第19話 『大切なもの』

「……ダカラ言ったロォーガ。ドイトケッテ」


 BKがいつの間にか頬を伝っていた汗を拭い、再び近づいてこようとするが、その足はすぐに止まった。


「――ナッ!?」


 太一は立ち続けた。くずおれそうになる膝に必死に力を込め、飛んでいきそうになる意識を、歯を食いしばって繋ぎ留めながらBKの前に立ち塞がり続けた。

 それを見たBKが驚きによって、その赤黒い目をカッと見開く。


「オ、オマエ何でブッタオレナイ!? アタシの毒を受けた人間は噴水みたいに血をぶちまけてクタバンダヨ! ナゼソウナラナイ!?」


 太一が立っていることが信じられないのか、BKの声が震えている。

 だがナイフの刺さっている傷口を見て、何かに気付いたようだ。

 太一が焼けるような痛みに堪えながら視線を移すと、傷口は黄色い光で覆われていた。


「マサカ……オマエラ!?」


 BKの視線の先で、屋上を包囲していたPRFの隊員たちが全員、武器を手放して太一に向かって両手をかざしていた。〈停滞スタグネイション〉の虹力の発動で、その手は鮮やかな黄色の光を放っている。


「コウリョクデ毒の進行を止めテンノカ!?」


 憎々し気にBKが隊員たちを睨む。


「ソレガドウシタ! ヤツが死ぬことにカワリハネェ!」


 何か揉めているのか、BKはその場で隊員たちと口論し始めた。

 その様子を見つつ、BKを湖都奈に近づけさせまいと、痛みに耐えて両手を広げる太一に突然、背後から暖かい感触が伝わってきた。誰かに身体を優しく抱きしめられている。


「……湖都奈?」


 煌めく銀髪が右の頬に当たるほど、すぐ近くに湖都奈の顔があった。彼女は脇腹に傷を負い、額に汗を浮かべながらも、立ち上がって後ろから太一を抱きしめていた。


「太一はどうしてそこまで――!」


 青ざめた顔で湖都奈が訊いてくる。


「……どうしてって言ったろ? 俺が守ると決めたからだ」

「私は太一にここまでしてもらえるようなこと、何もしていません」

「何かしてもらわないと、守っちゃいけないのか?」

「――えっ?」


 太一は焼けるような痛みと苦しみに耐えながらも、湖都奈に微笑みかける。


「……俺はこの街に戻ってきて早々、湖都奈に衝突された。それから色々と巻き込まれるように進んでいって、気付いたらこんなところまで来てた」

「……ごめんなさい」

「湖都奈を責めてるんじゃない。きっかけがどうだって今、ここに立ってるのは俺がそうしたいって決めたからだ」


 例え、巻き込まれてしまっただけなのだとしても、今、こうして湖都奈の隣に立ちたいと決めたのは太一自身だ。

 途中で別の選択肢を選ぶことなどいくらでもできた。だがその選択肢をはなから太一は選ばなかった。


「公園で話したでしょう? 私はかつて自分の大切なものを自分で壊してしまいました。今だって太一をこんな酷い目に合わせてしまっています。私は太一に守られる資格なんてありません。私は大切な誰かを不幸にしてしまう――化物なんです」


 ――それは銀髪の少女の告白だった。

 少女はかつて大切な両親を不慮の事故とはいえ、自身の虹力によって失ってしまった。それが幼い頃の少女にとって、どれほど残酷な記憶であったかは想像に難くない。

 それ以降、自分は大切な人を傷つけてしまうという想いが、少女の中に刻み込まれてしまったのだ。そして太一が傷を負ったことで、さらにその想いが強くなったのだろう、自身を化物と呼んだ。


