第1節 教授の助言と緋色の魔法使い
「リト、話がある」
そう声をかけられたのは、ラァラの下校時間に合わせて学園を訪れた時だった。
相手はセリオ。現在銀竜魔法学園に籍を置いている教授だ。
また、リトが仕事に就いて自立するまで後見人として世話をしてくれた、育ての親のような人物でもある。
「話って一体何だ? 知ってると思うけど、俺はラァラの迎えに来たんだが」
応接室に案内され、あたたかい紅茶を出された後。
リトが尋ねると、セリオは青い瞳を泳がせた。
「大丈夫だ、リト。ラァラには授業が終わった後、こちらに来るよう連絡してある」
「それならいいけど、緊急な用事なのか?」
「そうだ」
頷いた後、セリオはリトをまっすぐに見つめてきた。
彼の揺らぐ瞳にただならぬものを感じ、思わず固唾を飲む。
「リト、あいつが帰ってきている」
「あいつ……?」
問い返すとセリオは深いため息をついて、目を伏せる。
膝の上で拳を強くに握りしめ、意を決したように再び目を上げてリトを見、彼はその名を口にした。
「エルディスだ」
瞬間、リトの身体に雷のような衝撃が走った。
それは今まで数百年の間、一度も耳にすることがなかった名だった。
「エルディス・エル・ウィントン。王立
思わずリトは立ち上がった。
無意識に自分の胸のあたりに手を伸ばし、服の上から強くつかむ。
「本当なのか、セリオ。あいつは、エルディスは……二百年以上前に、俺を捨てたんだぞ!? それなのに、なぜいまさら」
「分かっている。だけどね、残念ながらエルディスが戻ってきたのは本当のことだ。ずっともぬけの殻だったウィントン家の本邸にあいつは戻ってきている。実際にこの目で見たから間違いない」
動揺で、リトの心臓が早鐘を打つ。
父エルディスは、リトが五歳の時にすべてを捨てて国を出奔した。
リトは連れて行ってもらえなかったばかりか、施錠した部屋に放置され、餓死する寸前にすべてを察した当時のティスティルの国王に救ってもらった——らしい。
幼少期の記憶は、リトの中で曖昧だ。
ましてや、千年もの長い寿命を持つ
だからなにも憶えていなくても、仕方のないことだと、思うのだけれど。
それにしても、セリオはエルディスという人物を憶えているのに、どうして自分は父の顔さえも思い出せないのだろうか。
「とにかく」
咳払いと共に切り出された言葉で、リトの思考は現実へと引き戻される。
深い青の瞳を和めて、セリオはやわらかく微笑んだ。
「どういう理由で帰国したにせよ、エルディスの犯した罪は消えるわけじゃあない。あいつは今もこのティスティル帝国内では指名手配中の身だ。女王陛下には当時を知る者として私からきちんと事情を説明しておくから、安心しなさい。きっと、じきにあいつを捕らえてくださるだろう」
「……わかった」
ひとつため息をついて、リトはソファに座り直す。
「ただ、エルディスがおまえと接触を取ってくる可能性は高い。あいつがおまえの前に現れたら、すぐに逃げるんだぞ」
「逃げる……?」
彼の助言が不可解に思えて、リトは眉を寄せた。
人柄どころか顔さえも思い出せない父親。けれど、血の繋がった家族なのだし、大袈裟なのではないだろうか。
それに自分は
逃げる必要なんか、どこにもないじゃないか。
「なぜ逃げなくちゃいけないんだ。色々問題があったとはいえ、一応俺の父親だろう?」
今度はセリオが驚く番だった。
大きく目を見開いて、信じられないものを見たかのような顔だ。唇まで震えている。
「リト、おまえはエルディスになにをされたのか憶えていないのか……?」
「——えっ」
幼少期の父に関する記憶どころか、顔さえ記憶にない——、なんて言い出せる雰囲気ではなかった。
けれどエルディスが出て行く寸前、なにがあったのか。
そして、自分はどういう状態だったのか。
詳しく聞かなければならないのかも、しれない。
「セリオ、それはどういう——」
「リト?」
カチャリという扉の音が聞こえて、反射的に目を向ける。
そこには帰り支度を整えたラァラがいた。
上は大きめなセーラー襟に、丈の短いプリーツスカート。同じく紺のスカーフが藍色の髪の彼女にはとてもよく似合っていて、上品な印象を感じた
「お話、終わった?」
ひとつ瞬いて、じっと見つめてくる大きな瞳。途端に、先ほどとは別の意味で心臓が高鳴った。
「あ、ああ。ちょうど終わったところだよ。帰ろうか」
飲みかけの紅茶をそのままに、リトは立ち上がる。
セリオも腰を浮かせて、背を向けた彼に言葉を投げかけた。
「リト、いいな。あいつが来たらすぐに逃げるんだぞ」
「……分かっているよ、セリオ」
強く頷いて、リトはラァラを連れて、応接室を後にした。
疑問は少しばかり残るが、セリオの助言はいつだって正しい。
彼が即刻逃げろと言うのなら、逃げた方がいいのだろう。
「リト。あいつって誰? あの白いひと?」
帰り道、セリオがただならぬ様子だったせいか、ラァラが尋ねてきた。
しかしどうやら別の人物を思い浮かべたようで、思わずリトは吹き出す。
「違う、カミル様じゃない。あの一件以来、あの人は俺になにもしてこなくなったしな」
カミル・シャドール。知識や魔術を学ぶ者たちの間では北の白き賢者とも呼ばれるほどの、最高位の
実はリトの上司でもあるのだが、この賢者、以前はリトに執着しラァラも巻き込んで妙な三角関係にまでもつれ込んだことがある。
ラァラを守るため、不法侵入してきたカミルに剣を突きつけてからというもの、気が済んだのか今にところ彼はリトにあまり絡んでこなくなっていた。
不本意だが認めてやる、とカミルは言っていた。
それなら、彼はラァラとの仲を認めてくれたということなのだろう。
「あの人じゃないんだ。じゃあ、誰?」
見上げてくる彼女に、リトは何と言っていいか分からなくなった。
彼女にはきちんと話しておくべきだろうか。
国内では指名手配中で、セリオが狼狽するほどの危険人物。しかも自分の血縁者だから、きっとラディアスもラァラも巻き込んでしまう。
それに、逃げなくちゃいけないのなら、逃げる方法や潜伏先を決めておかなくちゃいけない。
「それは——」
「リトアーユ」
それは低くて、甘い声音だった。
懐かしさを覚えるテノールボイス。
きょとんとした顔でラァラが振り返り、そしてリトもゆっくりと振り返った。
心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。
それならば、きっと、自分の身体は憶えていたのかもしれない。
肩に流れる、クセのある緋色の髪。すっと細める切れ長の瞳は橙色。
その姿勢のいい長身の
柔らかい微笑みをたたえているのに、彼の目はちっとも笑っていない。
ぞくり、と背筋が凍る。
「ただいま、リトアーユ。気が向いたから帰ってきてやったよ」
(ああ、そうだ。今、思い出した。父さんはこういう顔だった)
せき止めていた記憶の奔流が一気にあふれ出す。
エルディス・エル・ウィントンは元
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