第56話 ブレッドビュレット
深紅の小刀がセンターライン代わりの地下鉄で隔てられた幹線道路を行く。シート後部には保温を目的とした発泡スチロールのボックスがツーリングネットにより固定されている。一般道を駆ける「彼」としてはかなりの高速だ。インカムを通して流れる取り締まり情報とレーダーディテクターの警報音に気を使う。ミラーでの後方監視も頻繁になる。しかし目指すのはいつもの「西」ではない。
街路へ出るランプが見えた。ターンシグナルを灯すと減速せず突入する。翼を傾けたカタナはタイトな弧を描くスロープを攻めるように
時を五時間前に戻そう。
彼はお気に入りのエプロンを
そして白い人工大理石のシステムキッチン天板にはもう三台目となったホームベーカリーの内釜が置かれている。冷蔵庫から鶏卵を取り出した彼は小数点一位まで計量可能なキッチンスケールに釜を載せ、スケールのボタンを押し窯の重量をゼロにする。準備が整い片手で難なく殻を割った彼は卵黄のみを釜に落とす。
続いて
スキムミルクと上白糖が加えられた
最後に小さめのサイコロ状にカットされたバターが静かに配置される。国内では最上級とされるカラピス発酵バターを惜しげもなく大量に消費する。
彼は、ここまでの作業を振り返りミスがないことを確認すると、数年の試行錯誤の上に完成したレシピと照らし合わせた。
文明の利器としては比較的、新しいキッチン家電に釜が据えられる。蓋を閉じた彼が大きさ、量をセットしスタートボタンを押す。と同時に減算モードに設定されたキッチンタイマーがオンとなる。電動機が唸り始めた。
二時間ほどネットを彷徨っているとタイマーが鳴った。二度目の発酵を終えた生地がガス抜きされる。彼はホームベーカリーを傾けボール状となった生地を釜の中央に持ってくると再びタイマーのボタンに触れた。
約一時間後、またタイマーの音が響く。それまで標準モードだったプログラムは解除され発酵モードとなった。彼は焼き段階寸前で膨らみ具合を確かめ発酵時間を延長したのだ。
「いいんじゃないかな」
焼き色を標準、時間は五十四分にして焼成を開始する。タイマーは一分、短く合わせたので忘れる心配はない。パンを冷ますクーラーとミトンも並べ、万端だ。
キッチリ五十三分後、アラームを黙らせた彼はミトンを着用し立ったまま腕を組む。ホームベーカリー本体のブザーが鳴った。蓋を開け釜を持ち上げる。
ダイニングテーブルの上に設置されたケーキクーラーに「中身」が舞い降りる。焼き具合は上々だ。小麦の薫りが香ばしい。
僅かな時間、放置されたカラピスバターパンがスライサーに移動する。極端にソフトな焼き立ても物ともしない特殊なブレッドナイフが横に滑る。機械切りと言われても疑えない六枚が流れるようにキーパーに収納される。昨晩オーブンで手焼きした桜あんパンも用意されている。こちらは桜の葉のミンチを贅沢に使用した春を運ぶパンだ。
熱を逃がさないよう手際よくスチロールにくるまれた成果物を横に器具のコードを抜く。
玄関を施錠すると階下のガレージに向かう彼。通常より短時間の点検を施された愛機を表通りに引き出し火を入れる。
暖機を終えた彼は普段と変わらない排気音を残し去っていった。
「現在」へ帰る。
信号を左折したカタナは加速せず法定速度で慎重にラインをトレースする。スクールゾーンに入ったからだ。先ほどまで攻撃的走行に徹していたのはここでの遅れを計算してのことだ。
いくつかの信号、交差点を抜けたカタナが最終コーナーを回る。スロットルは絞られたままだ。閑静な住宅地に爆音は似合わない。
目的地に着いた。カタナをサイドスタンドに預け時計を見る。
「二十分か、まずまずだな」
降車し荷物を抱えた彼が急で長い階段を走り抜ける。切らした息を悟られないよう深呼吸しインターホンに向かう。
「お持ちしました」
ロックを外す金属音が届く。ドアがゆっくりと開かれる。上品な老婦人が姿を現した。
「待ってたのよ」
保温ケースを
「あなたの焼き立ては最高だわ」
お世辞が混ざっているのは承知だが彼は目を細める。
「紅茶を入れるから上がっていって」
丁重に断った彼は簡単な挨拶を残し来た階段を下りる。
昔、ある金持ちがオーダーした某有名スポーツカーメーカーの競技用車両が、その不格好なフォルムからパン屋のバン、ブレッドバンと呼ばれたことがある。今日の彼を待つカタナは差し詰めパン屋の弾丸、ブレッドビュレットか。決して不格好ではなくライフル弾の如く流麗なのは言うまでもないが。
(注意) 言うまでもありませんが拙いフィクションです。公道は法規遵守で利用しましょう。また不必要な空吹かしなどは迷惑です。節度を持って乗り物に接しましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます