第5節 三重の制約とカルスタ砂漠
こんなことなら緩和剤なんかじゃなく、ちゃんとした薬を処方してあげれば良かった。
ひと通り身辺整理を終えたラディアスは、愛用のバッグを閉めてからそんな後悔と共に深いため息を吐き出した。
ここ最近ではリトの体調は安定していたし、そもそも日常生活の中で頻繁に発作は起きない。だから油断していたのだ。
ずっと一緒にいられるとは思っていなかったものの、こんな差し迫った事態に陥ることなど考えてもいなかった。
彼と父親との関係が良いものではないと目の当たりにした時、その場しのぎで調合したことが今になって悔やまれる。
短時間で、しかもあり合わせの材料で作らざるを得なかったため、手持ちの幻薬と自分の魔力を補助材料で使ったのだ。
せめてあの後に、入手しやすい一般的な材料と製法で近い効果のものを作っておけば、自分がいなくなった後でも誰かが作ってあげられたかもしれないのに。
後悔はいつだって、追い詰められてからだ。
今さら過ぎてしまったことをぐるぐる考えてもしょうがない。
ラディアスは気持ちを切り替えようと立ち上がり、窓から外を眺める。
国を出てから色々な国を行き巡った。
怖い思いや痛い思いをしたこともあるし、感情的になって人を傷つけたこともある。
死にたいとか死んでもいいと投げやりになっていた時期もあったけれど、今はそれも想い出として眺められるになった。
色々な人と出会った。
嫌われることが多かったけれど、ラディアス自身がどうしても好きになれなかった相手は、それほど多くはない。
……あの凶悪最低な守護者だけは、どうしても好きにはなれなかったけど。
リトの父親——エルディスについては、正直よく解らない。
嫌いと言うより、怖くて憎まれている実感がただ悲しかった。
もちろん解り合えるとは思っていなかったが、こんなサイアクの関係になることを望んじゃいなかったのに。
彼はどこまで、追いつけたのだろうか。
いつ戻ってくるか解らない状況がじわじわと迫ってくる水のようで、いつか息が止まってしまいそうだった。
死にたくない、けど。
このわずかな猶予の間にも手を尽くしてはみたが、とうとう【
自分の命を彼に握られている、というこの現状は覆せないまま。
だから、覚悟は決まっている。
怖くて怖くて、今にも心が壊れてしまいそうだけれども。
外界から自分を隔離する扉が開くのは、いつでも突然だ。
部屋へ入ってきたエルディスは、怖いほどに満面の笑顔だった。
そういう時は決まって良からぬことが待ち受けている、とこれまでの短い付き合いの中でラディアスは気付きつつある。
いつものように手足が硬直し、全身が震え始める。
膝がガクガクと崩れそうで、上手く立てる気がしなかった。
きっとエルディスから見れば、ベッドに座ったまま青ざめて見上げる自分は、きっと面白いほどに悲痛な顔をしているに違いない。
「立ちなさい」
「……はい」
優しい〝命令〟が、ラディアスの手足を支配する。
やっとの思いで立ち上がった途端、エルディスの手が伸びてきて、思わず目を瞑った。
「君には今から一緒に来てもらいたい場所がある」
腕を掴まれ、耳元にささやかれる。
穏やかさの裏に潜む冷酷さを垣間見た気がして、戦慄した。
目を固く閉じたまま、否定の意味で頭を横に振る。
「嫌です」
心と言葉でどれだけ拒否したって、身体は一切抵抗できない。
それは痛いくらいに解っているのだけれど。
「私に逆らえないんだから、さっさと来なさい」
「ヤダ」
縋り付いてでも、なんなら土下座してでも、命乞いをしたかった。
けれど、言葉だけの抵抗は相手の心に届くことはなく、【
次の瞬間、ひんやりした部屋の空気が一変した。
肌に突き刺さるような熱さが襲ってきて、ラディアスは目を開けてエルディスを見上げる。
視力を灼かれそうなほどに鮮やかで乾ききった、アズライトの快晴。
あたり一面を白に近い砂色が多い尽くし、陽光を弾いてちかちかと輝いていた。
肌を撫でる熱風と、砂礫が混じった土の匂い。
「ここ、どこですか」
恐怖で声が震え、思わず両手でエルディスの衣服を掴んだ。
靴越しでも感じる極度の熱。明らかに精霊力の偏りを感じる。
すぐにでも逃げ出したいのに、今はそれも叶わない。
「カルスタ砂漠だよ」
穏やかな笑顔と、愉しげな声だった。
縋り付く自分を満足そうに見て、エルディスは手を伸ばしてラディアスの頬に触れる。
接触によって発動する魔法をかけようとしていると、嫌でも解ってしまった。
「俺をどうする気ですか」
泣き出したいけど、やっぱり泣けない。当然、笑う気にもなれない。
自分が今どんな顔をしているのかが、解らない。
「君はもう気づき始めているんじゃないのかい?」
「わかんないです」
予測を巡らせることすら恐ろしくて、何も考えたくなかった。
エルディスの橙色の両目が、嘲るようにゆっくり細められる。
いつもの笑顔はそのままに、ただ語られる声が低さを増す。
「実を言うと、私は少々機嫌が悪いんだ。理由を、君は知っているよね?」
「……知りません」
声は震えていたものの、やっとの思いで返す。
エルディスはそんなラディアスの返答を聞き流しながら、空いている方の手で彼の服を掴む自分の指を一本ずつゆっくりと外していった。
その所作が、じわじわと恐怖を煽ってゆく。
「まぁいい。君と会うのもこれで最後だからね」
「……っ」
最後の一本を外し終えると、彼はにっこり笑って
呼応して顕現した闇の魔力が指先を伝って、ラディアスの身体を浸蝕してゆく。
圧倒的な技量の違い、それに加えて抵抗を禁じる【
「ここを、動くな」
低くささやかれる、ふたつめの制約。
その言葉の意図を理解した途端、心臓が冷えた。
自分を縛る魔力によって手足が硬直していくのを感じ、ラディアスは絶望的な気分で彼に問い返す。
「俺を、殺す気ですか」
「どうかな」
低く優しい声が、楽しげにそう答えた。
鮮やかな色の瞳に酷薄な光を宿し、彼は頬に触れたままの右手を撫でるように滑らせる。
「言葉を話すな。君が、死ぬまでね」
みっつめの【
これで助けを呼ぶこともできないし、魔法すらも封じられてしまった。
命が尽きるまで為す術もなく、——こんな場所で、幾日も。
それは、どれだけ苦しい死に方だろう。
せめて一息に、という慈悲すらかけてもらえないということか。
想像以上の酷刑に、彼が自分に抱いた憤りの深さを知って愕然とする。
「さて、私は帰るよ。さようなら。気が向いたら、迎えに来てあげてもいいよ」
エルディスはにっこりと笑い、そして【
当然のごとく魔法は発動し、彼の姿は目の前からかき消えてしまう。
そしてラディアスは熱風と熱砂の中に一人きり、身体も魔法も自由にならない状態で、取り残されたのだった。
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