僕の彼女

僕の彼女

 窓の外は目が痛いぐらいに真っ白で明るい。晴れ渡った空の光を降り積もった雪がこれでもかと言わんばかりに反射させて、僕の目を攻撃してくる。

「くそっ、どうして今日に限って」

 ホテルのロビーは平日の昼間だというのに人で溢れかえっている。カフェもロビーも飽和状態だ。窓の外の大きく拓けた雪原が目にも静かなせいか、室内のざわつきが際立って不愉快だ。

 窓に向いたソファに座り、イライラとフロント係が戻ってくるのを待っているのだが、一向に戻ってくる気配がない。昨夜天気予報を裏切って大雪が降り、宿泊客もホテル側も予想外のことに戸惑い、慌てているのだ。

 かくいう僕は、天気とは関係ない理由で込み上げる悪態を飲み込むためにきつく口をとじている。携帯をいじっているうちに、また僕の自制心を上回る苛立ちが沸き上がった。

「なんなんだよっ」

 ついでに舌打ちまで飛び出した。

 隣にいた小さな女の子が、僕を凝視している。そのさらに隣の母親は困った様子で、ガイドブックを開いてあれやこれやと今日の観光プランをホテルの人に相談している。

 僕の今日の予定は、恋人とこのホテルのランチを楽しみ、すぐ近くのガラス工房でコップ作りを体験して、そのあとは少しのんびり散歩したりして過ごす。夕食にはそれなりのレストランで食事をしてこのホテルで一泊だ。残念ながら彼がついて来るだろうが、仕方ない。彼は僕の次に彼女にとって大切な人だから。とにかく、大事なのはその夕食の席でプロポーズをしようと思っていることだ。鞄の中の指輪の箱を確認する。彼女の喜ぶ顔が浮かんだ。一緒に入っているナイフがちらりと眼に入り、思わずため息をついた。彼女が興奮しすぎないといいけど。

 つい二か月前まで、彼女は僕につれなかった。僕は一か月かけて急に態度を変えた彼女を説得し、話し合いを試みてきた。彼女が話し合いの場に親やほかの男を連れてきたりしたときは、込み上げる怒りを抑えるのに必死だったけれど、僕は怒りを飲み込んだ。何度もメールや電話をして、仕事終わりに時間を割いて彼女の元へ通った結果、彼女が仲直りに応じてくれて、僕に微笑んでうなずいてくれた。そして、ここ一か月はまた良い関係に復活できたのだ。

 怒りを抑えるために、僕は携帯で撮った彼女の写真を見ることにした。

 振り向いた彼女。

 和服を楽しむ彼女。

 カフェで女友達と笑い合う彼女。

 公園で珈琲を飲む彼女。

 電車を待っている彼女。

 僕は画面に映る彼女に向かって、微笑んでみる。彼女と会うというのに怖い顔をしているわけにはいかない。

 プロポーズには彼も協力してくれるだろう。夕食の前になんとか彼女の目を盗んで、彼と二人で男の話し合いをして、プロポーズ前に退席してもらわないと。彼だって彼女の幸せを願っているだろうから、快諾してくれるはずだ。二か月前までは彼の存在も、彼女とのいざこざの種の一つだった。何度話し合っても、彼女は彼が大切な人だという意見を変えなかった。だから、彼と会うときは必ず僕も同席するということで許可した。実際、彼は悪い奴ではないし、彼女となんの接点もなかったら、いい奴だと思っていたと思う。だから彼女が大切な人だと言うのも分からなくはなかった。けれど異性と二人きりにするなんて、どんなに彼女を愛しているとしても、やはり嫉妬してしまうし、彼の方が変な気を起こさないとも限らない。でも寛容さも示したい。だからその間をとって、同席という条件のもとで今後の交流を認めた。

「お客様、お待たせいたしました」

 対応が遅く、こちらの言うことをまるで理解しない、一目で相手に冴えない印象を与えるような男のフロント係が戻ってきた。隣の母親の対応をしている女性のフロント係は愛想よく、話も明快だ。この母親は当たりくじを引いたわけだ。そして僕ははずれだ。

「本日の予約を再度確認したのですが、お客様とお連れ様の当ホテルでのご予約は確認できませんでした」

「そんなわけないだろ。十一時半に十三階のきし田で懐石のランチコース、それから二名でスイートルームを予約してある。チェックイン後にガラス工房までのタクシーだって手配をお願いしたはずだ」

「生憎、きし田含めすべてのホテル内のレストラン、そして予約センターにも確認しましたが、ご予約がないようなんです」

 さっきは何かの手違いかと思った。確認してくるというから、すぐに解決すると思っていた。大事な日の始まりからつまずいてしまったのでイライラしていたけれど、最早イライラでは済まない。もうすぐ彼女が来てしまう。

「お名前だけではなく、電話番号でも検索してみたのですが生憎確認できませんでした」

 男は心底申し訳なさそうに眉を下げ、生唾を飲み込んだのが喉の動きでわかった。僕はイライラが怒りに変わりそうなのをなんとか押しとどめて口を開いた。

「じゃあ、彼女の母親が予約したかもしれない。番号と名前を教えるから、もう一度調べてもらえる? 予約に遅れちゃうから早くしてね。彼女より先に席についておきたいんだ。分かるよね?」

 こめかみの血管が爆発しそうなぐらいに怒りを抑えて、ゆっくりと馬鹿でもわかるように一言一言はっきりと言ってやった。男が差し出したメモ帳に彼女の母親の名前と電話番号を丁寧に書く。誰が見ても見間違えないように丁寧にきっちりと。

「かしこまりました。もう一度確認してまいります」

 男はまた唾を飲み込んで立ち上がった。僕は血管が爆発しそうなほどの怒りを吐き出すようにため息をついた。なんてホテルだ。高い値段をとるくせに、気が利かない。有名なことに胡坐をかいて、手を抜いているんじゃないか。

 まぶしすぎてイライラを刺激する雪景色から目を逸らして、はずれくじ男を目で追った。はずれくじ男は、すぐに裏に引っ込んでいった。あちこちに確認するのだろう。時計に目をやると、きし田の予約時間まであと二十分を切っていた。幸いにもフロントにはまだ彼女の姿はない。はずれくじ男か彼女か、どちらが早いかはもはや賭けだ。落ち着くために深く息を吐きだした時、隣の女の子が抱きしめたぬいぐるみ越しにまた僕を見ていた。口元のほくろが彼女に似ている。僕は思わず声をかけていた。

「かわいいぬいぐるみだね」

 女の子はうなずいた後に、ちらりと隣の母親を見ている。見知らぬ人と話してはいけないと、きつく言い含められているのだろう。

「いきなり雪が積もって、びっくりだよね」

「でも、たのしい」

 彼女は遠慮がちに僕にそう答えた。僕も同意してうなずいた。

「僕の育った町は、雪がほとんど降らなかったから、積もらなくても降ってきただけでわくわくしたなぁ。雪ウサギとか作ったことある?」

「去年つくったよ。目にするものが石しかなくてこまったの」

「赤い目のうさぎさんが好きなの?」

「うん」

 母親が僕に気づいて小声ですみません、と謝ってきた。

「いえ、返事待ちで暇だったので。予定外に待たされてイラついていたんですが、かわいい娘さんとお話しできてなんだかほっこりできました」

 僕がそう言うと、母親の方は安心したように微笑んだ。

「急な雪で困りましたよねぇ」

「まぁ綺麗ではありますけど」

 僕は苦笑してそう返した。僕が困っている理由は雪なんて関係ないのだけれど、話し出したらまたイライラしそうなので話を合わせておく。女の子としばらく話していると、はずれくじ男がフロントから出てきた。

「お待たせいたしました。お連れ様のお母さまのお名前で予約が確認できました」

 僕は怒りがしぼんでいくのを感じた。はずれくじ男に寛大にも微笑みかける。

「僕が最初から予約した人を調べておくべきでしたね、ご面倒おかけしてすみません」

「いえいえいえ、こちらで可能性を考えて伺うべきでした。お時間かかってしまい、申し訳ございません。きし田に確認したところ、もうお席の準備はできておりますので、すぐにご案内いたします」

 横の母娘が笑顔で会釈してきたので、こちらも会釈を返す。予定通りに動き始めたので、今度は無理なく笑顔が湧き出た。

「お荷物は私共がお部屋にお持ちいたしましょうか」

「いえ、大丈夫です。大切なものが入っているので」

 鞄は大きくないし、何より大切な指輪や、不測の事態に備えて準備したものが入っているから手元に置いておきたかった。はずれくじの男はそれ以上深追いせず、出した手をひっこめた。