「自分のことを化物だなんて……そんな風に言うな」


 そんな自らを化物と呼ぶ少女に、太一は優しく語り掛ける。


「……湖都奈は俺に教えてくれたじゃないか」

「私は太一に何も――」

「湖都奈は俺に教えてくれた。太ももが柔らかくて気持ちいいことを。優しい笑顔で笑ってくれると、こっちまで優しい気持ちになって、ずっとずっと笑っていてほしいって心から思うことを――」


 太一の中に湖都奈と一緒にいたときの記憶が、あとからあとから溢れてくる。


「悪夢を見て怖くなっても、それに負けずに未来を変えようって頑張ってることを。美味い料理を食べると、心から嬉しそうな顔することを。俺のために握ってくれたおにぎりが本当に美味いことを」


 太一はまだ言い足りなくて、一度深く呼吸してからはっきりと言った。


「――俺が返した礼を、泣きながら喜んで受け取ってくれることを。全部――湖都奈が俺に教えてくれたんだ」


 湖都奈の赤い瞳には涙が浮かんでいた。溢れて頬を伝っている。

 太一は横で涙を流している湖都奈の頭を、右手でそっと優しく撫でた。


「こんなに優しい女の子が、化物だなんて間違ってる。湖都奈が自分のことを化物だなんて言うなら、俺はそれを全力で否定する」


 もう太一にはPRFの隊員たちや、BKのことが見えていない。

 ただ一人、自分の隣で泣いている少女だけを、慈しみを込めて見つめている。


「だから俺はどんなことがあったって、湖都奈から離れない。――俺は湖都奈と一緒にいたいんだ……!」


 太一の心からの言葉に呼応するように、湖都奈から赤い光が溢れ出した。

 BKの放つ毒々しい赤黒い光とは違い、純粋で透き通った光。

 太一が一緒にいたい言った少女の瞳と同じ――鮮やかな赤色だった。


======


 湖都奈は始め、ただ協力してもらうために太一に近づいただけだった。

 だが気が付けば協力のことなど関係なく、もっと太一と一緒にいたい、もっと話していたいと願うようになった。もっと普通の同年代の娘として見てもらいたいと、心の底から願っていた。


 しかし、それがかなわぬ願いだということは湖都奈自身、重々承知だった。かつて暴走を引き起こし、いつまた同じことを繰り返すかもしれない化物が、望んではいけない願いだったからだ。


 だが、太一は湖都奈が〈アルカンシエル〉で恐ろしく強い虹力を持っていると知っても、変わらずに接してくれた。それどころか、化物だと言った自分を否定してくれた。――とても嬉しかった。嬉しくて堪らなかった。


『一緒にいたいんだ』


 そんなことを他人から言われたのは、湖都奈は生まれて初めてだった。

 毒のナイフを受けて、そのとてつもない激痛に汗を額に浮かべて、今にも崩れ落ちそうになりながら、太一はそう言ってくれた。


 言葉を聞いている途中から、嬉しくて涙が零れた。あとからあとから溢れてきて頬を伝い、止めようがなかった。

 太一から一緒にいたいと言われた湖都奈に、恐れるものなどなくなった。


 ――心は決まった。太一のために己の虹力を開放すると。


 湖都奈は巻き込まないよう、太一から離れると後ろに下がった。脇腹が焼けるように痛みを訴えてくるが、不思議と身体は動いた。


「――湖都奈?」


 急に身体を離したせいで太一が振り返って訊いてくる。なので安心させるよう笑顔を返した。

 それから正面を見据え、右手を前にかざす。


 赤の虹力は身体の中に満ち満ちている。まるで行使されるのを今か今かと待っているように。そして――


「――私は剣を取ります!」


 言葉に出した途端、赤の虹力が急速に右手に集約して剣の形になった。それが『鍵』であることを湖都奈は知っている。


 赤い光の剣を右手で逆手に握ると、躊躇うことなく己の胸に突き刺した。太一から贈られたエーデルワイスのペンダントとともに。

 湖都奈は剣を取る決意を世界に示し、『大切なもの』を捧げた。


 ――かくして工房へと至る心の扉は開かれた。

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