第57話 蒼の洋刀

 季節が移るのは速く二月も余すところ僅かとなった。地球温暖化のせいでもないだろうが明るい声の天気予報がコートは要らない、と伝える。四月下旬の気温だそうだ。


「山の上も大丈夫だね」


 信号待ちでスマホを叩いていた制服が天を仰いだ。


 その予報が的中した翌日、レーシングスーツをまとった少女がコンパクトながら瀟洒しょうしゃな住宅を出る。両親が兼用するファミリーカー用ガレージの一角に間借りさせてもらっている愛機が眩しい。港街に似合うブルーメタリックが午前の陽射しを受け輝いている。クルマにも壁にもこすらないように慎重に機体を正面道路に導いた彼女は、いつもの知のように表通りまでバイクを押しイグニッションを入れた。


 シングルのビートが早い春の空気を震わせる。慣れた手つきでルーティーンの点検を終えた彼女はオイルクーラーに皮膚を当てる。熱を感じ取った彼女はアイドリングが安定したことも確認しスロットルを開いた。


 もうお気付きだろう。油冷シングルに知から習った始動儀礼。そう、少女とは久だ。習ったのは始動だけではない。当然の如く「表」を駆けのぼる。


「気持ちいいー」


 久を上機嫌にさせているのは天候がもたらした暖かな空気だけではない。跨るNZRが奏でる最高のサウンドも一役、買っている。決して寒波の狭間を狙ったわけではなかったが、NZRは今週、例の店長によって入念に整備調整されていた。エンジンではキャブは抜かりなくテンショナーからカムタイミング、バルブクリアランス。加えてシグナルジェネレーターから点火タイミング、プラグギャップ。足回りでは通常の保安関係は無論、ダンパーの減衰力やスプリングの反発力と自由長。それらが作動した状態でのキャスターやトレールなども含むアライメントまで想定され手が入れられている。店長曰く、全体を診る、そうだが久にはよく分からない。分からないが、その腕には絶対の信頼を置いている。


 ウォーミングアップを終えた久が丁字ヶ辻ちょうじがつじを左に折れる。折れて若干、進んだところで久は左足を着いた。サイドスタンドに車重を預けシンプルなモーターの火を落とす。森の木々を揺らす穏やかな気流が唯一露出した首を撫でる。時計の針がゆっくりと回っていく。


「来た」


 遥か前方、低いであろう地点から特徴ある高周波音が届いた。潮は満ちたようだ。暫く待った久は白色高輝度のLEDを認めると休憩を与えていた愛馬に鼓動を返す。


 一旦、後方で小さくなり消えた連続音が再び大きくなる。久はスタンドを蹴り上げクラッチをやや乱暴にミートした。


 背後に赤い小刀が付いたことを察知した久がブレーキランプを二回、灯す。モードチェンジの合図だ。クリアードフォーテイクオフ。二機に接続されたカタパルトの蒸気が噴出する。


 前を取った久がキレる。その姿はひらりと舞う蝶のようだがスピードは最早、昆虫の領域にはない。下りも味方に付けNZのキャッチコピー、アベニューの反射神経、フライ感覚が遺憾なく発揮される。灼眼も負けてはいない。重量で不利な小刀を名にたがわず軽々と振るう。


 とはいえ、ご存知の通りの実力差だ。経験、知識、技術、全てで卓越した灼眼が間もなく久をかわすだろう。そううかがわれた。が、なにかが違った。コーナーを数える度、カタナがNZRに後れを取り始める。


 カタナの制動灯が光るも久は構わずノーブレーキで深く先行する。久はミラー越しにフェードしそうな灼眼の目を捉えるとブレーキレバーとペダルに触れ呟いた。


「文明の利器は使うっすよ、教官」


 店長によって万が一の時のために取り付けられたABS(注1)を用い鬼のような減速が成される。この段階である程度、車間が増すのだが、コーナリング自体でも二体は遠のく。灼眼は曲線での手綱捌たづなさばきで遅れた分、立ち上がりをパワーで凌いで、なんとか付いて行っている。ライダーズハイなのか。久の神経は相当、危ないものにキメられているようだ。


