死神の憂鬱

碧石薫

死神の憂鬱

「神様、どうか僕のお願いを聞いてください…」


少年は毎朝毎晩、ベッドの中でお祈りをした。


「僕のママの病気を治してください。ママを元気にしてください」


少年の母は体が弱く、彼を生んでからは一日のほとんどの時間をベッドの中で過ごしていた。

それでも彼が会いに行くと優しい笑顔で迎えてくれて、時々頭をなでながらおしゃべりをしてくれた。

長くは生きられないと言われていた母にとって、少年は奇跡的に授かった子であり、宝だった。


少年は仕事で家にいない父に代わって、母を慰め励ますのが自分の役目と思い、母の前では笑顔を貫いていた。

そして一人になると毎日神様に祈った。


しかし少年の願いも空しく、母は日に日に弱り、とうとう声も出せないくらいになってしまった。


少年は心配のあまり母のベッドの傍から離れず、食事も満足に取らなくなった。

バラ色だった頬は青白く、かつて宝石を宿していた二つの瞳はその輝きを失っていた。


「ママ、ママお願い。死なないで。僕を置いていかないで」


少年はそのほっそりした手で母の手を取り、何度も何度も話しかけた。



それが何日か続いた、ある夜のこと―――


突如、母の足元に大きな影がうつり、白いベッドを覆いつくした。


「え?!」


驚いた少年がそちらを見ると、真っ黒なフードをかぶった大きな男が立っていた。

その男の背には黒い翼が生えていて、窓から差す月明かりを受けて怪しく光っていた。


少年は恐る恐る男に問いかけた。


「あなたは、だれ?」


「私は死神です」


「死神…」


少年の顔が蒼白になった。


とうとうその時が来てしまった。

死神がママを迎えに来たんだ。


少年はそう思って死神に尋ねた。


「連れて行くの?」


「そうです」


「やめて!お願いだから連れて行かないで」


少年は大粒の涙をぽろぽろと零しながら、死神に言った。


死神は深いフードの下から少年を見た。

恐ろしい対象でしかない自分に向かって、真っ直ぐに見つめる彼の大きな瞳を。

青白い頬に光る涙を。


こんないたいけな子供を母親と引き離すなんて。

なんて因果な役目だろう。

せめてもの慰めに、一つだけ願いを聞いてあげようか。


死神は何の感情も読み取れない、冷たい声のままで

少年にとって意外な言葉を言った。


「連れて行くことは変わりませんが、何か一つ願いを聞いてあげましょう」


「え?」


少年は驚いて聞き返した。


「僕の願いを聞いてくれるの?」


「そうです」


「ママを、元気にしてくれる?」


「…元気とは?」


「少しだけでいいんだ!歩けなくても。話がしたいんだ。せめてお別れする時間が欲しい」


「いいでしょう」


「ほんとに?」


「ただし、夜明けまで」



「わかったよ。ありがとう」


少年は死神に礼を言うと母の枕元へ行き、急いで手をとって話しかけた。


「ママ、ママ」


すると母がゆっくりとまぶたを開いた。

そして少年と同じ薄い茶色の瞳を動かすと、愛しいわが子の姿を捉えた。


「ママ!」


母は彼が握っていない方の手を上げると、細くなった指で少年の頬を撫でた。

そして、あの優しい声で言った。


「どうしたの?泣いていたの?」


あぁ…ママの声だ。

少年はいそいで涙をふいた。


「ううん、違うよ。泣いてないよ。ママ、お話しできるんだね」


「ああ、そうね。なんだか今日はとても気分がいいわ」


少年は嬉しさのあまり、死神の方を見た。

死神は深いフードにその無表情を隠したまま、まだそこにじっと立っている。


「誰かいるの?」


少年の視線の先を追ったが、母の目にはあの黒い禍々しい姿は見えていないようだった。

少年は安心して言った。


「ううん、誰もいないよ。僕ね、ずっとママとお話がしたかったんだ」


「ママもよ。寂しい思いをさせてごめんね」


「いいよ。僕は大丈夫だよ。ねぇ、去年の僕の誕生日にくれた子犬を覚えてる?」


「もちろん覚えているわ。あなたと同じ色の毛並みの子犬ね」


「そうだよ、あの子犬、一年ですっかり大きくなってね。今では僕が背中に乗れるくらいだよ」


「まぁほんとうに?」


「そうだよ、この前なんてね…」



二人の話は尽きることが無いようだった。

すぐ近くで、死神は全ての会話を聞いていた。


明るい話し声と暖かい笑顔の、たわいもない親子の会話を。



やがて、月が傾き、暗闇の中に薄明かりが見えるようになった。

少年も気づいていた。この幸せな時間を終わらせる時がきたことを。

死神は、ただ静かにその時を待った。


「ねぇ、ママ。僕が小さかった頃に歌ってくれた歌を覚えてる?」


「もちろんよ」


「あの歌を歌ってくれない?」


「あらあら、おねむになったのね?」


「うん。そうだよ。ママの子守唄で眠りたいんだ」


「いいわよ。いらっしゃい」


母は両手を広げると、その腕の中に少年の小さな頭を抱き、柔らかな栗色の髪を撫でた。

そして懐かしいメロディーを歌い始めた。


少年は泣かなかった。

母の腕の中で、ただただ幸せだった。

その歌声とぬくもりを抱きしめながら、小さかった頃の自分に還って行った。


やがて歌が終わり、母も静かに目を閉じた。

その白い頬に柔らかな微笑みを浮かべたまま。


静まり返った部屋の中には、安らかな一人分の寝息が聞こえていた。



一体自分はいつまでこんな光景を見続けなければならないのだろう。


死神は細く長い溜息をついた。


やがてゆっくりと親子に近づくと、その長い両手を広げて抱きかかえた。



少年の体を。



まるで壊れ物を扱うような慎重さで抱え上げると、ほんのわずかな時間少年の綺麗な顔を見つめた。


そしてその漆黒の翼を大きく広げると、明け方の空へと飛び立って行った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死神の憂鬱 碧石薫 @jasper503

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