白い礁湖




日本列島の西、その最西端に位置する与那国島。自然に包まれた島の海辺に建てられた、白と青を基調とした海洋研究施設が一つ。


内装はいたってシンプルで、美しいものの、室内の一角には、ホルマリン漬けにされている生物達が多く保管されていた。


様々な鳥が集まる広々とした中庭に、一つぽつんとある扉。その部屋の扉には、『所長室』というタグがかかっている。

数多ある機材と資料の山、壁にかけられたコルクボードには沢山の生物の写真が貼られ、真下に置かれた収納ボックスの上には骨の模型が妙なポーズで立っている。


あらゆるサンプルの山をすり抜けて進めば、部屋の主人が利用する書斎兼寝室へとたどり着く。

普段なら明るい部屋は仄暗く、僅かな話し声が木製のドアから聞こえてくる。ドアの隙間から、空調がよく効いているのだろう、冷ややかな風がするすると通り抜けていった。


中では二人の男性が、パソコンのディスプレイに顔を寄せていた。


椅子に腰掛けている眼鏡の男性の髪には白いものが目立ち、顔にも皺がうっすらと見えた。そのため一目見ただけでかなりの年齢であることがわかる。

が、隣に立つもう一人の男性の顔立ちは、男性より若く、顎には無精髭と髪は茶髪に染められてしまっていた。

真剣に見つめるそのディスプレイに表示されているのは、英文が目立つ資料。

カチカチとマウスをクリックしているのは青年だ。


「じゃあ、アメリカの連中は何かを見たと?」


青年の問いに対して、顎に手を寄せながら唸る男性。

しかし、視線は動かず、ディスプレイに注がれ続けていた。


「でなければ、こんな事にはなっていないだろう。海域は予想通り、しかし進路がわずかに逸れているな」

「そのうえ、海軍御用達の…それも実戦済みの潜水艦が、こうもあっさりやられている」


英文の端に添えられた写真を見つめながら、やれやれ…と、やや呆れ気味に溜息を漏らす青年。傍で尚も、真剣な面持ちでゆっくりと頷く男性。


「我々もそれなりの手を打たなくてはならないらしい。頼んだよ、直樹くん」

「あんたも無茶言いますねぇ…天野さん」


天野と呼ばれたのは高齢の男性で、直樹と呼ばれたのは青年の方だ。


天野崇文あまのたかふみ

ここ、海洋研究施設【 WHITE・LAGOON白い礁湖 】の設立者であり、所長である彼は同じ界隈の中でも名を馳せた研究者である。故に、所属しているチームメンバーたちも知恵者が多い。

隣で首裏をかいている青年は、江藤直樹えとうなおき

同じく【 WHITE・LAGOON 】で働く研究者の一人で、施設の副所長を務めている。


上司である天野に期待の眼差しを向けられた直樹は、気まずそうに言葉を返す。


「あんまし期待なんてしないでください。向こうは政府が付いているものの、こちらはほぼ支援無しですよ」

「やはり問題はそこだね」

「でも、思っていた以上の水深だ。マリアナ海溝に匹敵しますよ」


記されている水深や、テスト結果などに眉根を上げて驚く直樹。しかし、天野は特に何事もなく、資料を読み上げてゆく。

世界で最も深い海として知られるマリアナ海溝、その最高深度は10.911メートル。この水深に匹敵するとなれば、相当な水圧がかかるため、並みの潜水艦では到底辿り着くことすらままならない。