「それよりサプライズで色々用意したいので、僕が先にレストランに入っていることは伏せてもらえますか」

「かしこまりました。フロントスタッフに周知させておきます」

 男は歩きながら、僕に向かって軽く頭を下げた。


 きし田は、予想どおりの素敵な雰囲気のレストランだった。窓が大きく、景色が素晴らしい。店内に飾ってある器や小物は職人の手作り。照明は和紙を使った独特なデザインのものが多く、店内は柔らかくて静かな光に照らし出されている。和装の女性がはずれくじ男に代わって席に案内しながら、職人やデザイナーの説明をしてくれた。なんとなく背筋が伸びる。この店はミシュランの星はとっていないようだが、評判が高くいろいろなところで取り上げられている。

 窓際ではないが、窓から二列目、お店の真ん中の席だ。二列目は一段高くなっていて、十分景色を楽しめるようになっている。奥に個室があるらしいが、この雪景色が臨めるなら、この席で正解かもしれない。

「ご案内の際に御迷惑をおかけして、大変申し訳ございませんでした」

 腰から背筋の伸びた、美しい姿勢で頭を下げてくれた。何事もうまく行き始めてしまえばどうでもいい。過去より未来だ。

「彼女をプラン通りにスムーズに楽しませたくてこちらも苛立ってしまって」

「お連れ様はもういらっしゃっているんですか」

「いえ、もう来るのでお店で出迎えて、驚かせてやろうと思って。今日夕食でプロポーズするつもりなので、色々ともてなしたくて。そうだ、チェックアウトで払うので、何か簡単な花とか用意できますか。ホテルの花屋かショップで彼女に似合うものを用意するつもりだったんですけど時間なくなっちゃったから」

 本当はフロントやコンシェルジュに言うべきだったんだろうが、はずれくじ男に係わってもらいたくない。それよりもこの和装の女性の方が頼れそうだった。

 相談しているうちに、入り口に彼女の姿が見えた。僕はすぐに立ち上がって手を振った。予想通り、彼もいる。彼女は美しさが際立つすみれ色の着物を着ている。昼食後にチェックインして部屋で散歩用に洋服に着替えるつもりだろう。僕は美しい彼女の姿を目に焼き付けた。彼はカジュアルなスーツ姿だ。細身のネクタイが似合っていて、彼のスマートさを強調しているのが憎らしい。

 僕が手を振ると、店員さんが微笑ましそうに眼を細めて彼女を見た。

「可愛らしい女性ですね」

 そう言いながら手元の小さな手元のバインダーを確認している。

「三名様でご予約ですか」

「いえ、二名です。彼はすぐに席を外すので人数に入れなくて大丈夫です」

「かしこまりました。では椅子をご用意いたします」

 彼女に視線を戻すと、彼女は驚いたように固まり、入り口で立ち止まってしまっていた。彼の方は一瞬驚いた後に、素早く僕の方に歩み寄ってきた。サプライズ成功だ。しかも彼だけ先に来てくれたのは都合がいい。

