第1話

「おはよう」


 少女が目を覚ますと、枕元に腰かけていた少年がすかさず声をかけた。その声を聞くと少女はまた朝が来たのか、と思う。嬉しいのか悲しいのか憎らしいのか楽しいのか、そんなこと少女には分からない。

 

 感情を忘れた少女は、自分の抱いた感情を人に教えてもらうことでしか、その感情を知ることが出来ないのだ。


 少女は白い布団からゆっくりと体を起こした。服も布団も部屋の壁紙も全て白い少女の部屋に茶色く日焼けした少年が居ると、真っ白なキャンパスに汚い茶色い絵の具を垂らしたようで、少女の全てが茶色く染まってしまうのではないかと少年は危惧する。


 だから少年は唯一白くない、少女の真っ赤な唇と黒髪に異様なほど愛着を持っているのかもしれない。


「今日の朝ご飯は、おむらいすだよ」


 少年のその言葉で少女はおむらいすの味を思い出し、口角を上げた。差し出された少年の手に少女の手が乗る。


 少女の行動は全て少年が教え込んだことだった。美味しいものを思い出したら笑う。恋人に手を差し出されたら手を取る。


 少年が作り上げた少女の常識はなかなか様になっていて、二人しかいない世界の中では、所謂成功というものを納めていた。


 少年は、少女が少年に対して抱く感情は全て恋心から来ているのだと少女に教え、恋というものを具体的に教え、少女が少年に抱く正体不明な嫌悪感を好意ゆえの焦燥だと教えた。

 大切なのは感情の名前ではなく、感情が湧く理由だった。嫌悪感ですら恋心ゆえと刷り込むことで、少女を感情を持つ自分にとって都合の良いロボットにすることに少年は成功したのだ。


 少女は少年を信じ自分は少年に恋をしているのだ、と思い込むことで、少年が思い描く少年に恋する少女になっていった。


 けれど人間はどんな状況になっても人間であった。少女の心にはいつも違和感という謎の空白があった。毎朝少年の眼差しを感じて目覚め少年の手を握るたびに、少年の手に触れた少女の手のひらが、指の腹が、細胞一つ一つが冷えきってしまう。


 唾液の分泌を促すおむらいすを食べている時も、向かいに座っている少年のことを見ると何だか食道がキュッと閉まる心地がする。


――自分は本当に少年に恋をしているのだろうか?


 その問いの答えを知る手段は、少年に尋ねること以外少女にはなかった。少年に見られると感じる息の詰まる心地を、恋と言う言葉で片づけてしまうのはあまりにも軽率なような気がしていたのだ。


 けれどいつも心の中にあるこの疑問を、自分に優しい眼差しを向ける少年にぶつけることを、なぜか少女は避けた。それは無意識に少女が少年の恋心を察知していたからかもしれないし他に、少女にそうさせる原因となっている過去のかすかな記憶が少女の中にあるのかもしれない。とかく少女は謎の空白によって、常に心に靄がかかっているような状況だった。



 少年は一か月に微々たる小銭を稼ぐほどの絵描きであった。少年と少女が住む大きな家の日当たりの悪い奥の一部屋が少年の絵を描く場であった。少女は絵のモデルになるときだけ、その部屋に入ることを許されていた。


 少年がキャンパスに向かっている時、少女は一ミリたりとも動くことなくその場にいることに努めた。


――まるで古く昔からの習慣のように。


 少女のその姿は人形の様で、部屋には少年が動かす鉛筆の音だけが響いていた。


「鉛筆を削る時、絵を描いて鉛筆の芯がすり減っていく時、僕は自分の命を削っている気分になるんだ」


 少年は鉛筆の動きを止めずに言った。


「削り終えた鉛筆の鋭利な形はとても美しい。けれど美しい君を描いていくと、キャンパスにいる君が美しくなっていくと共に鉛筆は段々丸みを帯びて美しくなくなっていく。

 まるでキャンパスの君が、鉛筆の美しさを吸い込んでいくようだ。キャンパスの中の君を、美しい君に近づけたくて僕はまた鉛筆を削る。自分の命が削られていると知りながら」


 はぁ、とため息をつき少年は鉛筆を止め、丸くなった芯をじっと眺めた。


 そして鉛筆を持ったままのっそりと立ち上がり、人形のように座っている少女に目線を合わせるためにかがんだ。


「美しいね」


 少年は少女の曲線美を描く頬を撫でるように触れて言った。

 ビー玉のように澄んだ少女の瞳が、コロンと転がって少年を捕えて、少年の中の鉛筆の芯を丸くする。その瞳に魅入られた瞬間、少年は重罪を犯している気分になり思わず少女の頬から手を離した。


