第19話 暗黒の日曜日

※「第9話 静寂の鍛冶屋」のセルフパロディ。



 ある閑静な住宅地にコンクリートの堀込みガレージがある。これは以前、述べた。そして今日も真上の建物から来た男がガレージのシャッターを開く。男はクルマを街路へ引き出すと空いたスペースの中央に赤い愛機を据えた。


 レーシングスタンドで支えられた車体にツールワゴンが引き寄せられる。電源タップも配置され照明が機体を照らす。男はブルーのニトリルグローブを装着する。準備が整った。メスが入る。


 現在のチェーンの張りを記録するべくチェーンアジャスターに赤いマジックでマーキングが施される。スプロケットナットにメガネが掛けられあらかじめ緊張をかれる。二十二ミリの大きなナットが緩められホイールは前へ送られる。ナットが完全に取り外されアクスルシャフトが引き抜かれる。落とされたホイールからドラムごとスプロケットが外される。ナットとボルトは切り離され重いスチールのスプロケットが取り除かれた。


 次にレコードジャケットのようなプラスチック袋が用意される。開封される。鈍い輝きを放つ超々ジュラルミンのスプロケットがガレージの淀んだ空気に触れる。


「あ」


 落下した。男は丁寧に拾い上げ損傷具合を確かめる。硬質アルマイト処理により僅かな傷で済んだ。だが嫌な予感が男を襲う。


 男は気を取り直して新しいナットを用い控えめな金色の歯車を固定する。


 先ほどと逆の手順でホイールを組み付ける。アクスルナットにも新品を奢る。


 男がチェーンを引く。決まらない。ここだ、と思った位置でアクスルナットを締めると目盛がずれる。締め込みによりアジャスタープレートが動くからで軸が揺らいだわけではない。それでも男の気分を害する。


 チェーンを引く。ナットを締める。緩める。チェーンを弛ませる。またナットを締める。緩める。チェーンを引く。


 回数を重ねる度、男の機嫌は悪くなっていく。


 そもそも男は軽合金のスプロケットに信頼を置いていない。強度、耐久性では圧倒的に鉄が有利だ。それなのに今、レンチを握っているのはバネ下重量軽減という大義名分と暇潰しのためだ。


 苛立ちが募り、いい加減、飽きてきたところでトルクレンチを使用してアクスルナットに規定トルクを与える男。スプロケットナットも同様に締めスタンドからスイングアームを降ろす。タイヤが接地したので念のためナット類に再びトルクレンチを当てておく。


 男はモヤモヤとした気分でチェーンラインを見定める。出ているような出ていないような。


「こんなものだろう」


 スプロケットが落下した時と同じく心の呟きだ。


 スタンドを仕舞いメンテナンスローラーに後輪を載せる男。チェーンルブをす。タイヤを回し注油部を移動する。


「あ」


 傾いていくバーニングアイがスローモーションで男の網膜を焼く。ローラーを設置した際、サイドスタンドの掛かりが甘かったようだ。男は確認を怠った。くれないの小刀がガレージの床に横たわる。


 スタンドに載せたまま注油すべきだった。やるせない目をした男は仕方なく膝を突きカタナを立てる。


「え」


 前輪が浮いた車体はクランクケースを中心としてグルグル回るだけで一向に立ち上がる気配がない。力を入れれば入れるだけガリガリと各部が削れていく。


 暫く腕組みした男はブレーキロックを利用し、なんとか小刀を自立させた。


 悪夢の整備で黒く汚れたにもかかわらず手にしたままだったグローブを脱ぎ捨て加害状況を調査する男。


「サイドカウル、ウィンカー、ミラー、クラッチレバー、バーエンド、マグネットカバー、カバーエンブレム、シフトペダルピン、ペグ、サイドスタンド」


 男は琺瑯のケトルにミネラルウォーターを入れコンロにかけた。


 一歩引き愛機を一周する男。見慣れた姿に違和感があった。


 カウルからウィンカーまでの距離が左右で異なる。サイドカウルだけでなくカウルブレースも逝ったようだ。


 プラハンで修正を試みるがカウルまで割ってしまいそうなので諦める。もうカウルの脱着さえ面倒だ。


 外した古いナットや純正のスプロケットを集める。洗車用に設置された水道で手を洗う。


 湯が沸いた。豆を挽く。ドリッパーから滴り落ちる褐色の液体が薫らない。男はマン島のコースが描かれたマグカップを傾けつつ研ごうとしたやいば刃毀はこぼれ見詰める。


 気付くと右の薬指に痛みを感じる。爪が割れ血が滲んでいる。なにもかもわずらわしくなった男はニッパーに手を伸ばし、とても手当てとは言えない行為で傷を無かったことにした。


 照明、電源、ツールワゴン、ローラーが片付けられる。男は壁面の安っぽいクォーツで時間を知ると一旦、家屋へ引き上げた。


 横着し作業着に着替えず、カタナを立てるため、お気に入りのジーンズに穴を空けてしまった男がガレージへ戻る。


 ラバーハンマーでサイドスタンドを殴る。タッチアップペンでミラーとレバーを舐める。


 マシンをガレージ壁面へ移動する。クルマを元の空間へ収納しシャッターを閉じる。


 汗だくなのにダウンジャケットを着たままの男が重い足取りで玄関へ向かう。これ以上、時間を費やしても深みにはまるだけだ。


 PCに向かい失った部品を次々と発注する男。パーツリストを片手に三度みたびのチェックが入る。注文するパーツは合っているか、部品番号に間違いはないか、数量は大丈夫か。


 オーケー。クリックする。無駄な休日が過ぎていった。

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