しかし、書かれている資料には、同等の水深で行われた探査データが綴られている。


「資金面での問題はもちろん、こっちは情報源がほとんどありませんから。手を打つ以前の問題ですよ」

「だが我々には"二人"がいる。もし、彼がそうでなくても、一人いれば出し抜くことは可能だ。どちらかが選ばれる、それは確かだ」


言葉に確信を持たせるように、力強く頷いてみせた天野に、軽い溜息をひとつ、またもや漏らした直樹。

そんな彼をよそに、仄暗い部屋の片隅に置かれた小さな時計と、自分が身につけている腕時計を見比べる。時刻は現在、午前十一時半、あと少しで昼食の時間だ。


予定ではあと数分で到着するのだが、と天野は机の上に置かれた一通の便箋を見た。


数日前に送られてきたその手紙は、職員からのもので、気にしていた時刻はこの手紙に書かれていたものだ。

彼らが到着したら、たくさんの報告書と、向こうでの検査結果…それらを飽きるほど見聞きしなくてはならなくなる。

これも全て我々の研究のためだ。そう自分に言い聞かせて、席を立とうと腰を浮かせた。

コンコンコン、と木製のドアを叩く軽やかな音が書斎に響く。


「どうぞ」と天野の代わりに江藤が応えた。


キィー…と、蝶番が軋む音とともに姿を現したのは直樹よりも年上の女性と、ムワッとした、湿り気を帯びた熱気。

特に気にする様子もなく、二人は彼女を見た。

肌はこんがりと日に焼けていて、簡素な服にサンダルを履いた、いかにも沖縄、という印象の服装をした彼女の声は、とても張りのある声だった。


「失礼します」

「石田先生、なにか?」


石田先生と呼ばれた女性。

名前は石田祐香里いしだゆかり

【WHITE・LAGOON】のドクターを務める医師で、優秀な学者でもある。

長く艶やかで、ほんのりと毛先が焼け、束ねられた髪を後ろに払いながら前を向く。


「天野主任、例の子、連れてきましたよ」

「ナイスタイミングだな。沢村くんたちは?」

「資料をまとめるので、と私に彼を預けて、自分の部屋へまっしぐら!でしたね」


呆れたように笑った直樹を見て、祐香里も同じように笑みをこぼす。

つられるように天野もカラカラとした笑い声をあげた。


「まぁ、資料は山のようにあるだろう」

「事実ですし」

「そうね」


短い会話を終えて、すぐに部屋を出た三人は、蒸し暑い外の風を受けながらも目的の場所へと足を運ぶ。

日差しは容赦もなく、ただひたすらに彼らの真上に降り注いだ。


迷う事なく進んでたどり着いたのは玄関ホール。そこそこ大きなこの施設には、海洋生物などの他にも、沖縄の絶滅危惧種や植物などの保護も行なっている。

三つの棟に別れ、中央棟と呼ばれるこの場所から、左右に伸びた渡り廊下を伝い、それぞれの専門で分けられているのだ。

中央棟は職員の居住区として使われているため、仕事以外では特に人が多く行き来する場所である。

しかし、今日は比較的に言えば、人通りが少ない方であった。

周りに立つ研究員たちは通りすがる天野を見て、そそくさと道を開き、頭を下げてゆく。ひらけた廊下の先には一段下がった石畳がある。


そこに三人の人影が差し込んでいた。


一人は男性で、皺一つ無いシャツとズボンを着こなし、キャリーケースを右手に、左手は腰に添えている。

いかにもビジネスマンという雰囲気を纏う、整った顔立ちの好青年だ。

もう一人はショートカットの女性で、同じくキャリーケースを手に佇んでいる。


女性の名前は雪村響子ゆきむらきょうこ、男性は沢村宏太さわむらこうたという。ふたりとも【 WHITE・RAGOON 】に入所して一、二年と、まだ新人の立場ながら、かなりの成果を上げている研究者である。


一週間ほど本州へ滞在していた二人に労いの言葉をかけながらも、天野や周囲の視線は響子と沢村の間に立つ、一人の少年へと向けられていた。


「ようこそ、【 WHITE・LAGOON 】へ。私は所長の天野崇文だ。よろしくね…風楓ふうまくん」


せわしなく視線を動かしながら、静かに頷いた、風楓と呼ばれる少年。


濃い赤毛に淡い緑の瞳。


まるで、おとぎ話に登場するかのような風貌をしたその少年に、天野は背筋が凍るような感覚を覚えた。深い深い森の、さらに奥深くに佇んでいるかのような、まさにそこに居るのだ、と言わんばかりの匂いに包まれたのだ。

謎の現象に圧巻され、自然と呼吸が早まってゆく。

脈拍と鼓動が直に耳に伝わり、反響し、鼓膜が撥で叩かれているようだとも思えてきた。

ほんの数秒ほど、放心状態になっていた天野の肩を軽く叩いたのは直樹で、ハッと我に帰った天野に「疲れてるんじゃないですか?」と言葉をかけた。

心配する直樹に大丈夫だ、と笑って返した天野の表情は、僅かながらに恐怖を孕んでいる。不安の残る心を落ち着かせ、しっかりと風楓を見た。


「彼は江藤直樹、ここの副所長で私の助手だ。こちらは石田祐香里先生、ドクターを務めている。何かあれば身の回りの人に言えばいいからね」

「少しずつ慣れていけばいいから」


先ほどと変わらず、特に返事もせずに頷いた風楓。一歩前に立つ大人たちの視線を伺いながら、俯きがちに、囁くような声で言葉を口にした。


「あの、俺の病気ってなんなんですか」


不安げに天野を仰ぎ見る。


「…まだ、しっかりとした病名はわかっていないの。でも必ず助けるから、安心して?ここは海洋研究所だけど、地域の人たちにとっては病院でもあるの」

「婆ちゃんや爺ちゃんが多いけどな。小さい子も来ることがあるから、たまに相手してやってくれ」


祐香里は安心させようと言葉を口にする。

優しい笑みをたたえ、視線を合わせるように風楓を見る直樹。

どうしてか、彼には不信感を持たない風楓は不思議と直樹には目を合わせていて、自分でもよくわかっておらず、ただひたすらに直樹の言葉を聞いていた。


「そういえば、なんでお前らここにいるんだ?部屋にまっしぐらだって聞いたけど」


直樹の言葉に、驚きの声を上げて否定したのは宏太だが、呆れ気味にため息をついたのは響子である。


「そんなわけないでしょ!」

「祐香里先生またですか?いい加減、私たちで遊ぶの、やめてくださいよ」

「ごめんね」


どうやら祐香里の遊びに引っかかったらしい天野と直樹は、互いに顔を見合わせて笑いあったが、嘘を言われた本人たちは、何度目かもわからないその遊びに迷惑していた。

賑やかな場所に不慣れな風楓は、僅かに口角をあげていたが、心の中では真逆のことを考えていた。


(俺、どこも悪くないのに、何でこんなところまで連れてこられたんだろう)


