第53話 バーンドバーニングアイ

 以前、例の男のガレージワークをお届けしたことがあり終幕に


「このような点火系を組むと問題を起こす。彼ものちに気付くが、それはまた別の話」


 と記した。今日はその「別の話」を語ろう。


 快晴の日だった。丁度、見頃となった桜を散らす風もない。短く高速を流すには絶好の気候だ。肌を撫でる空気は限りなく心地好いだろう。男は愛機バーニングアイのキーに手を伸ばした。


 ジーンズにパーカーという普段は目にしない服装で男がシャッターを開く。勿論、一見、なんの変哲もないカジュアルウェアでもライディング用のプロテクターが装備された「ギア」だ。近年は単車を降り街を歩いても違和感がない粋なものも増えた。最近の彼はレーシングスーツを必要としない場面ではこのようなコーディネートを愛用している。バイクを意識させるようなジャケットなどは好まない。無口な男は意外とファッションにも拘る。


 夜間ではないので愛機を引き出し陽光のもとで一通り点検する。前日まではすこぶる快調だったので特に気に留める点もない。通常のルーティーンのみをこなす。異常なしと判断した男はフルフェイスとグローブを着用しクルマが残るマイピットを厳重に施錠する。


 近隣住民の迷惑を考え表通りまで押された小刀に火が入れられる。春の陽気なので始動も容易だ。ダイレクトイグニッション化によりチョークを不要とした黒いモーターが一撃で覚醒する。


 インカムとナビの接続を確認しミラーを調整していると暖機が終了した。回転計の針は低い位置で安定している。発進する。


 やはり風が心地好い。唯一、露出した首は当然のこと、ダクトを通って抜けるヘルメット内の気流も春の香りを運んでくる。


 数分後、インターの入り口に達した。信号が青になる。直進車の切れ目を待っていたカタナが右折する。ストレートが欲しいので西へ向かうレーンへ舵を取る。複雑に構成されたハイウェイの出入り口はタイトなターンを描く。危険はないので、そこそこのバンク角を伴い加速する。法定速度付近に達したあかい鉄馬はスムーズに本線に導かれた。


 交通量が少ない。スピードは制限をやや超えることとなるが他の車両の線を切ってはならない。六速へシフトアップした彼はスロットルを開きレブカウンターを八千の文字に固定する。


 僅かの時を経て次のジャンクションが近付く。後方から車間を詰めてくる一台が気になる。走行車線へ移動し先に行かせるかと思案した時だ。アクシデントは不意に襲った。


 失火したのだ。一発や二発ではない。全気筒、一度に止まった。長年バイクに乗っていると点火系が死んだ時の症状は体で分かる。男は即座にクラッチを切りハザードを灯し惰性で左を駆けるクルマを縫う。突如、減速する前走車に車間を詰めていた後続車がクラクションを鳴らす。


 なんとか路側帯に着けたカタナが安全な部分を探り停められる。幸いジャンクションの合流地点で、それなりの幅が確保されている。ほぼ事故の危険がないことを見定め降車する。


 シートを持ち上げた男が車載工具を握る。ヒューズボックスが開かれ全てのヒューズがチェックされる。切断されたものはない。イグニッションの電源となるメインヒューズも取り外され目視の後、念のため予備のものに交換される。その他、点火系、電気系を入念に診た男は再びキーを捻りスターターボタンを押した。


 エンジンはかからなかった。沈黙を保っている。リトライされるセルモーターの音が虚しい。


 原因については心当たりがあった。ダイレクトイグニッションコイルとノーマルコイルの抵抗値。その差を埋めるレジスタが充分ではなかった。男が用いたのは0.5オームだ。だが装着されたハヤブサのダイレクトイグニッションコイルは同時点火の二気筒が直列に接続された状態で2オームに過ぎない。0.5オームの補償を足しても純正コイルの整備基準下限値で新品コイルより遥かに小さい。電気をかじった方ならお分かりだろうが同一電圧で抵抗値が下がれば電流は増加する。オームの法則だ。ましてや本来12Vであるコイルの一次側電圧をスパークブースターで16Vに昇圧している。よって、より過大となった電流がコイル、スパークのトリガーとなるイグナイタートランジスタを焼いたのだろう。0.5オームに設定したのは壊れないギリギリのラインを狙ってプラグスパークを強化するためだったが裏目に出た。