 そして自分が触れてしまった後でも美しいままである少女の姿を見て安堵し、少女の長い黒髪を一束手に取りそっと口づけをして、またキャンパスの前へと戻った。


 キャンパスの少女を再び見た少年の、鉛筆を握る手に力がこもった。少年の顔から、さっきまでのキャンパスへの優しい眼差しは消え去る。


「ダメだ!」


 そう言って少年は、鉛筆を思い切りキャンパスの少女に突き刺す。


「きっと僕の命を全て削ったとしても、君の美しさは表現できない」


 少年は今まで一度も少女を思うままに描くことが出来なかった。そのたびに少年はキャンパスの少女に鉛筆を突き刺していた。気に入らないキャンパスの中の少女を排除しようとする少年の眼差しは、一度も少女には向いたことはない。しかし少女は絵のモデルとなり、毎回同じ結末を迎えるたびにその眼差しが不思議と自分へ向いているような感覚に陥るのだ。


「何かが足りないんだ……」


 少年は頭を抱え俯き呟く。その苦しそうな少年の様子を少女は理解できずにいた。キャンパスの絵は自分に似た姿をしていたし、少女から見れば、むしろキャンパスの少女の方が自分より美しかったのである。


 色のないモノクロのキャンパスの少女は悲しそうな面影を残し、少年に鉛筆を刺されたせいで死んでしまったようだった。作品は作者に嫌われた瞬間に、その輝きを無くす。


 命が削られているという話はあながち間違いではないのではないか、と思うほど少年は意気消沈していた。


 男は自分の恋した女を美しいと勘違いする。そしてその勘違いに気づかないように、自分の理想と現実のギャップを味わわないように、男は女に美しくいることを要求する。

 

 男のその本能を知っている女は、自分の男を離さないよう美しく可憐で柔順な女を演じ、男を手玉に取る。あたかもその男に愛されて嬉しいと思っているかのように、その男に染まって美しくなっていく。

 

 そして時に他の男へと移ろいでいくこともある。その姿は、蜜を求めて花を渡り歩く蝶の様だ。もちろん男が現実に気づき、他の女に気持ちを移すこともあるが。


 男は女の芝居には気づかない。気づいたとしても、その芝居にすら酔いしれる。


 男はこの世の中で一番馬鹿な動物だ。

 女はこの世の中で一番賢く意地汚い動物だ。その汚さを隠すために、女体はとても美しい。


 けれど、美しさの中に愛があるのかどうかは謎である。その証拠に美しい蝶はいつまでも愛を求め続けて満足することを知らない。


 けれど少女はまだ一度も汚れてはいなかった。

 穢れがなく、汚れを隠す必要のない中で存在している少女の自然の美しさは、この世のどんな風景よりも芸術家である少年の心を躍らせた。


 誰の為にも生きていない利己的な少女は、この世の中で最も人間らしく何とも言えない儚さがあった。まるで強風の中で揺れ動く蝋燭の火の様だった。


 その美しさを思うように表現することが出来ない芸術家の苦しみは、少女には想像することもできまい。


 立ち上がった少女は、俯いている少年の元へ行った。少女は自分の行動で少年に幸福感を与えられることを知っていた。だから少女はお決まりの結末の最後には、労りという花を少年に渡し少年を大きな不幸から救うのだった。これは少年が教えたことではなく、本能的に少女が身につけていた技であった。


 その花の美しさで少年はまた描く勇気を得ることが出来る。

 俯く少年の肩に少女の白い手が乗る。少年が顔をあげると優しく微笑む少女の顔があった。


 少年の恋の苦しみも悲しみも、芸術家としての苦悩も知らないからこそ少年に向けることが出来るその表情は、どんな救いの言葉よりも少年の心に光を与える。


 少女のあまりにも純粋な心に触れた少年は、少女の手を取り自分の苦しむ姿を見せてしまったことを後悔しながら部屋を後にするのだった。少女が与えた幸福感は、少年の自己肯定感の低さによって忌々しく根を張り少年の心に居座ったキャンパスの少女を、いとも簡単に追い出す。

 もう少年の中には、キャンパスの少女の影すら残って居なかった。

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愛別離苦 狐火 @loglog

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