和ませて、クレストルはリトに告げる。
『今の
前を出て進む精霊獣に、リトは立ち上がってついて行く。
そうしてかれが立ち止まったのは、緋色の扉だった。
「これが、今の俺に必要な記憶なのか……?」
戸惑った問いかけに、クレストルは頷く。
固唾を飲み、リトはドアノブに触れた。
何を待ち受けているか分からないけれど、この記憶を見ればセリオがなぜ自分の記憶を飛ばしたのか分かるかもしれない。
勢いをつけて開け、思い切って足を踏み入れた。
* * *
今度は室内に出た。
ベッドと暖炉と、調度品。そしてテーブルと椅子が見える。
どこかの部屋みたいだった。
「はあ、はあ、はあ……」
今回の記憶も、リトは子どもの声だった、
走ってきたのか息を切らせているようだ。
よろよろとしつつ、部屋の中を歩く。
立ち止まったかと思えば、深呼吸の声が小さく聞こえた。
意識して息を整えようとしているようだった。
「毎度ながら、私を見た途端に逃げるのはやめにしないかい? リトアーユ」
「……!」
記憶にシンクロしたのか、びくりと肩が震えた。
おそるおそる振り返ると、エルディスだった。
今より若かったけれど、柔和な笑みはちっとも変わっていない。
何も答えず、記憶の中の自分は再び走る。
背の高いエルディスの横を通り抜け、急いで扉に向かう。
手にノブが触れる寸前、覚えのある
「……あっ」
それは、闇に属する魔法【
魔法は無事に発動して、自分の足は動けなくなったのだろう。
ゆっくり振り返ると、エルディスは悠然としたえみで自分を見下ろし、ゆっくりと近づいてくる。
立っていられなくなったのか、ついに座り込んでしまったようだ。
「なに、した?」
「悪い子には教えないよ。たまにはお父さんと一緒に話でもしようじゃないか」
自分は何も言わなかった。視線を落として黙り込んだまま。
またエルディスも、無言のままだ。
話をしたいと言ったのは、そっちだろうに。
いつまで沈黙が続いたのだろうか。
不意に、自分の視線がエルディスへと向く。
彼は顔に笑みを貼り付けたまま、リトを見下ろしている。
「……おとうさん。ともだちいないの、なんで」
その疑問は、本人にとっては唐突だったのだろう。橙色の目が丸くなる。
しかしすぐに表情を戻し、エルディスは答えてくれた。
「誰かを信じて頼るだなんて、愚かなことだよ。友人なんてものは生きていく上で必要ないさ」
「そんなこと、ない」
「おまえはまだ子どもだから解らないだろうけどね、周りは敵だらけさ。平気な顔をして裏切る奴らであふれているんだよ」
口元は笑っているのに、いつだってエルディスの目は笑っていない。
彼の語る言葉が、とても悲しかった。
「おれのことも、しんじてない?」
「おまえも私の息子だから、じきに私のようになるよ。孤独でいることが、いかに楽しくて幸せなのか、とね」
話を逸らされたように感じた。結局、エルディスは直接質問には答えていない。
子どもの頃の自分はエルディスをじっと見ている。
視線をそのままに、過去の自分は父に告げる。
「おれは、おとうさんみたいにはならない」
ふ、と息を吐き出す声が聞こえる。
「相変わらず、おまえは反抗的だね」
「おれは、やっぱりともだちつくりたい。ううん、つくる。ひとりになんかならない」
「ふぅん」
リトを見るエルディスはどこか愉しげだった。
くすりと笑い、すうっと橙色の瞳を細める。
「ならば、やってみるといい。我がウィントン家にいるうちは無理だと思うけどね」
「ぜったいできる」
言い出した手前、意地になっているのかリトは頑固だった。
舌っ足らずな口調だからまだ幼いと思うのだが、昔の自分はこんなふうに父と接していたのか、と思う。
「そこまで言うのなら、私自ら機会を与えてあげようじゃないか」
目の前で、エルディスはにっこりと微笑んだ。
満面な笑みなのに背筋が凍り、思わず戦慄する。
「今からおまえを、この屋敷の中でたった独りにしてあげよう。使用人も全員暇を出して無人にする。私もいなくなった方がせいせいするだろう?」
ひやりと心臓が冷えた。彼は何を言っているのだ。
「ひとり……?」
「そうだよ。そうすれば、おまえはたった独りきりで屋敷にとどまることになる。面倒だから爵位もあげよう。絶対に信頼できる友を得られると言うのなら、一人でいくらでも足掻いてみるといい。……餓死しなければね」
「……っ」
愉しげに笑うエルディス。
自分が何を言っているのか解っているのか。
寒くて身体が震える。
きっと過去の自分も彼の言葉に青ざめているに違いない。
「さようなら、リトアーユ。気が向いたら、迎えに来てあげてもいいよ」
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