鯨波の歌
黒野麻陽
ボイスレコーダー
鉄が圧し潰される音、混乱と不安による人々のざわめく声、異常を報せる、機器のけたたましい電子音とアラーム音。
そして、艦長らしき男のたった一言。
《なんだ…あれは!?》
この言葉を最後に全ての音が途切れ、薄暗い部屋には静寂が訪れた。
数名の男性が口元に手をあてたまま、瞬きを繰り返す。
手元には、山のような資料と、同じく灰皿に積まれた煙草の吸殻、ペンケースにミネラルウォーターなど、長時間の会議のために用意されたものが並べられている。
しかし、誰一人としてそれらに手をつけることはない。全員が視線を一点に集めたまま、ピクリともせず、ただひたすらに、呼吸音のみが部屋に小さく響き続けている。
全員の視線を集める大型ディスプレイの隣には、一人の女性。有名雑誌などで取り上げられそうな、美しい金髪青眼で上背のある女性は、不安をあらわにした表情で、手元の資料を握りしめている。
自分に向けられているわけではない、と知りながらも、彼女はまるで、蛇に睨まれた蛙の如く、あまりの視線の数に動けなくなっているのだ。
このまま、誰も喋ることもなく、静かに終わるのかとその場の誰もが思った瞬間。一人の男性が声をあげた。磁石に引き寄せられる砂鉄のように、その場の全員は男性に注目する。
彼が発した声はよく通る声で、男性らしい低い声でありながら、聞き取りやすい、ハキハキとした喋り方であった。
「これで全てか」
「はい」
「…そうか。たった、これだけか」
重々しいため息をつく男性。彼の言葉に続くように、注目から解放された進行役の女性は、書類に綴られた文字を、簡潔に読み上げて行く。
「記録の入った防水袋は幸い無傷のまま、中身も、水圧による負荷は受けておりません。ボイスレコーダーなどは音質も良好で、特にこれといった異常はありませんでした。しかし…回収できたのはこれだけです」
「となると、何かしらの被害を受けたのは、船尾となりますね。操作室は無事、と言うよりもかろうじて残っている状態、と推測すべきだ。問題は…」
「何が事故の原因なのか、だ」
己の推測を述べた男性にすかさず口を挟んだ男性。
腕を組んで考え込む姿勢をとり、唸る彼に、ふと一人の若い青年が、ぽつり、と言葉をこぼした。
「……いや、"攻撃"というべきではないでしょうか」
「なんだって?」
「仮に事故だとしても、あの深度では船体に異常など起きないはずです。水圧で圧しつぶされるのであれば、もっと過度の圧がかからないと…」
「では何かしらの…例えば、マッコウクジラからの攻撃だとでも?まさか」
はっ!と青年の考えを鼻で笑い、否定した中年の男性は新しい煙草を取り出し、ジジジ…とライターで火をつける。
白く淡い煙をフーッと吐き出しながら、座っている椅子の背もたれに体を預け、見下すようにして青年を見ながら言った。
「たしかに可能性はあるだろうが、あそこまで深い場所には来るまい。彼らは臆病な性格だぞ。それに、いくら力が強いとはいえど、あれほど巨大な潜水艦を噛みちぎるなど、それこそありえない所業だ!」
男性の発言に周囲の人間も、各々の考えをぶつぶつと隣同士で言い合い始める。次第にその小声は大きな渦となり、静かだった会議室は、あっという間に普段の騒がしさを取り戻した。
しばらくすると、いきなりダンッ!!と机を叩きつける音が響き渡り、辺りを騒然とした空気に包み込んだ。
音の発生源である場所を見つめた彼らの目には、一人の女性が映っており、その緊張と苛立ちを含んだ表情に息を呑む。彼女の表情には、必死さが張り付いていたからだ。
「何をそんな風に否定する必要があるの?あなた達は私たちが、一体何を調べているのかお分かりでしょう。であれば、例えどんなに夢のような仮説でも、一度は受け入れるべきよ!」
「同感だ。これらは突然として起こったんじゃない、きっと必然的なものだったんだ」
「ええ、私もそう思う。この資料とさっきの音声を聞いて、私は思うに、彼らは"それ"を見たんじゃないかしら」
女性の言葉に、周囲は口を開けたまま、あり得る可能性に驚愕した。もし、もしそうであるなら、とその場の誰もが頭の中に考えを巡らせた。あまりの驚きと動揺を隠せずに、手元の資料を覗き込む者、ミネラルウォーターを口に当てる者、またある者はカーテンに閉じられた窓へ視線を向け、気を紛らわせている。
こうなってはどうしようもないと、進行役の女性が口を開きかけた。しかし、それは部屋にいる、誰よりも年長の男性が発した、一際大きな声で遮られてしまう。
「人には七つの罪があると言うように、私たちにも、探究心と好奇心の罪がある。これらは、ときに開けてはならない箱を開け、知ってはならない秘密を知ることになる」
厳しげな面持ちで壇上に上がり、つい先ほど青年の考えを否定した男性を見つめる。次に声をあげた女性を見て、最後に天井に貼られた、巨大な世界地図を見上げた。
地図には様々な神話や民族の歴史に関するメモが書き込まれている。しかし、それは全てではないと、この場の全員が知っていた。
ゆっくり瞼を下ろし、持ち上げる。流れるように前を向き、男性ははっきりと言い放つ。
「中止だ」
「なぜです!?」
「これ以上は、我々の手を出していい範囲ではない。今回の調査結果が、最後の警告だと告げている。これは、私たち人間が、容易に足を踏み入れて良いことではないんだ」
険しい表情で、今後について話し始めた男性の心には、大きな不安と恐怖が居座っていた。このまま調査を続けていれば、きっとこの場の全員は、遺体となり見つかる羽目になる。
ならば、少なくとも、生きる道を選ぶべきだ。
「よってこの計画は中止とする」
これでよかったのだ。
依然として震える拳をズボンのポケットに入れたまま、男性はもう一度、天井に貼られた世界地図を見上げて、ある詩を小さな声で語り始めた。
その小さき子らが、母の怒りを身に背負いて
数多ある命の波となり、子なる地を伝いて、
天を穿つ。
その淡く、大きな子らが、父の威を胸に抱き、嘶く光となりて
子なる地を伝いて、母なる
御子なる地、母と父の諍いにより身を削られたり。
御子、これを受け、父と母に怒りを抱きて、
ああこれぞ、命の生み出したるとき。
我ら、人の生み出されたる時なれば、数多の産声が、血の中より沸き立つ。
これぞ、全ての命が生まれし歌…
全ての、命の、波の歌…
声あるものの、唄う歌…
美しく果てなき声もつ、偉大な
『
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