第54話 ネイバーフッド協奏曲
「自転車、出来てるかしら?」
「自転車?……」
問いかけたのは買い物帰り思われるご婦人、困惑の表情を浮かべているのは知だ。場所は触れるまでもないが、皆さん、お馴染みのバイクショップである。奥から姿を現した店主が応える。
「あ、出来てますよ。油も
「ありがと。おいくら?」
「初めてですし、ご近所ですので五百円にしておきます」
「安いわねぇ。大丈夫なの?」
「あぁ、はい。次からは通常料金ということで。知、お会計して」
狐につままれたような知がレジに立つ。
「五百円になります」
「ちょっと。あなた評判いいわよ。若いのにしっかりした奥さんだって」
「おっ、奥さん?!」
「じゃぁね」
知が言い訳をする間もなく笑みをたたえた客が去る。去ると同時に知は疑念を抱いた。ここは自動二輪車、オートバイ販売店であり自転車の整備は扱っていない。よって「通常料金」は存在しない。問いただす。
「なんで自転車のパンク修理やってんの?」
「自治会の人が公園で使う草刈機が動かない、って持ってきて」
「それで直しちゃったと」
「そう。そしたら次々にいろんなものが持ち込まれて」
これだから
そんな知の想いも知らず、店主が敷地内とも歩道上ともつかない場所から展示品のスクーターを片付け始めた。午後の天気予報は雨だ。
数台、運んだところで十メートルほど先から声がかかる。
「もう閉店なの?」
「あぁ
「これ診てくれる?」
店主から大内と呼ばれた客が押してきたのは大柄な原付二種だ。バンパーが目立ち、後部に特大のプラスチックトランクを備えている。
「どうしたんですかこれ? いつものカブは?」
「カブが配達で停めている時に
「なるほど。怪我がなかったのはなによりですが。で、押してきたということは動かない、と」
「そうそう。エンジンかからないの」
「取り敢えずピットに入れましょう」
店主は店の前でハンドルを受け取り引き入れた。ザッと観察する。
「これ、暫く動かしていなかったんでしょう」
「うん、そう言ってたよ」
「保管は外じゃないですね」
「うん、ガレージの中にあった」
燃料タンクキャップを浮かせタンク内を覗く店主。錆はないようだ。
「これなら大丈夫ですよ。キャブレターのオーバーホール、いや、分解洗浄程度で元に戻ります」
「助かるよ。それで、悪いんだけど明日の配達に間に合うようにやってくれる?」
「分かりました」
「じゃぁ頼むね」
渋い顔で見ていた知が
「大内さんって?」
「そこのパン屋さん。手作り焼き立てベーカリーで配達もやってるの」
「で、明日の配達までにって、間に合うの?」
「ご近所様だからね。断れないでしょ」
「あーぁ」
呆れる知を
「これ、なんていうバイク?」
「GN125」
「スズキだよね? どう見ても実用車なんだけどいつの?」
「最近のだよ。去年までかな、売ってたよ。それに元から実用車ってわけじゃないよ」
「どういう意味?」
「八十二年にアメリカンモデルとして発売されたの」
「八十二年? それを去年まで販売してたの?」
「知も言ったみたいに実用的で、これといって欠点がなく構造もシンプルだから需要があったんだよ。国外では」
「国外? ますます分かんない」
「これ中国製。前世紀の終わりかな、日本での生産は終了して。近年の物は中国からのOEMモデルだよ」
「中国って品質は?」
「あぁそれは問題ない。スズキがちゃんと技術供与してるからね。でも『本家』以外のコピー品もあるから、それには要注意だよ。さてと」
僅かな話の内にキャブは機関から切り離されガスケットを破らないよう慎重にフロート室が開けらる。
「やっぱり。ガスが腐ってる」
店主はジェットなどを丁寧に洗浄すると動きを確かめ組み上げた。新品のフュエルホースを使用して車両に取り付けられる。
「だけど芋っぽいね、スタイルが。芋っぽいんだけど魅力的。変に重厚な感じもするし」
貶めているんだか持ち上げているんだか突っ込みようがない知の感想に店主が解説を加える。
「未だ日本人が本物のアメリカンを理解していない頃の和製アメリカン的バイク、かな」
「最近のスマートなクルーザー、アメリカンとは全く違うね」
「うん。だからジャメリカンとかジャパリカンとか言われたり」
「初めて聞いたわ。区別したい気持ちは分かるけど、その呼び方はどうなのよ」
「どうでもいいんじゃない? アップハンドルと段付きシートにマフラーなんかのメッキパーツを与えただけ、って、日本のアメリカン黎明期を笑う人もいるけど、オーナーが気に入っていれば、それでいいんじゃないかな。日本人なりに努力して創ったんだし」
もっともだ。バイクなんて乗っている本人が気に入っていればそれでいい。それに独特の味わいがある和製アメリカンも悪くない。
納得している知を前に店主はオイルを換え古いガソリンを抜いたタンクに新しい燃料を
一撃とは行かなかったが短時間で覚醒した。暖機しつつブレーキ、灯火類などを点検する。タイヤも換えた方が良いが今日でなくとも構わないだろう。
エンジンに完全に熱が回り静かな単気筒の鼓動が安定したところでイグニッションが落とされた。
「速かったね、仕事」
知が放った「褒め言葉」に無言ながら微笑みで
翌日、最早、日常の一部のように知が店を訪れる。
「わっ、凄いじゃない」
カウンターに置かれたラタンのバスケットにライ麦パン、バケットとハード系からソーセージやワサビごぼうの総菜パン、オレンジタルトやアップルパイに至るまで、ありとあらゆるパンやスイーツが山盛りとなっている。悪戯な顔の店主が口を開く。
「な、近所付き合いも悪くはないだろ」
いつも通り知がスツールに陣取ると店主は豆を選び、挽き、カタカタとなるコンロのケトルを握る。ドリッパーの粉が微細な泡を伴い膨らむ。やがて店内は甘い香りに包まれ、天板にコーヒーと焼かれて間もないパンが舞い降りた。
「ご近所様か」
知と店主が束の間のブレークタイムを楽しんでいると玄関の鐘が鳴った。
「これ動かなくなっちゃったんだけど」
二人は目を見開いた。
「掃除機はちょっと……」
「そうなの? 残念ね。邪魔して悪かったわね、奥さん。頑張ってね」
沈黙の空間でドアが閉じる。店主の視線が知に向いた。肩が小刻みに震えている。
「だーかーら。私は奥さんじゃないって!!!」
パンをくわえたままの叫びは窓の外を行き交うご近所様には届かなかった。
(注意) 親しい間柄でも車両を借り受けたり譲り受けたりする時は保険に注意しましょう。万が一の場合、任意保険でトラブルを起こすと補償が問題となるだけでなく、後味も悪くなります。また、ご近所だから、付き合いだからと、なんでも気軽に引き受けると大変なことになる可能性も。出来ないことは出来ないと言いましょう ;)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます