第21話 暖かなぬくもり
朝の陽射しを感じて、太一はベッドの上で目を覚ました。
なぜか自宅のベッドでトランクス以外、何も身に着けずに寝ていた。そのことを不思議に思いながらも今は何時かと、寝ぼけまなこでいつも枕の横に置いている目覚まし時計に右手を伸ばした。
そして太一は違和感に気付く。非常に身体が動かしずらいのだ。
――問題なのはそこだけではない。手のひらで触れた物体が、明らかに時計の硬質な感触と違うのだ。
異様にサラサラしている。撫でていると気持ちよくて、ずっと撫で続けたくなる。
……問題を整理しよう。
太一は枕の横にこんなに手触りの良いものを置いていた覚えはない。そして身体にかかる布団の温もりだと思っていたものは一定のリズムで動き、生気を感じる。
「スゥー、スゥー……」
銀色が視界に入った瞬間、太一の脳は理解することを断固拒否した。
脳がただひたすらに撫で続けるという、なんの解決にもなっていない行為を繰り返えさせている物――というか者。
透き通るように煌めくサラサラな手触りの綺麗な銀髪の持ち主。
湖都奈が隣で無防備な寝顔を晒して寝息を立てていた。細い両腕で太一の身体を抱きしめながら、同じ布団に包まっている。
普段だったら、太一は確実にパニックを起こしてベッドから飛び起きている。
だが湖都奈に抱きしめられた状態で、激しく動くわけにはいかない。
可憐な少女の気持ちよさそうな寝顔を、無粋な絶叫で台無しにしたくはなかった。
太一は身体に当たる柔らかい感触を必死に脇へと追いやり、湖都奈を起こさないように慎重に腕の拘束を解いていく。完全に彼女は安心しきって、まるで起きる気配がない。
ベッドからゆっくり抜け出すと、なぜ彼女と一緒に自分の部屋で寝ているのだろうと昨日の出来事を思い返して見た。
――毒のナイフで腹を刺された。BKの凄まじい殺気や刺されたときのナイフの冷たい感触、毒で身体が焼けるような痛みを思い出し、思わず太一は自分の腹をさすっていた。
そして気が付く。ナイフで刺されたはずの箇所を目で見て確認してみるが、傷どころか痕さえ残ってはいなかった。
「んー……」
そんな声に太一が視線を向けると、湖都奈の長い睫毛が揺れ出した。艶めかしく動く彼女の瑞々しい唇に、太一は思わず息を呑んで釘付けになる。
「……ふわぁ」
小さなあくびを零して湖都奈は目を覚ますと、太一に気付いて微笑んだ。
「……おはようございます、太一。目が覚めたようですね、本当に良かった」
「あ、ああ。おはよう、湖都奈」
挨拶した湖都奈がおもむろに上体を起こすが、太一はその光景に凍り付いた。
彼女の豊かな胸元が、その先端が見えるギリギリまで覗いていたのだ。……布団がなければ色々と危なかった。
「――湖都奈、ひょっとしてブラを着けてないのか!?」
「? ブラですか……? 寝るときはいつも着けていません。邪魔ですから」
そんな爆弾を平然と投下してくる。
「ま、まさか、その……パンツも……?」
訊かなくてもいいことを、かなり動揺している太一は言葉に出してしまう。
「……パンツはちゃんと履いてます。今のは太一に見られてもいいように、新しく出
したばかりのピンク色で――」
起きているようで、完全に目が覚めきっていない湖都奈は律儀に答えようとする。
「わぁー!? 言わなくていい! 言わなくていいから!!」
太一は顔を赤くし、必死に手を振って湖都奈を止めた。
それから二人で同じ部屋の中、太一の机の上に綺麗に畳まれていた高校の制服を、背中合わせに腕を通した。
湖都奈の制服は太一がベッドまで運んだのだがその際、一番上に乗っていたピンク色のブラを、なるべく直視しないように太一は苦心した。
「じゃあ、俺は意識を失ってからすぐに家まで湖都奈に運んでもらったのか?」
後ろから聞こえてくる衣擦れの音に、太一はどぎまぎしながら湖都奈に訊いた。
「はい。毒は完全に祓いましたが太一も体力の限界だったようで、ここに運んでからは今になるまで目を覚ましませんでした」
確かに太一は倒れてから、今朝起き出すまでの記憶が一切なかった。
「一晩かけて〈
「虹力で傷の治療までできるのか?」
「はい。私が密着して虹力を傷に直接付与し続ければ、治癒力が大幅に強化されて瀕死の重傷でも治せます。それと太一の身体が頑丈で助かりました」
「それで俺は抱かれていたのか……」
湖都奈の柔らかい感触と暖かい体温が、まざまざと脳裏に蘇り太一は沸騰寸前になる。
「傷の具合はどうですか?」
目が覚めたとはいえ太一の状態か気になるのだろう、湖都奈が訊いてきた。
「ああ、もうすっかり塞がって痕も残ってない。身体の調子もいつも以上にバッチリだ。ありがとう」
太一は心からの感謝を、背後にいる命の恩人に告げた。
「お礼を言うのは私の方です。太一にはいくら感謝してもしたりません」
「礼を言われるようなことなんて、俺はしてないが?」
むしろ、死にかけていた太一を救ったのは湖都奈の方だ。
「いえ、太一は私の虹力を何のために使うのか、その指針を示してくれました。もう、私の虹力が不安定になって腕輪が反応することはないでしょう。――その腕輪もすでに外れてしまいましたが」
何気なく「へえ、そうなのか」とうなずいてから、太一は大変なことに気付いた。
「――何だって、腕輪が外れた!?」
思わず湖都奈の方に振り向いて声を上げてしまった。そして勢いで振り向いてしまってから己の失敗に気付く。
先ほどから衣擦れの音が続いているので、湖都奈はまだ着替え中ということだ。
太一の目に下着の上からブラウスを羽織ろうとする、湖都奈のあられもない姿が映り込んだ。
豊かに膨らんだ胸にそれを強調するようにくびれた腰、ニーソックスに包まれたすらりと伸びた脚のラインが妙に艶めかしい。彼女もナイフを受けたはずだが、その白い玉の肌には傷一つ付いていなかった。……ちなみに下着は上下レースが付いたピンク色の可愛らしいものだった。
そして湖都奈の言う通り、その華奢な右腕から無骨な黒い腕輪がなくなっていた。
「……その、見たいのでしたら、あらかじめ言ってもらえると私も心の準備が……」
目の合った湖都奈は、みるみる顔を真っ赤に染めてぼそりと呟く。
「わぁー!? ごめん!!」
振り向いたときよりも、勢いよく身体を背ける太一だった。
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身支度を整えた太一が湖都奈とともに一階に降りていくと、そこにはすでに先客がいた。
「おはよう太一、お邪魔してる」
「おはようございます太一様。お加減はいかがですか?」
太一の家の食卓に紫音が座り、流珂が彼女のコップに牛乳を注いでいる。そして紫音の横で青唯がファフを抱いて行儀良く座っていた。
「紫音! それに流珂さん! 何で二人が家にいるんだ!?」
太一は二人が家にいることに驚いた。いつの間に来ていたのか。
「昨日太一が倒れてここまで運ばれたあと、湖都奈から連絡がきた」
「お嬢さまからことの次第を伺いまして、すぐにこちらで青唯様の夕食などを準備させて頂きました」
「そうだったんですね。ありがとうございます」
太一は自分に代わって働いてくれた流珂にお礼を言った。
「それでは朝食にいたしましょう。どうぞ、太一様もお席へ」
着席するよう促された太一は、すでに食事が用意されていた青唯の隣に座った。
「おはようございます……兄さん。身体はもう大丈夫ですか?」
「おはよう青唯。ごめんな、昨日は寝込んで。でも一晩ゆっくり休んだから、俺はもう大丈夫だ」
心配した表情で顔を覗き込んでくる青唯に、太一は優しく笑いかける。それを見て青唯はほっとした表情を浮かべた。
「湖都奈さんが兄さんを抱えて、家に来たときはびっくりしたけど、……元気になって良かったです」
玄関を開けて、湖都奈に抱えられた太一を見た青唯はさぞ驚いたことだろう。彼女を心配させてしまったことが太一は申し訳なかった。
「心配させて悪かった。――さあ、ご飯にしよう。どれも美味そうだ」
それから皆で朝食を取った。メイドの流珂さんだけは一緒にできないと辞退した。
メニューはふっくらとしたパンにシャキシャキの新鮮なサラダ、暖かいトマトスープと、どれも味は素晴らしく絶品だった。
「そう言えば流珂さんはともかく、何で紫音まで家に来たんだ?」
朝食を食べ終わったあとに太一は尋ねた。すると紫音は見覚えのあるビニール袋をテーブルの上に置いた。
「これ、PRFから逃げる前に太一が置いていったでしょ? 届けに来た」
それは地球堂で買った文房具だった。警報が鳴り響いたときに太一が湖都奈の荷物と一緒に、道端に置いていったものが目の前にあった。
「わざわざこれを家まで持ってきてくれたのか? ありがとな。でも、そのうち喫茶店に行くからそのときでもよかったんだぞ?」
紫音の行動が太一には疑問だった。めんどくさがりな彼女にしては、律儀なことをしていると思ったからだ。
「それ以外にも用はある。――それより太一、湖都奈のおっぱいどうだった?」
「――ぶっ!? げほっ、げほっ」
太一はその場で思い切り咳き込んだ。食べている最中じゃなかったのが幸いだった。
「……おっぱい?」
紫音の言葉に、青唯が不思議そうに小首を傾げた。
「昨日、太一は湖都奈と一緒のベッドで抱き合って寝た。裸で。これはつまり――」
「まさか、兄さん……赤ちゃんを……!?」
「――安心してください青唯さん。そのようなことはしていませんので」
青唯が顔をトマトのように赤く染めながら、とんでもないことを口にしたが、太一が何か言う前に湖都奈が否定した。
「私は怪我を負った太一を治療しただけです」
湖都奈の声は平静そのものだったが、太一は見逃さなかった。向かいに座る彼女の頬がほんのり赤く染まっていたことを。
それから、太一が部屋に戻って紫音から受け取った荷物を通学鞄に入れ直していると、コンコンと軽く扉が叩かれる音がした。振り返ると湖都奈が立っていた。
「太一、すみませんが先に一人で登校してもらっていいですか? 私と紫音は青唯さんとお話ししなければいけないことがありますので」
「一人で先に行くのは構わないけど、青唯に何の用だ?」
「そこは女性同士と言いましょうか、虹霊同士と言いましょうか、色々と……」
「? よくわからないけど、遅れないように気を付けろよ」
湖都奈にしては珍しく歯切れの悪い物言いだが、男には聞かれたくないこともあるのだろうと、太一はそれほど気にせず了承した。
「そう言えば紫音は学校に行ってないのか? それとも私服が大丈夫なところとか?」
太一が二階の自分の部屋に戻る前、紫音は我が物顔でリビングのソファで寝転んでいたのが気になった。
「彼女は海外の大学の卒業資格をすでに持っていますから、わざわざ日本の高校には通いません」
「紫音って頭いいんだな。あんまりそうは見えないけど」
登校しようと太一が玄関に向かうと、朝食の食器を洗い終わった流珂がわざわざ見送りに来てくれた。
「太一様、行ってらっしゃいませ」
流珂は太一に向かって深く頭を下げた。
「ええと、行ってきます。流珂さん」
太一は頭を垂れる年上の女性に、どぎまぎしながら挨拶に応えた。
「太一様が私のことをさんづけで呼ぶ必要はございません。呼ばれる場合は是非、流珂とお呼びください」
姿勢を戻して微笑みながら流珂が言った。
「それはどうしてですか?」
年上の人を特に理由もなく、呼び捨てにはしない太一は流珂に尋ねた。
「お嬢様を助けて下さった太一様だからです。――それにお二人はベッドをともにする仲ですから」
そう言って流珂はうふっといたずらっぽく太一に笑いかけた。
「……い、行ってきまーす!」
太一は頬を引きつらせると、その場から逃げるように登校した。
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狭い箱の中、ナイフは果てしない憤怒を抱いていた。
特殊な工程を経て完成したその身に、ブラッドナイフの名前を与えられた。
刃の中心には人や物を焼く猛毒が仕込まれ、目に見えないほどの細かい穴から刀身全体にいきわたる仕掛けが施されている。
ナイフは猛毒剣としての完璧な己の身体を誇っていた。
そして人に作られた道具として、与えられた任務を果たすため嬉々として戦った。
しかしナイフはたった一撃、剣の一振りをその身に受け全てを失った。
傷一つ付いていなかった研ぎ澄まされた刀身に、深いヒビが入れられたのだ。
それは修復不可能なほど致命的なもので、仕込まれていた猛毒が出血のように漏れ出した。
任務をこなすこともできず、このまま不用品として廃棄されるのだろう。
許せなかった。完璧だった身体に欠損を与えた鮮烈な赤い光が。
己よりもはるかに鮮やかな赤い光がナイフは許すことができなかった。
許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない、許せない。
――許せるわけがない!
赤黒い光を憤怒によって爆発させると、BKは再び人の形をとった。
胸から猛毒を垂れ流しながら、ナイフを振るって仕舞われていた倉庫から脱出すると、街中へと向かって飛び出していった。
「――アカイノ、必ずブチコロス……!!」
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