第58話 レイニークルーズ

 緊急事態宣言解除後、二回目の土曜午後、男が愛用のピンロック付きクリアシールドに入念に曇り止めを塗布している。後ろではいつもは抑揚のない声のアナウンサーが、ところにより激しく降る、と語気を強める。ヘルメットに装着されたインカムのインジケーターが赤からブルーへ変化したことを確認した男は充電ケーブルを引き抜いた。


 そして万が一のためビニールで覆われた少しの荷物を完全防水タイプのバックパックに仕舞う。服装もプロテクター内蔵のジーンズに穿き替え、シャツの上には電熱ベストを装備する。水の侵入を考え電源にはポケットに隠れるモバイルバッテリーを用いる。更に体を守るための装甲が施されたジャケットを羽織ると最後にウォータープルーフクロノグラフの針を電波時計に合わせた。


 ガレージのシャッターを解錠する。そのまま薄いスチールを引き上げると照明のスイッチに手を添える。明かりが灯ると艶めかしいメタリックレッドの車体が浮かび上がる。


 キーを挿し、白いLEDのもと、一通り点検を行う。異常なしと判断するとシートを持ち上げETCカードを差し込む。こんな天候では背中は空けておきたいのでバックパックをツーリングネットでシート後部に固定する。


 前回使用後、完全に乾燥処理、メンテナンスされていたレインギアがあらかじめ用意されている。男はそれをまとうと前日にガソリンを満たしたため幾分いくぶん、重くなった愛機を出庫する。ガレージはシャッターを下ろし厳重に施錠する。サイドスタンドを払う。例によって住宅街と反対側の路側帯に到達すると男は燃料コックをプライマリに動かした。


 キャブのフロート室にガスが充填される。男はコックをオンへ戻しカタナ特有のチョークダイアルを引く。次いで機体を垂直に立てスロットルグリップを数回、往復させるとメインスイッチを導通させた。


 水滴を弾く計器のバックライトが命を宿すかのように点灯する。日光が射し込まないせいか電球色のLEDが明るく感じられる。間を置かずスターターボタンを押す。一秒かからずエンジンが始動した。


 再びサイドスタンドに頼ると男はレブカウンターを見守り針が低い位置に移動したことを確かめチョークダイアルをオフにする。アイドリングは安定している。好調のあかしだ。雨音と自車のサウンド以外が空気を震わせない中、ギヤをカタンと鳴らすと男はクラッチをミートした。


 数分でインターに達した男は加速車線を脱し東を目指す。カタナのスクリーンが水膜を切り裂く。フルフェイスとレインスーツも水に打たれる。当然、路面コンディションは良くないので速度規制を知らせる電光表示に従う。跳ねる飛沫しぶきによる湿度が心地好い場合もあるが今日は重い。


 天気に関わらず週末なので通行量は多い。この状況でも二輪車に対して車間を詰めてくる無知なドライバーが存在する。男はブレーキレバーに指を載せ形だけのポンピングで制動灯を介し警告する。予定通りの時間で目的のインターへ到着した。港島みなとじまへ向かうため左折する。島への経路としては手前のランプで逃げ浜手はまてバイパスを利用するパターンもあるのだが男はここを選んだ。理由は雨の税関を見たい、それだけだ。


 信号が青になった。新交通システムを横目に橋に合流する。二層構造の橋梁が雨粒を遮断する。


 島内へ入る。道に沿って右に流れ南下する。相変わらず開発が進んでいないエリアに差し掛かると男は左へ折れ空き地の中にそびえる最新の建築物に近付く。


「目的地に到着しました。案内を終了します」


 インカムのドライなボイスが響く。駐輪区域でカタナを傾ける。イグニッションを落とす。ネットをほどき鞄を手にすると夜間休日入り口へ足を運ぶ。建物内部を汚してはならないので雨具を脱ぎ丁寧に畳み袋に収納の上、傘立ての横に置く。インターフォンを押し用件を告げる。


 職員が現れた。赤外線温度計をかざされ入棟を許可された男は総合受付前で待つ。約束の時刻、五分前に呼ばれた。


「ウェブ面会の方、お見舞いの品などありませんか?」


 男は薄い小説を数冊と珍しい花の図鑑、新聞、雑誌、短い手紙を渡した。安全のため食品と生花、セキュリティのため金銭、貴重品の授受は禁止されている。


 更に数分、柔らかいトーンがいざなった。


「面会の方、どうぞ。五分丁度で終了です」


 トーンは柔らかいが付け足された時間制限が強調されている。


 受付横の小部屋に通された男が指定された場所に座るととどこおりなくカメラのセッティングが行われモニターに親しい人物の顔が映る。


 ウェブと呼称するからには各家庭、職場などから直接、繋げてくれれば良いのだが。男の願いは届かない。


 最初の一言が発せられる。


「あなた誰?」


 普段、寡黙な男が言葉を並べ説明する。


「あら、分からなかったわ、ごめんなさい」


 ほっとした男は体調を気遣う挨拶を述べたのち、お互いの近況などを話そうとしたところで止められた。


「五分です」


 肩に触れられ別れもままならず席を立たされる。


 部屋から出て首から下げていた面会番号の札を返却すると男は来た時とは逆の順序で廊下を辿りギアを身に着けカタナの横でうつむくく。


 暫くして顔を上げた男は未だ暖かいモーターに鼓動を返し帰路に就いた。


 橋を越え坂を下り、インターに達する直前、左に寄る。トランスミッションをニュートラルに解放し空を見上げる。歴史を語る壁を視界の一部に天の涙がコツコツと防具のシェルを叩く。


「雨……」


 僅かな空白を挿むと男はカタナとともに都市高速へ針路を取った。


 雑多な感情が狭い高速を抜け西へ伸びる自動車専用道路を行く。雨がむ。地平線が明るくなる。


 三時間ほど前に進入したインターを降りると夕陽が顔を見せた。早朝でも営業している物好きなマスターの店は休日の夕方でもやっている。


「また走ってたのかい。いつものでいいね」

「いや、今日はカレーを」


 ここのカレーはちょっとだけ辛く、ブラックが付いている。トマトが添えられているのも変わりない。


 スパイスが沁みる。BGMのない店内は依然、雨音が続いているような気がする。


「彼女は戻ってこられるのだろうか」


 コーヒーを飲み終えると男は軽く頭を下げた。


「ありがとうございました」


 また日常が始まる。





(注意) モデルとなった病院では現在、ウェブ面会も含めて面会は行われていません。

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