「なんでここにいるんだ」

「なんでって、彼女が予約したからに決まってるじゃないか」

 彼のおかしな質問に、僕は笑顔で答えてやる。彼はいつもずれている。いい奴なのは確かだが、彼女を煩わせるので手が焼けるのだ。

「お前が予約したんじゃない」

「そうだよ。彼女のお母さんが僕らのために二名で予約したんだ。だから僕が来た。何かおかしなことはある?」

「お前、警告されてるだろ」

「それは君が彼女を独占したくて、でっちあげただけだろう。今日は大切な日なんだ。明日以降はいつでも付き合ってやるから、今日は控えてくれないか」

「お前、いい加減に」

 彼が声を荒げかけたところで、店員さんが近寄ってくる。

「お待たせいたしました。椅子ご用意いたしました」

「あ、すみません。でももう帰ってもらうんで大丈夫ですよ」

 僕がにこやかにそう言うと、彼が怒って赤くなった顔で口を開きかけたときに店員さんが遮った。顔を近づけて小声でささやいてくる。

「サプライズの協力でいらしたんですか? 確認したところ、お花すぐにご用意できそうです。三十分弱でお店の裏にご用意しておきますので、お声がけください」

「サプライズ? 何を」

「お連れ様をご案内しますね」

 茶目っ気たっぷりにそう言うと、店員さんは彼女の方に向かった。

 彼女は最初、驚きすぎて混乱しているのか首を横に振っていたが、やがて店員さんに案内されてこちらに歩いてきた。

「ユリ、俺に任せて外で待ってて」

「君、気軽に彼女の名前を呼ぶなって、前に言ったよね? 彼女は優しいから言わないだけで、不快がってる」

 現に近寄ってきた彼女は、不安に耐えるように眉間にしわを寄せて、一歩一歩踏みしめるように歩いてくる。

「どうしてここにいるの」

「君が予約してくれただろ。それで驚かしたいこともあったから先回りしたんだ」

 彼女の不安が収まるように、僕は穏やかに微笑んで彼女を見つめた。僕と彼女の視線の間に割り込むように彼が声を荒げた。

「ユリ、こいつに何を言っても無駄だ」

 店員が不審そうにこちらを見始めている。僕は店員に歩み寄って、そっとささやいた。

「騒がしくてすみません。実は彼は彼女のことが好きで、今日僕がプロポーズすることを察したみたいで阻止しようとしてるんです。何かうまいことを言って、お店から連れ出せませんか?」

 店員さんは何も言わずにうなずくと、彼に近寄った。

「お客様、事情を窺いたいので一旦外にお願いいたします」

 店員さんが半ば強引に促すと、彼はしかめっ面で店員と僕を見比べて口を開いた。

「何を言われたのかわかりませんが、あいつを信用しないでください」

「こちらではほかのお客様の迷惑になります。別々に伺いますので、まずはあちらにどうぞ」

 僕のことを危ない奴呼ばわりして、彼女と僕を二人きりにするなとわめき散らしている。僕は周りに謝罪しながら、席に着いた。彼女はまだ茫然として突っ立っている。

「このままだと周りにも迷惑だから、座ってよ。ゆっくり話そう。ごめんね、彼を阻止できなくて。驚いたよね。僕はまだ君が彼のことを大切に思っていると思ってたから放っておいたんだけど、次からは気を付けるよ」

「何を言っているの?」

 彼女は消え入りそうな小さな声を震わせて、しぼりだすように言った。まだ動揺しているようだ。

「私は、彼と、ここに来たの。あなたとではない」

「もちろんわかってるよ。彼がここまで送ってくれたんだろう? 嫌がってるなんて気づかなくて。悪かったよ。彼は君に付きまといすぎだね。そろそろ厳しく言っても良い頃だと思うよ。とにかく、もう安心して。ここに彼はいないから」

 彼女は入り口の方を振り返って、彼がいないことを確認している。僕は店員さんに温かいお茶を二つ注文した。温かい物を飲めば、彼女も落ち着くはずだ。

「違う」

 彼女が突然はっきりとそう言った。

「違う。違う違う違うっ」

 徐々に声が大きくなる。彼女は俯いて、立ったまま怒鳴るようにそう言った。

「ほっとしたのはわかるけど、そんなに大きな声を出しちゃだめだよ」

「ねぇ、お願い。わかって」

 僕は彼女が落ち着くように、ゆっくりとうなずいて見せながら鞄の中に手を入れた。彼女は興奮しやすく、落ち着かせるためには結局いつもこれを使うしかない。

「ゆっくり話そうよ。ほら、落ち着いて座って」

「いや、いやよ。もう無理なの。何度もそう言ったじゃない」

 声が緊張でどんどん高く大きくなっていく。仕方ない。こんな素敵なレストランでこんなものを出したくなかったけど。

 僕は鞄を膝の上に置き、彼女にだけ見えるように、そっとナイフの柄をちらつかせた。「座ってくれるよね? せっかくの日に、こんな素敵な場所で騒ぎを起こしたくないんだ」

「無理なのっ。わかってよ、もう耐えられない」

 彼女は興奮しすぎて、これが見えていないようだ。仕方ない。周りの席の人に騒ぎを詫びながら、僕も立ち上がった。店員さんもこちらに近寄ってくる。

「すみません、すぐに収まりますから」

 僕はそう言って、何度も周囲に頭を下げながら、ナイフを完全にカバンから取り出した。彼女もやっと甲高い声を飲み込んで口をつぐんだ。代わりに周囲の席から悲鳴が上がる。

「まったく、何度同じことを僕にさせるんだい? 興奮しやすいのはわかってるけど今日ここで騒ぎを起こさなくてもいいじゃないか」

 ナイフの刃を確認する。完璧に研いである。僕はナイフを持って彼女に歩み寄る。彼女がびくりと動こうとしたので、空いている手でその動きを制止した。

「暴れないで、座って。君がわかってるのと同じくらい僕もわかってる。何度も君を守ると言っておきながら、守り切れなくて怒ってるんだよね。今日も彼との時間が不快だったんだろ?」