 前日までのグッドコンディションに気を許したのが失敗だった。高回転での連続走行でイグナイターに負荷がかかり続けることを考慮しなかった。予備のイグナイターを携帯しなかったのも迂闊だ。男は少し後悔したが気を取り直し転回を行いジャンクションの入り口から一般道へ降りようとした。次のインターの出口までは数キロあるので妥当な判断だろう。


 黙々とくれないの小刀を腕で進める。三百メートルほどで出られるはずだ。それも下り坂なので、さほど時間はかからないだろう。運搬に気を回すのは一般道に降りてからだ。


 そう思っていた男の前に道路パトカーが現れた。二人の係員がカタナを囲む。状況を説明するとカタナを路側帯に置いてガードレールより外に退避した上、レッカーを呼ぶよう指示された。


 抵抗する余地はない。素直に従う。スマホで保険会社に連絡を取る。他車の走行音で会話がままならない。普段、気付かないがハイスピードで走り抜けるクルマのタイヤノイズは相当なものだ。途切れることはないので一層だ。


 片耳を指で塞ぎ大声でレッカーの手配を終えると先ほどの二人はカタナと走行車に被害が及ばないよう発煙筒を設置していた。そのまま待つよう告げられ黄色いクルマは去る。


 鮮紅色の炎を吐く筒達を眺めつつ無心で道の外に立つ男。不思議なことに感情は湧かない。そんな男の前に今度は県警のパトカーが停車する。道路パトから連絡を受けたのか。


 同じ説明を繰り返し、一応、免許証を提示すると警察官は発煙筒を追加し本線へ消えた。


 どれくらい待っただろうか。レッカー車が近付いてくる。四輪車を載せるものと違いはないが二輪にも対応できるようになっていると思われる。


 簡単な挨拶と現状確認を行う。一人で来たレッカー会社の社員は陽気で人当たりが良さそうだ。


「綺麗ですね。この年式なのに」


 彼は気を利かせたであろう言葉を最後に見事な手際でカタナを荷台に載せ、しっかりとタイダウンした。


「ここは危険なので運転手さんも乗ってください」


 男は促され助手席の扉を開く。


「どこに運びますか?」

ウチのガレージにお願いします」


 緩やかに走り出すと当たり障りのない明るい会話が始まる。


「部品は未だありますか? 塗装なんかどうされています?」

「なんとかなっています。外装はキツイですけどね」


 距離はそうなかったので、すぐに辿り着いた。愛機が傾斜したパレットからくだってくる。男は礼を述べレッカーを見送った。


 ガレージの定位置に戻されたカタナ。高性能を誇るマルチスパークデジタルイグナイターからの結線がかれ純正イグナイターが繋がれる。男がセルを回す。予想通り数秒で始動した。


 家屋へ引き上げた男はイグナイター製作者にメールを打つ。そして破損したイグナイターを梱包し、グレーな気分の一日を終えた。


 後日、といっても辣腕らつわんの技師による修理なので中一日だったがイグナイターが返ってきた。焼損したFETが添えられている。受け取りのメールを投げると返信があった。


 ダイレクトイグニッションで性能を向上させるにはドエルタイム、通電時間の関係もあるので専用のイグナイターを用いなければならない。コイルのインピーダンスに最適化されていることも重要だ。なので、たとえ破損しないよう抵抗を追加しても通常のコイル用に設計されたイグナイターを使用していては無意味である。プラグも様々な形状のものを試したがベンチマークで有意義な差は見られない。また本来、破損、焼損を防ぐようヒューズの電流値を設定しているが、なぜか今回は切れなかったようだ。


 概ね、このような内容であった。それを読んだ男はバーニングアイに純正新品コイルを与え現在いまに至る。ただしプラグだけは相変わらず特殊なものを愛用しているが。


 以降、男が整備、チューンに関する全ての作業において、より慎重になったのは言うまでもない。


 なお、この際にイグナイター製作者は小さな悪戯をした。自分が組むつもりだったターボキットを男に託したのだ。顛末が気になる方は「エスカルゴ」をキーワードにさかのぼっていただきたい。





(注意) 拙いフィクションです。公道は法規遵守で利用しましょう。また不必要な空吹かしなどは迷惑です。節度を持って乗り物に接しましょう。通常、故障によるレッカー移動の際は、ドライバー、ライダーのレッカー車への同乗は禁止されていることが多いと思います。今回はストーリーの流れ上、高速に運転者一人を残すわけにはいかないので、こういった形にしましたが、実際に故障に遭った時は指示に従いましょう。本文に用いた抵抗値もフィクションです。この抵抗値でイグナイターが破損するか、しないかは検証していません。

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