 ギャラリーゾーンが近い。少し遅いが年が明けての走りめだ。人も集まっている。


「あの音、あおのナイフだ!」

「来るぞ」


 小型のハーフカウル二つが顔を現す。


「灼眼が追ってる、なんか差がある」

「嘘だろ。どうやったら、あんな原二紛げんにまがいで彼奴あいつを抑えられるんだ」


 今日の久には躊躇とまどいがない。勢いよく観客の前へ突っ込みタイトな弧を斬る。


「おい、アプローチでカタナを引き離したぞ!」

「ターンインでも旋回でも更に離してる!」

「パねぇ」


 スポークで構成された銀輪が木漏れ日を弾く。久が先を行き時間差で底部を覗かせ抜けていくマシン達は新年の幕開けに相応しい官能的エグゾーストを残す。


 ここを過ぎるとタイトなダウンカーブの連続となり、軽量なNZRがより有利となる。だが物理的にアドバンテージを得られるセクションに入っても小刀のマークは外れない。単に今回の灼眼はスロースターターだったのか。


 乗れている久も加速で追い付かれるのを理解しているので焦りを感じつつあった。そこへ灼眼が煽りを入れる。パッシングが炊かれた。


 久の左親指がターンシグナルスイッチの右に伸びる。


「流石っすね、教官。ふっ」


 次の瞬間、ABSが解除された。電子を介する制御からき放たれたブレーキが前後は勿論のこと、上へ下へ、右に左に、自在にNZRを躍らせる。令嬢のダンスは背中を大きく傾け舞踏会場の磨かれた床に限りなく近付く。


 もともとNZ250Sは左右のステップ間隔を二十四センチジャストとクラス最小に設定し五十一度ものバンク角を持たされている。ノーマルでも深く寝る素体をベースにコーナリングに特化したとも言えるモディファイを施しているのだ。ライダーが要求すればいくらでも倒れてくれる。しかし欲望の赴くまま利用すれば乗り手もろとも吹き飛ぶ爆弾チューンであることに変わりはない。


 信管の安全装置を外されたNZRが逃げる。ブリッジが暴れる。タイヤが鳴く。路面により金属が切削される。自ら、じゃじゃ馬としてしまったパートナーを姫君ひめぎみはねじ伏せる。


 ゴールが近い。NZRが隙を見せず状態を維持すれば勝利は久のものとなる。先ほど仕掛けた灼眼はチームオーダーを出されたかのようにNZRに追従している。久は短いストレートで後ろを振り返った。真っ直ぐに、こちらを見据える後続者の表情は笑みをたたえているように思える。


「なんだか分からないですけど、もらいましたよ教官!」


 久が灼眼を従えコントロールラインを踏んだ。両者スローダウンする。左手で小さくガッツポーズを作った久が植物園玄関に近寄り停車する。くれないのパイロットは同じく左手で親指を立て久を祝福した。彼はそのまま風を伴い去る。


 久はNZRを降りるのを忘れ両腕を下げうつむいている。視界が滲む。異常な陽気でスクリーンが曇っているのだろうか。


 数分後、汗の揮発により体温が奪われたことを感知した久は顔を整え428へ向かった。


 ガレージは通常運転で知と店主がカウンターを挟んで無駄話をしている。軽やかに接近する単気筒の音色に二人が微笑む。玄関の鐘が鳴った。突入した元気玉が炸裂する。


「知さん、教官に勝ちました!」

「はいはい、分かりました。おめでとー」

「もう。嘘じゃないですって! 本当に勝ったんです!」


 なお、この時の久は未だ知らない。当日におけるカタナの走行が大人の対応であったことを。そしてバトルさえ行われていなかったことを。





注1: ブレーキフルード、ブレーキオイルの圧力制御によりタイヤの滑りを防止する装置をAnti-lock Braking System、略してABSと呼びます。通常、急ブレーキ時に効果的に働き減速、停止するまでの距離、制動距離を短縮します。ただし非装着車への新規装着は実際には困難です。本来、速く走るための減速に用いられるものでもありません。車輪のロックが転倒に繋がる二輪車への適用も難しく、2021年10月に新規販売車への装着義務化予定となっています。なお、ABSという呼称自体はドイツ語のAntiblockiersystemから来ています。


(いつもの注意) 言うまでもなく拙いフィクションです。公道は法規遵守で利用しましょう。また不必要な空吹かしなどは迷惑です。節度を持って乗り物に接しましょう。


バイク屋の店長は店にいる時は「店主」、店から離れると「店長」表記になります。会話文では基本的に「店長」です。

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