「わかってない。あなたは何もわかってない」

 彼女はようやくいつもと同じぐらいの声の高さに戻った。

「君のためにこんなことをするたびに僕は変な目で見られるんだよ。すみません、本当に騒ぎになっちゃって。大丈夫なんです。暴力をふるう気はありませんから」

「もう、無理なの、耐えられない。あなたを見るたびに、もう苦しくて立っていられないほど怖いの」

 よく見ると、確かに彼女は震えている。

彼女は僕の思っていた以上に僕のことが好きなんだ。

不意に、僕は彼女の言っている意味が理解できた。彼女は僕のことが好きすぎて傍にいるのが苦しいのだ。そして、いつか僕らの関係が変わったり壊れたりすることが怖いのだろう。だから僕を遠ざけるために、嫌いな彼といっしょにいたり、付き合いに反対する両親を話し合いに連れてきたりしたのだろう。そういえば警察をつれてきたこともあった。とにかく僕が間違っていた。僕が浅はかだったのだ。

「ごめん、たしかに君のことをわかっていなかった。理解したつもりになっていたよ。一人でそんな風に思いつめなくていいんだ。僕も君と同じくらい君のことが好きだから」

「何言ってるの? 近寄らないでって言ってるの」

「ナイフを捨てろっ」

「その人から離れなさい」

 この大事な時に外野が余計なことを言ってくる。このナイフはあくまで彼女を落ち着かせるためのものなのに。そうだ、彼女のためなら命が惜しくないということを見せれば、彼女も安心して僕への気持ちに素直になることができる。そうすればあんな苦しい顔をしなくて済む。

 予定とは違うが、今ここでプロポーズをしよう。それが何よりも彼女への愛の表明になるし、それを永遠に誓えば彼女は落ち着くだろう。

 僕が右手で鞄を探ると、周りがざわついた。プロポーズがばれているのかもしれない。やっぱりレストランで正装して、指輪を取り出すなんてべたすぎるか。

「君の気持ちに応えるよ。受け取ってほしい」

 僕が鞄から指輪の箱を取り出すと、おかしいだのなんだのと外野がざわめいている。僕は外野を無視することにして、彼女に指輪を差し出した。

「近寄らないで」

「君に永遠の愛を誓うよ。結婚してくれるよね」

 彼女は感極まったようで、震えながら涙を流している。彼女を刺激しないようにそっと近づいた。驚いて彼女は固まっている。

「左手を出して」

彼女は驚きすぎて一瞬反応しなかったが僕の左手を見て僕の顔を見て、静かに左手を出した。僕は彼女の綺麗な細い左の薬指に指輪をはめた。ぴったりだ。

 抱きしめようとすると、彼女が抵抗する。

「怖いの、お願い。やめて」

「怖がることはないよ。君を何よりも大事にするし、だれにも近寄らせない」

「お前、一体なにやって」

 彼が店員とはずれくじ男や警備員数名といっしょに戻ってきた。連れ出してとお願いしたのに。このホテルは値段ほどのサービスは見込めないようだ。僕は再びいら立ちが沸き上がってくるのを感じた。

「ユリはお前の言うとおりに動く物じゃない。どうしてわかんないんだ」

「わかっていないのは君だよ。邪魔しないでくれ。彼女が泣き出したじゃないか」

 彼女は彼の後ろで怖がって震えている。やはり彼を怖がっている。僕は素晴らしい解決策を左手に持っていた。

「君のことはいい奴だって思ってる。でも君よりも彼女の方が大事なんだ、悪いね」

 僕は一応彼に詫びてから、勢いよくナイフを彼の腹に突き刺した。彼は驚いたように僕を見たが、倒れる気配がない。このまま中途半端では彼女にはもちろん、彼にも申し訳ない。僕はナイフを刺したまま、ねじってやった。お腹から血が噴き出すと同時にとんでもない悲鳴を上げて彼が崩れ落ちた。これでいい。これで彼女が笑ってくれる。プロポーズの日にとんだ邪魔が入ったものだ。

