第30話 早すぎたハイパーモタード
「おはよー、今日もよろしくー」
格納庫を開いた知が背伸びと共に愛機に挨拶する。欠伸も伴って。時刻は早朝、五時だ。
ゆっくりと後方に引き出されたNSRは一通り点検されると暫く正面の小道に放置される。
知がヘルメット、グローブの順でライディングギアを
サイドスタンドが蹴り払われ、知は黙々とNSRを押していく。
バスも走る幹線道に到達すると住宅街とは反対側の路肩にNSRを据え、フュエルコックを切り替える。数十秒待つ。フロート室は満たされたはずだ。チョークを引く。跨り車体を垂直に立てると知はキックレバーを優しく倒し、踏み下ろした。
一発始動。どんなに古いバイクでも、キャブでも、ツーストであっても抜かりなく整備調整された車両は儀式さえ執り行えば一撃で覚醒する。分かってはいるが気持ちが良い。
一旦、降車し暖機を見守る。ここまで無動力で運んで来たのは近隣住民への気遣いからだ。当然、店長は国が定める騒音基準に沿ったサイレンサーを装着している。知もそのことは承知しているが明け方のアイドリングが迷惑なのは間違いない。こうしたライダー、一人一人の僅かな配慮が、ひいては二輪全体への印象を保つこと、変えることに繋がる。
冷却系が熱を持ち始め回転計の針が揺れなくなった。発進する。
ケーブル下との分岐点を過ぎる。徐々にアクセルを開く。既に暖まった機関に追い付くため体もウォーミングアップする。空気が冷たくなる。もうすぐだ。
「なんだか気分がいい。これはこれでいいかも」
遂に禅の境地に至ったか、と錯覚した時だ。ミラーにフィラメント特有のオレンジの光が映った。弱々しく存在感に欠ける灯り。
「オフ車か?」
当たっていた。大柄だが華奢な緑の影。乗り手はオンロード用のフルフェイスを被っている。
「先に行かせようかな」
穏やかな朝を邪魔されたくない、そう感じた瞬間、パッシングが炊かれた。
「抜けるスペースを作って上げようかと思ったのに」
知の頭のスイッチングは駿足だ。そして身体のスイッチングは光速だ。次の風を許さずレブカウンターがパワーバンド中央に叩き入れられた。
もうNSRの高速増殖炉は停められない。薄い膨張管が乾いた破裂音を木霊させる。カウルが大地に近付く。されど後続車は間を空けず追走する。
「モタード?」
後ろを
「16インチか?」
そう、背後に迫るのはオンロードスポーツでは忘れ去られようとしている16インチタイヤだった。
八十年代初頭、それまで18インチ、19インチが当たり前だったフロントホイールを小径化する動きが出てきた。慣性、ジャイロ効果を持つ重量物を小さくすれば挙動がクイックになりターンインが楽になるだろう、との考えに基づく。それが行き着いた先が16インチという究極の小径化だった。
ブームとなり売れたので各社、競ってあらゆる車種に16インチを取り入れた。しかし当時の技術は未熟で小径ホイールを完全に人間の制御下に置くことが出来なかった。結果、マシンは軽く素早く旋回へ向かうようになったが、ナーバスで不安定なものともなった。掴み所が無く、恐怖を抱く者さえ現れた。そこへ元へ戻す力が働き七十年代モデルとの中間を狙った17インチが前後に採用されるようになった。自然なフィーリングの17インチは受け入れられ現在の主流となっている。
その16インチを敢えて今、用いているのだ。吊しではロードモデルより遥かに大きなホイールを履くオフローダーに。
「
限界に近い領域のNSRが追い回されている時点で焦りを感じ始めていた知に、異常な小径ホイールの確認が追い討ちをかけた。
例のタイトターンが近付く。ギャラリーが聞き慣れないサウンドにざわめく。
「なんだ、あの音?」
「ツーストなのは間違いないが」
コーナーの出口に視線が注がれる。
「オフか!」
「KDX!」
「ツーストシングルの高回転だったのかよ」
「KDXってモタード?」
「全盛期のツーストエンデューロにちっこいタイヤ着けただけだろっ! あんなモタードありかよ!」
カワサキKDX250SR。白氷の尻尾を捕えた蛇だ。
ギリギリの綱渡りが続く。
「この先はよりツイスティーだ、NSRには不利な状況になる」
知の予感は悪い方に的中した。
