第2節 魔力の強さは親譲り
「いやあ、探したよ。久しぶりに我が家に帰ってきてみれば、誰もいないしさ」
そう言うとエルディスは肩をすくめて、軽いため息をついた。
別宅の居間に置いてあるソファを気に入ったらしく、彼は立ち上がる様子はない。紅茶の入ったカップを手にして機嫌よく笑っている。
——結局。
道端で彼に
なし崩しのまま別宅まで一緒について来てしまい、留守番していたラディアスが客と勘違いして丁寧に紅茶まで淹れてしまった——、のだけど。
今さら、ラディアスとラァラにはどう説明したものか分からなくて、詳しく話せていないままだ。
「へえ、エルディスさんってリトのお父さんなんですかあ」
「そうだよ。きみとは初めて会うよね」
「ですねー。俺はラトって言います。今ちょっとワケアリで家がないので、リトの家に居候させてもらってるんですよー」
表面上は穏やかに微笑むエルディスと会話しながら、なにかを悟ったのかラディアスは少しずつ距離を取り始めていた。
まだ何も話していないのに、時々彼は勘がいい時がある。
「まあ、リトの父とは言っても、私はもうウィントン家の当主ではないんだよ。家督はリトが五歳のときに譲ったからね」
思わず、膝の上に置いた手を強く握りしめる。
相変わらず幼い時の記憶はよみがえらないけど、不快な気分が抜けない。
やっぱり黙って家に迎えることなんてできない。セリオの言う通りすぐにでも、ラディアスとラァラを連れて逃げなくては。
「そうだ。父さんはまだ幼い俺にぜんぶ押し付けて、国を出て行ったんだ。忘れたとは言わせないぞ」
「もちろん忘れていないさ。私がティスティル帝国内では指名手配されている、という事実もね」
刹那、部屋の空気が凍りついた。
すぐ隣にいるラディアスの顔が、さあっと青ざめていく。
まずいと腰を浮かせた時には、すでに遅かった。
ぎこちない動きで離れようとするラディアスの手を取り、エルディスはぐいっと彼に顔を近づけた。
至近距離でにっこりと微笑む姿に、ラディアスだけでなくリトまでもが、ぞくりと寒気を覚える。
「どうやらセリオが嗅ぎ回っていたようだが、おまえは違うだろう? リトアーユ」
怯えるラディアスの腕をつかんだまま、エルディスは満面の笑みをリトに向ける。
相手は笑っているはずなのに、どうしてなのか自分の中で警鐘がずっと鳴り響いていた。
逃げろ、と。
しかし、ラディアスを置いて逃げるわけにはいかない。
彼は、今ではリトにとっては家族に近い、大切な存在に違いないのだから。
「何のことを言っているんだ」
「おまえは優しい子だからね。建国王——ああ、今は女王陛下だったね。彼女に、私のことを通報したりはしないだろう?」
父の意図が言葉を通して伝わり、リトは軽い目眩を覚えた。
右腕を横に広げ、自分の隣にいるラァラを庇う。
目はそらせなかった。固唾を飲んでから、震える唇を開く。
「……それでも通報する、と言ったら?」
「そうだね。じゃあ、この子には呪いにかかってもらおうか」
どくん、と心臓が跳ね上がる。
「ラトに何をする気だ」
「なに、ちょっとした呪いにかかってもらうだけだよ」
腕をつかまれたまま、ラディアスは肩を震わせた。
「……へ? の、呪い?」
「そうだよ、ラトくん。こう見えても私は精霊魔法に関しては自信があるんだ」
「いや、でも……あの、オレは」
「ん? ああ、大丈夫だよ。きみは現女王陛下の兄君だからね。殺したりはしないさ」
まさに青天の霹靂だった。
それはラディアスも同じだったようで、青灰色の目が大きく見開かれる。
「え、と。お父さん、知ってたんです、か……?」
「そうだよ。二百年ほど前とはいえ、私も貴族の端くれだったんだ。王家の者の名前と顔くらい覚えているのは当然だからね」
狼狽する相手を前になにがそんなに楽しいのか、エルディスはにこにこと笑っている。
当然のこと、か。
父の言葉がちくりとリトの胸に突き刺さる。
貴族間の交流や王族に対する忠誠心というものがあまりなかったせいか、リトは初めてラディアスに会った時に王兄だと分からなかった。
名前や顔さえもうろ覚えで。
それなのに、長い月日の間ティスティルを離れていたエルディスは、ひと目で彼を王族だと見抜いたのだ。
「さて、どんな呪いがいいかな。記憶を飛ばす魔法もいいけれど、【
指の力を少しも緩めることはなく、緋色の魔法使いはくすりと笑う。
どうやら、彼はラディアスに話しかけているらしい。
「ええと、俺はどの呪いも、イヤなんですけど。呪いとはいえ、医者が熱出して倒れたら本末転倒だし……」
「おや、そうかい? 私としては、そういう展開も楽しいと思うけどね」
橙色の双眸を鋭く細め、エルディスは口角を上げた。
(まずい。あいつ、本気だ……!)
立ち上がり、リトは土足でテーブルを踏み越え、父の腕をつかんだ。それでも彼は構わずに、口を開いて
エルディスを止めるには、【
意を決して、リトは
決して丁寧ではなかったが、それでも精霊に届いたのか指先から淡い紫色の光があふれ出る。
その魔力の光はリトの指を伝ってエルディスの腕に移り——、一瞬で霧散してしまった。
「……う、そだろ」
魔法が失敗した。問題なく発動したはずなのに、抵抗されてしまったのだ。
呆然としていると、くすくすという笑い声が聞こえてくる。
腕を振り払われた反動で、リトは思わず父の腕から指を離してしまった。
「リトアーユ、私ほどの
言葉が返せず、絶句する。
迷いなく向けてくる光を呑み込んだ橙色の瞳に見つめられると、思うように動けない。まるで金縛りに遭っているみたいだ。
「私は生まれつき魔法に対する抵抗力が高くてね。格下相手の魔法は、まず絶対に効かない。だからね、おまえが私に逆らうことはできないんだ」
すぅっと目を細めて、エルディスは笑みをこぼしながら尋ねる。
「さあ、どうする? リトアーユ、きみは私の言う通りにしてくれるだろう? さもないと、きみの大切な友人を私は傷つけてしまうかもしれないよ」
白くなりかけた頭の中で、セリオの警告だけが鳴り響く。
すぐに逃げろ、と。
どうしよう。どうすればいい?
やはり、自分にはラディアスを置いて逃げることなんでできない。
父からぜんぶを守れるほどの力を、リトは持っていない。
魔法が効かないのなら剣に頼るしかない。でも、今は人質がいるから力押しは難しい。
それに逃げ込める場所なんて、自分にはない。
セリオの家だと迷惑をかけてしまうだけだ。
彼は学園の教授だというだけで、エルディスに対抗できるほどの力は持っていないのだ。
ティスティル王宮はだめだ。秘密裏にラディアスを匿っていたことが、女王に知られてしまう。
開発部の研究所も同じ理由でだめだ。彼の師匠、カミルに知られてしまうだろう。
それにカミルに頼ることは、なんとしても避けたい。たぶん、力を貸してくれた引き換えになにかを求められる気がするし、ラディアス自身がカミルのことを嫌っているのだ。
(結局、父さんの思い通りに動くしかないのか……?)
微動だにできずにいる状況の中、部屋の中は糸を張り詰めたかのような緊張感で満ちていた。
その糸を最初に断ち切ったのは、エルディスでもリトでもなく。
意外にも、ラァラの何気ないひとことだった。
「パパ」
鈴の音が鳴ったような、可憐な声だった。
橙色の目が丸くなり、不思議そうにエルディスは尋ねる。
「パパ、と言ったのかい?」
「うん、そう。リトのお父さんならパパかなと思って。違った?」
わずかに首を傾げる仕草や、まっすぐに見つめてくる屈託のない表情が、リトの胸を高鳴らせる。
そしてまた、もう一人の心を動かしたらしい。
ラディアスの腕をつかんでいたエルディスの指が緩む。
「……いいや、違わないよ。きみはうちの子の大切なひとなんだろう?」
パッと手を放して、リトの父はラァラに近づく。少し屈んで視線を合わせて顔を綻ばせた。
いつもの、あの得体の知れない笑顔ではなかった。本心からの笑みだ。
どうやら嬉しかったらしい。
ようやく解放されたラディアスは、すぐさまエルディスと距離を取ったものの、やはり心配らしくラァラを心配そうに見つめている。
「うん、そうだよ。わたし、今リトと付き合っているんだ」
「そうか。きみみたいな可愛い子が娘になるのなら、嬉しいな」
いや、気が早いだろ。
——と、リトとしてはツッコミたい気持ちでいっぱいだったが、やめておくことにした。
邪気を引っ込めた父を煽って、また機嫌を損ねたら大変だ。
「そう? わたしもパパって呼んだのは初めてだからうれしい。だから、もうラトはいじめないで欲しいの。わたしの大切なひとだから」
あまり直球すぎる言葉に、ヒヤリとする。
しかしエルディスは気を悪くしなかったらしい。
「きみがそこまで言うなら仕方ないね。構わないよ」
「良かった。その代わり、わたしもパパのことは女王さまに言わないから」
そう言って、ラァラは先ほどまで自分の養い親を呪おうとしていた相手を前にして、にこりと微笑んだ。
「これからよろしくね、パパ」
彼女のその一言と笑顔で、すべては収束した。
エルディスはすっかり殺気を引っ込めてしまい、しばらく紅茶を飲みながら歓談した後、あっさりと本邸へ帰ってしまったのだった。
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