「ごめんね、今まで気がつかなくて。もっと早くにこうすべきだった。もっと早く君を守るべきだった。これは正当防衛だから、君が心配することは何もないよ。これから一生かけて君を、いや、もう僕の妻になるのだから名前を呼ばないとね」

 彼女は彼を見つめて、安堵のあまり大粒の涙をこぼしている。

「ユキ、今まで悪かった。僕がユキを守り通すことをここに誓うよ」

 神聖な彼女の名前を口にするだけで最高の気分なのに、こんな大勢の前で堂々と名前を呼べるようになった。彼女は泣きながら嗚咽を漏らしている。感激しているのかもしれない。また興奮したら困るので、予備のナイフを念のために取り出した。周りは悲鳴を上げている。きっと僕の勇敢な行動を褒めたたえているのだ。何人かが携帯で動画を撮っているので、僕は笑顔でうなずいて見せた。プロポーズも撮っていたなら、動画をくれないか聞いてみよう。

 彼女が落ち着くのを待っていると、いつの間にか彼を助けようとする、空気の読めない奴らが彼の傷を抑えたり、呼吸や鼓動を確かめたりしていたが無駄に終わったようだ。当たり前だ。彼女を怯えさせる人間が助かるわけがない。

 すると、彼女が彼に近寄っていく。安心して気が抜けたのだろう。ぼんやりした顔をしている。そして、彼の首を触り顔を触り、目をのぞき込み彼の死を確認しているようだった。彼の乱れた髪を優しい手つきで撫でている。彼にそんなことをしてやる必要はない。でも優しい彼女は死者をぞんざいに扱うことはできないだろう。僕は彼女の素晴らしい長所に感動していた。すると彼女が僕を見上げた。ついに彼女が僕のプロポーズの答えを口にする。答えは分かっているが、やはり言葉にしてくれたほうが嬉しい。僕は微笑んで彼女を見つめた。

「この半年、どこまでも逃げたのに、駄目だった。警察にも相談したし、あなたに直接言ってもダメだった。ここ二か月はほとんど外出もしなかったしインターネットすら使わなかった。それなのにあなたは何度も電話をしてきた。そして、母が安全のために私の名前も連絡先も一切伏せて予約してくれたのに、今もここにいる」

「もちろんだよ。君を守ると誓ったんだから、なんでも知っているのが当たり前だろう。この旅行のことは知ってたし、今日君のお母さんの名前を出したらすぐに教えてくれたよ。すれ違いもあったけど、一か月前に君は窓から僕を見てうなずいたじゃないか。僕と仲直りするって」

「私はあなたが窓の外にいたなんて知らない。あなたにうなずいた覚えもないし、何か月もあなたと話していない。それなのに大切な彼は私のせいで殺されてしまった。あなたに、殺されてしまった」

 僕はじっと彼女を見守る。

 彼女は彼のお腹に刺しっぱなしだったナイフを抜いた。流れ出ていた血の量が増えるが、もはや彼を見てすらいない。彼女は僕だけを見つめて近づいてくる。

「あなたの気持ちに応えてあげる」

 美しく微笑んだ彼女が近づいてくる。どこか吹っ切れたような笑顔は神々しささえ感じる。抱きとめようと腕を広げたが、彼女よりも先に何かがお腹の中に入ってきた感じがした。

 ナイフが刺さっている。

 彼女が、僕にナイフを刺している。

 もう一度彼女を見ると、彼女はやっぱり微笑んでいる。

「これが私の気持ち。そしてこれが私の答え」

 彼女は勢いよくナイフを引き抜くと、それを自分の首にあてがった。

「あなたのものになる可能性は一パーセントも残したくないし、妄想ですら許せない。私は彼のもとに逝く。絶対にあなたのものにはならない」

 彼女はさっぱりとした、晴れ渡った雪景色を背に微笑んだまま、微塵のためらいもなく自らの首を切り裂いた。すみれ色の着物が赤く染まっていく。彼女が倒れた瞬間に、突然周囲の怒号やサイレンの音が耳に入ってきた。世界はなんてうるさいんだろう。僕はお腹の傷を抑えて座り込みながら、美しい彼女の笑顔をずっと見つめていた。

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僕の彼女 @akira06

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