自分の体のことは自分がよく知っている。だからわかる、どこも異常などない、なにもおかしい所はないって。病院の先生たちはなにも言わないけれど、きっと、何かを隠している。

時々、直感的にそう思うことがある。

どうしてそう思ったのか、と聞かれても、説明はできないがそう思う。

施設内は、外よりも幾分か涼しい場所ではあるものの、やはり窓や吹き抜けの廊下から吹き込んでくる熱風により、暑さはさほど変わらない。

宏太と響子はキャリーケースを手に、今度こそ、自分たちの部屋に戻って行った。他人事ではあるけれど、隣で話していたことは聞いていたつもりだ。

どうやら俺を迎えにくる前に、どこかの海で行った採取の報告書を出せ、という話をしていたらしい。

そばに立っていた二人が去り、抱いていた不安がより大きくなったらしい風楓を見て、天野は彼を部屋に案内するよう、祐香里に頼んだ。

祐香里は頷くと、風楓の手を取り、彼を連れて二階に用意した病室へと向かった。

またいつもの静けさが戻った玄関ホールには、受付の係員の他には、天野と直樹の姿しか残っていない。階段を登って行く二人を見送った天野に直樹は背後から、


「どうでした?」


と、声をかけた。


「すごいな、彼は。報告以上だよ」


先ほど体験した感覚を思い出し、身震いする。嬉しそうに話す天野を見て、直樹もつられるように口角を上げた。


「可能性はありそうですね」

「ああ。葦戸さんに連絡は」


もちろん、と頷けば、天野も同様に頷いて視線を中庭へ向ける。吹き込む風は変わることなく蒸し暑いが、先ほどの体験をした後では、異常に暑く感じた。

係員に「お疲れさま」と、労いの言葉をかけ中庭へ移動すれば、まるで大波のように蝉の鳴き声が押し寄せる。音の波は不思議と、窓が開いた状態の室内でも、いざ外へ出るとより大きな音として聞こえるのだ。

ここ【 WHITE・LAGOON 】はその名の通り、海岸のサンゴ礁の中にあるラグーン(珊瑚に囲まれた浅瀬)のすぐ目の前に建てられている。そのため、生態の採取や観察などもやろうと思えばすぐに行える上、近くにはマングローブ林、さらに、奥には川が流れていたり…と、自然に囲まれている。

まさに楽園と呼ぶにふさわしい場所。

木陰に設置された石製のベンチに腰掛けた天野は、周囲を見回し、直樹に小声で話しかけた。


「君から見て、彼は本物に見えるかい」

「どうですかね。でも過去の資料や伝承から察するに、容姿は酷似しています。特にこの髪」


彼の手元には中型のタブレットが握られており、映し出されているのは、海外から寄せられたレリーフや写真の資料動画。

スライド式に流れる動画には、面持ちは違えど、風楓と瓜二つの少年少女たちの写真が、次々と現れた。


「…ここ、わかりますか。この女の子」

「イタリアで発見された女の子だね」


天野の言葉に頷いた直樹は静かな声で言う。

彼が指差す少女は、周りに並べられている写真の子供達よりも、髪と目の色が濃く、一際目立っていた。


「つい先ほどメールが」

「そうか。向こうはなんだって?」


言いにくそうにする様もなく、硬い表情で、天野の目を見つめる。どこか残念そうな直樹のその表情に、もしや、と仮説を立てた。


「今朝、亡くなったそうです」

「……そうか。もしやとは思ったが、こうも早いとは。死因は?」

「さぁ?解剖は行なっている最中で、結果は明日出るそうですよ。その時の状態も一緒に送られてくるでしょう」


先ほどの重々しい空気は何処へやら、今度は飄々とした態度でそう言う直樹に、半ば呆れ気味にため息をつく。彼の言う今朝とは日本時間の今日の早朝、つまり向こうは夜。

まだ十代前半の少女が死んだ、それはつまりこの子が"違った"ということ。アメリカはまた、延いてはイギリスも、一つの鍵を失ったわけだ。

急がねばならない。

下手をすれば風楓も死ぬ可能性があるのだ。本物であるのならば心配する必要はない、だが我々の持つもう一つの鍵が到着するまでは、まだ安心できない。

天野はそっと、青く広がる灼熱の空を見上げた。







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鯨波の歌 黒野麻陽 @kuronoasahi

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