全身を研ぎ澄ましコーナーを削りに入る知。基本に忠実にアウト側からインへ切る。知のライン取りに隙はなかった。
「え!」
KDXは隙がない、完璧と表現しても良い知のラインの更に内側に入り込んだ。卓越したテクニックを持つ者が操るレーサーに近いマシンのインを突く。超軽量スリムな車体を持つオフ車に、ターマック専用に突き詰めた脚を与えてこそ可能なことだ。
刺されても引かずに並んだ知が少ない直線でキャブへのワイヤーを全力で握る。KDXが後れをとる様子はない。高度にチューンされたツーストロークシングルは重量差もあってVツインにも劣らない。
来たるは極小のアールだ。ミスを犯すと立ち上がりで離される。
突っ込みまでが長い。両車ともブレーキを操らずチキンレースの様相さえ呈する。
「ここだ!」
一斉にフルブレーキング、同時にフルバンク。KDXのテールが流れた。今日の知は
「もらったぁー! え?」
信じられない光景が展開された。バンク角を減少させ鞭を打とうとした知の目前を真横になったKDXがスライドしていく。パイロットは躊躇なくスロットルバルブを無き物とし、後輪に白煙を吐かせ、小さな前輪が本来の軌道とは真逆を指すようカウンターを当てている。しかも脚を投げ出すこともなく、しっかりとニーグリップを効かせ機体が暴れないよう抑え込んでいる。
進路を塞がれる形になった知は打つ手がなかった。KDXはドリフト状態のまま次のコーナーのアプローチにかかると弧も描かず渾身の加速を見せつける。知も負けじと追うが、もう植物園まで距離がない。
駄目だった。ゴールのストレートに入ったKDXは減速し、知の隣に付くと高々とフロントをリフトアップしピースサインを掲げる。知は応じつつ姿を網膜に焼く。
美しいライムグリーンにはこれといってモタードに振ったビジュアルはない。ナックルガードもフェンダーも販売当時のままだ。大径ディスクと対向フォーポットキャリパーを連れた小径ホイールが異彩を放つが嫌み無く決められている。赤いハブも印象的だ。
二台は428との分岐点まで並走し、KDXは北へ、知は南へと折れた。
吸い寄せられるように立ち寄ったガレージは営業時間が遠いにも
「どうした? 元気ないな」
「うーん、オフ車にやられた」
「普通だろ」
「え、そうなの?」
「なに言ってんの? 今頃」
「ふーん」
「それなりの腕で仕立てたオフローダーをそれなりの腕の者が使うと場所によっては敵はない」
「そうなんだ。でも、なんだかな、自分がね」
店主が車種を問う。
「で、それなんだったんだ?」
「KDX」
「250?」
「そうだよ、モタードになってた」
「それ乗ってた」
「ホント?」
「あぁ。モタード、って言葉が未だ知られていない頃な。でも直ぐ手放した」
「なんで?」
「速すぎたんだよ。買ったそのままで速すぎ。街中で全くアクセル開けられないから面白くなくて」
「へぇ」
「今なら違っただろうな。モタードの格好の素材だ、スーパーモタードならぬハイパーモタード。時代が追い付いてなかったんだな」
なお納得いかない表情をしている知に、豆棚に目をやる店主が背中で呟いた。
「けど
話は途切れ、店主は静かにコーヒーを淹れると、また工具を手にした。
知は肘をついてカップを持ち、天井を見上げた。
知が再び目を落とすとコーヒーはもう冷めていた。冷たくなったカップをソーサーに戻すと、知は店主に声をかけることもなく店を去った。
(注意) 言うまでもありませんが拙いフィクションです。公道は法規遵守で利用しましょう。また不必要な空吹かしなどは迷惑です。節度を持って乗り物に接しましょう。現実のバイク屋さん、二輪車取扱店、ディーラー、店員さんとも失礼に当たらない距離感を保ちましょう。
バイク屋の店長は店にいる時は「店主」、店から離れると「店長」表記になります。会話文では基本的に「店長」です。
このストーリーは私自身がサーキットでオンロード用のタイヤを履いたツーストオフローダーに刺された経験から綴りました。また登場させたKDX250SRは一時、兄弟が所有していた車両です。最後の知と店主の会話「速すぎて面白くなくて直ぐ手放した」は、私と兄弟との会話を写し取ったものです。
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